2019年3月31日日曜日

ああ、疲れる・・・。



 日々暮らしていて、毎日のように〈縁〉という事を考え

る。

 「日々暮らしていて、毎日のように〈縁〉という事を考え

る」と、今、書いたのも〈縁〉である。



 人は、事あるごとに「良縁」だとか「悪縁」だとか言うけ

れど、その人が「良縁だ」と思う事や、「悪縁だ」と思った

りすることも、その思う事までもが〈縁〉です。



 本当の「良縁」というものに恵まれた人は、不運であって

も「悪縁」だと思わないし、幸運であっても「良縁」だとも

思わない。どの様な〈縁〉のはたらきも、「それが自分だ」

として受け取って行く。善悪の比較はさておき生きて行く。

 本当の「良縁」とは、“〈縁〉によって自分を見失わない

態度” を持たされていることなんだと思う。



 さらに、「そのような態度」を持つまでに至らなくて

も、“「そのような態度」を持たされることが「良縁」だ” 

と認識していられることも「良縁」だと思う。

 さらに言えば・・・・・・。

 と、「悪縁」を追い込んで行こうとしかけたのだけれど、

面倒くさいので止めよう。


 ( “自分は「悪縁」に会っている” だとか、“「良縁」か

「悪縁」かなど考える余裕すら無い”とかいうのも、そう思

ったりする自分が存在しているのだから「良縁」だ 。とい

うところまで持って行こうとしたのですが、「ちょっとクド

イかな」と)



 「是非・善悪」を考え始めると際限がありません。

 宇宙が生まれて、やがて消えるとしても、そのことには

「是非」も「善悪」もありません。ありようがない。そのよ

うなものは存在しない。
 
 けれど人は、そこに「是非・善悪を持ち出してしまう。

の〈業〉として・・(その〈業〉は「悪縁」かもしれませ

けどね)。


 「是非・善悪」は人間の恣意性によるものです。それはわ

たしたちのアタマの中にしかない。けれど、わたしたちはも

う長い間、「是非・善悪」があることを前提に社会を動かし

て来た。そうせざるを得なかったのですね。

 わたしたちの先達は、その中で大変な苦労をしてきたわけ

ですが、もういい加減にしても良さそうだと思うのですが、

どうでしょう?


 釈迦や老子・荘子・ソクラテスなどは、もう二千年以上前

に「人は本来、是非・善悪より大きな存在である〈世界〉と

ひとつである」ということを示したのに、いまだに、わたし

たちは懲りもせずに、アタマに惑わされて無意味な事をし

けている。

 二千年ですよ・・。それこそ「悪縁」と言うべきでしょう

か?


 ハッキリ言って、私はもう、生きているのが面倒くさいん

です。

 人間と関わるのが面倒でしょうがない。

 何も私が「高潔で優れた人間だ」などと言うつもりはあり

ません。単に世の中を見て思うのです。「仲良く出来ないの

か?」と。


 どんな些細な事にでも「是非・善悪」を持ち出して、比べ

合い、馬鹿にし合い、貶め合い、殺し合う・・・。嗚呼、メ

ンドクサイ!



 人には、生命には、“生きようとする衝動” というものが

有って、それが為に私は生きていますが、自分も含めた人間

の〈アタマの悪さ〉には、本当に疲れます。


 神社なんかに行って、「どうか、良縁に恵まれますよう

に・・・」などと祈る・・・。

 自分の方が、出会った人に対して「良縁で在ろう」なんて

ことは思いもしない。

 自分が、“出会った人に対して「良縁で在ろう」” とする

ことが出来るなら、それは自分にとっても相手にとっても

「良縁」でしょう?(『素敵にめぐり会おう !』2017/12 

ということも以前書きました)
 

 どのような境遇であるにせよ。自分が自分であること

が、最良の「縁」なんですよ。

 だって、みんな自分を生きるしかないんだから。それを

「悪縁」だなんて言ったってしょうがないし、自分が自分を

「悪縁」だと見做すのは、自分に対する冒涜ですよ。

 このエゴの渦巻く人の世の中で、せめて自分が自分を肯定

してあげなくてどうします? わたしたちは、「悪縁」に惑

されちゃいけない・・・。

 自分を肯定できないから、人と比べるし、自分を肯定する

為に、人を否定する・・・。

 もう、「タネ明し」は二千年前に済んでるはずなんですけ

どね・・・。


 なぜ今回、私が〈縁〉について書き出したのかは知らな

い。そういう〈縁〉なのでしょう。それに、これが世の中に

何かの〈縁〉で繋がるのかどうかも知りませんし、それが

「良縁」になるのかどうかとなれば、さらに知りません。


 いろいろと矛盾したことも書きましたが、〈縁〉の中で

〈縁〉を語るのですから、矛盾せざるを得ません。ただ、そ

の矛盾さえもが何処かの誰かの「良縁」になることを願うだ

けです。

 私とあなたが「良縁」に恵まれますように・・・・。








 

