2021年2月6日土曜日

ササユリ



  今日は暖かな一日。三月並みの気温だそうで、空も快晴。

午前中は、通販で注文していたササユリの球根が昨日届いて

いたので、それを鉢に植えた。ササユリの栽培は少々難易度

が高いそうなので上手く咲いてくれるのかは分からないけ

ど、まぁ後は運次第かな。


 その昔は、神戸の六甲山でもササユリは普通に見られた

(子供の頃に見た記憶もある)けれど、この頃はほぼ絶滅状

態だろう。私が六甲山で最後にササユリを見たのは、7~8年

前のことだろうか。獲られてしまうということもあるけど、

六甲山の環境が変わったことが大きいのだろう。それは、環

境破壊ということではなく、逆に六甲の森が深くなったせい

で、山全体がササユリにとっては少し暗すぎるということに

なったのだろうと思う。


 「自然を守れ」という言葉はよく耳にする。私もその方が

いいとは思う。けれど、自然というものは人間の都合とは無

関係に存在しているので、自然を守った結果が、人間にとっ

ては不都合だったり、結果が人にとっては残念だったりもす

る。


 高度成長期には、日本中で川が汚れ、工業地帯や都市部の

川はドブ川と言われた。

 このままではいけないと、川をきれいにする取り組みが行

われ、人々の意識も高まり、今は都会の川でもすごくキレイ

になったし、そのおかげで海の赤潮の発生も激減した。とこ

ろが、川がきれいになり過ぎ、海に流れ込む水が清浄になり

過ぎたおかげで、大阪湾ではイカナゴが撮れなくなり神戸の

風物詩でもある「いかなごのくぎ煮」が作れなくなってき

た。有明海などでは海苔が育ちにくくなっているともいう。

そして、自然を守った結果、六甲山ではササユリのような生

態の植物が消えようとしている。

 「自然を守れ」

 けど、「自然」とは何なのか?


 私の場合、道端のアスファルトのすきまに生えている草に

も自然を感じる。「自然」とは人間のコントロールの外にあ

る存在だと考えているのだが、よくよく考えてみると、人間

がコントロールしきれるものなど存在しない。そういう意味

では「自然」でないものは無い。


 東京の真ん中には、次々と高層ビルができる。そのビルは

出来た瞬間から、いや、建築工事の始まった瞬間から、自然

の力に圧迫され始める。

 重力、風雨、温度、湿度、紫外線、塩分 etc ・・・。た

だ、そこに起きる変化が、人間の感覚では捉えにくいものな

ので気付かないだけであって、どのような人工物も、生み出

された瞬間に「自然」の一部になってしまうのだ。

 さらに言うならば、わたしたちがアタマで考えていること

も、五感からの入力に大きく影響されているし、脳を創った

のも「自然」なのだから、わたしたちの思考すら「自然」の

働きに他ならない。

 わたしたちが守るべき「自然」など無い。

 わたしたちが壊せる「自然」も無い。

 「自然」の一片でしかないわたしたちには、「自然」を壊

すことも守ることもできない。

 「自然を守れ」という想いは、「自然」から分離してしま

っているように感じられ、不安になってしまうわたしたちの

アタマが、その不安を打ち消そうとする足掻きなのだろう。

守りたいのは「自分」なのだ。


 そうであれば、「自分」を守る為にすべきことは分かる。

自分の “思考” をおとなしくさせればいい。“思考” によって

「自然」からの分離感が生まれるのだから。

 そして “思考” をおとなしくさせることで、いわゆる “自

然” を壊すことも、ましになるだろうし・・・。


 この夏、我が家でササユリは咲くだろうか?

 咲いてくれれば、あの気品のある花は、私の中の分離感を

かなり薄めてくれることだろう。


 

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