2019年3月30日土曜日

魂に罪は無い



 「魂に罪は無い」と、前回書いた。

 ここで言う「魂」とは、精神だとか心だとかとは少し違

う。

 精神や心としてわたしたちが自覚する “はたらき” が、

れる “場” として「魂」という言葉を使っています。「無限

定の意識」というか、「比較以前の存在としての、命」とで

もいうようなものですね。

 そのような、 “区別、価値判断が存在し得ない「命」の在

方” には、罪は犯せない。何の不足も欲求も持っていなく

て、ただ存在することだけで充足している。人間の是非・善

悪の価値判断のまだ奥にある。

 是非・善悪の価値判断の外側に、無限に拡がっているも

の・・。


 孫悟空がどこまで行っても、 “お釈迦さまの手のひら” の

上だったように、是非・善悪の区別・価値判断に右往左往し

ているわたしたちの思考は、自分が価値ある者だと自惚れて

いる孫悟空のようなものでしょう。 “自分という価値” の外

側に、《限定しようの無い世界》がある。それは誰でも感得

することができるはずのものですが、「思考」という “比較

するはたらき” がそれを邪魔している。


 わたしたち人間の五感というものは、世界の中の「差」を

捉える為にあります。人間だけに限らず、すべての生物が、

世界の中の「差」を捉えることで生きています。

 目は、光の明暗の差や色という周波数の差を捉え、鼻や舌

は物質のもたらす刺激の差を捉え、耳は空気などの振動の周

波数・圧力の差を、皮膚は温度・湿度・圧力の差を捉える。

そうやって、生命は周りの環境を把握してそれに対応しよう

としています。


 生物の持っている、その「差」を捉えるはたらきは、わた

したち人間が「思考」を持った時、当然の事として「思考」

に組み込まれた。そして、単に物理的な「差」を捉えるだけ

にとどまらず、「思考」が自ら生み出す(想定する)約束事

の世界の中で、ありとあらゆるところに「差」を捉えてしま

うようになり、かえって生きることが大事(おおごと)にな

ってしまったんですね。


 「思考」に悪気は無いんですね。ただ、生きる為に「差」

を捉えようとしているだけです。

 だって生命は「思考」を持つ前から、「差」を捉えること

で生きて来たのですから、それが自らの「思考」の世界の中

であっても、「差」を見ずにはいられません。

 けれど、「思考」の中の「差」は実際の世界の中には無く

て、自分たちの「思考」の中にしかないものですから、結果

的に実際の世界との間に齟齬を生みます。

 わたしたちは「思考」の中で、自ら生み出した「差」を捉

え、その「差」に右往左往し、他者に対しても自身に対して

も「罪」を作る。

 いったい何をやっているんでしょう。まったく “骨折り損

のくたびれ儲け” 。


 今朝も、テレビで「空飛ぶバイク」の話題を取り上げてい

たけれど、「思考」の世界でジタバタ・ノタノタと動き回っ

ている姿は、孫悟空にも失笑されそうです。

 人がやる「正しいこと」や「良いこと」も、「思考」の世

界の中での恣意的な価値判断で一人相撲をしているようなも

のです。「思考」の世界の外には、 “お釈迦さまの手のひ

ら” に例えられるように、安楽な世界が拡がっているのに

ね。

 (「オマエは見たのか?」と言われそうですが、時々「チ

ラっ」と見ます。・・・あなたにも見られます。・・・なん

て言って、宗教の勧誘をしようというんじゃないですよ)



 「魂には罪は無い」というか、「魂の世界には、罪は存在

しようが無い」。


 「あれは良い。これは悪い」と四六時中 “是非・善悪” の

価値判断をしているわたしたちの「思考」は、自分たちのま

わりに「罪」を設定する為にエネルギーの半分以上を使って

いるようです。不愉快で、くたびれて当たり前ですね。


 人間のやることは、ほとんどすべて「マッチポンプ」で

す。ああ、疲れる・・・。




2019年3月28日木曜日

みんなが「裁判官」というアホな世界



 「生きることは苦である」とお釈迦さまは言った。

 なぜわたしたちは、苦しむために生まれて来なければなら

ないのだろうと思う。子供の虐待のニュースなどを見る時は

なおさらそう思う。

 その一方で、このごろの私は、そのような事件に対して

も、ものが言えなくなってきた。評価、判断が出来ない。

 虐待する方も、虐待される方も、どちらも不幸だとしか思

えないから。


 そりゃぁね、虐待される子供の方が可哀相で心配ですよ。

殺されてしまう事もあるし、そうでなくても、それから先の

その子の人生を思えば言葉も無い。けれど、だからといって

虐待する側を完全に「悪」と見做すことはできない。これま

でに何度か書いているけれど、犯罪者になるつもりで生まれ

て来る人間はいないだろうから。誰もそんな運命望まない。

けれど、そうなってしまう。


 罪を犯した人間の “罪” は罰さなくてはならないだろう。

けれど、その全人格を罰することはできない。人が罪を犯す

のは、その不完全さ、弱さゆえだから。

 自分のことを考えてみても、私が罪を犯していないのは、

私の人格が優れているからではなくて、今のところ罪を犯さ

ない境遇にあるというだけのことだ。だから、私には人を裁

く資格が無い。明日は我が身かもしれないのだから。


 ネット上では、毎日誰かが批判され、裁かれているけれ

ど、そんなことは大昔からの人間の日常だ。伝達・拡散のス

ピードが上がって、その質も変化しているけれど、その本質

は同じだろう。他者を裁き、貶めることで、相対的に自分の

立場を上げたり、自分の正当性を信じ込んだりしたいのだ。

けれど、いったい誰が人を裁くことができるだろう。誰も、

何も裁けないはずだ。誰も、誰かを裁く根拠なんて持ってい

ない。単に「わたしは気に入らない」という気分に、正当に

思えるような理由を付けるだけだ。

 罪を犯すのが「弱さ」ゆえならば、裁くということも「弱

さ」ゆえだろう。「裁く」という行為の根底にあるのは、不

安や怖れなのだから。もちろん、それぞれの「弱さ」が向い

ている方向は違うが・・・。


 これまでも度々書いて来たけれど、社会の中で罪を犯した

者は、それが法に触れるかどうかに限らずその責めを負わな

ければならないが、本当の意味での責任は、その当人には無

いと私は考えている。だって、人には自由意志は無く、ただ

止むに止まれずそのように行動しているだけだから。


 間違いなく罪を犯している被告に対して、私が裁判官な

ら、どんな場合も次のような判決を下す。


 「被告は “有罪” (それが相当であれば死刑)。ただし、

その魂は “無罪” 。」


 仮に、自分の大切な人が殺されても、私はそう判決するだ

ろう。(ホントかな?)

 だって、そうするしかないのだから。


 それがどんな人間であれ、魂に罪は無い。魂に罪は犯せな

い。罪を犯すのは、わたしたちのエゴ、あるいは無知だ。

 社会の関わりの中からエゴは生まれ、社会との関わりの中

でエゴは育つ。そのようなエゴの中には、「反社会的」とい

社会との関わり方をするものも現れて来る。社会は差別に

よって動いて行くものだから、その当然の帰結として・・。


 「反社会的な人間」は社会から排除される。

 けれど実際には、 “社会から排除されたから”   あるい

は、社会に上手く適応できないから  「反社会的な人間」

になる場合も多いだろう。その場合は、社会が犯罪者を生ん

でいる事になる。実のところ、割合としてはそちらの方が多

いだろうと思う。「本質的に反社会的な人間」は、それこそ

〈反社会的人格障害〉のように、脳機能に問題を持っている

者に限られるだろうから。

 “社会から排除された人間” であれ、“本質的に反社会的な

人間” であれ、それは当人のせいではない。そのような人間

の〈罪〉は裁けても、その人間そのものを裁くことはできな

い。少なくとも、私はその資格も正当性も持ち合わせていな

い。


 とはいうものの、私もすぐに裁きたがる。

 うっかりしていると、すぐに人を裁いている。油断も隙も

ない。

 人を裁くことで、その反作用としての、束の間の “自己肯

定感” を得ようとするのだ。どうせ後味の悪い思いをするの

に・・・


 人を裁くと、その “裁き” の正当性を保持しようと、「自

分は正しかった、正しかった・・・・」と、いつまでも自分

に言い訳をしていなければならなくなる。それは、恐ろしく

くたびれる事だし、精神衛生上よろしくない。

 寄って立つ法律でもあれば、それによって「自分は正し

い」ということで納められるけれど、「自分は正しい」が自

分の判断である場合は、そこに確固たる正当性を得られるこ

とはない。「自分は正しい」という考えを放棄しない限り、

永久に「自分は正しい」に縛られる事になる。

 個人的に人を裁くと、裁いた人間の方が ”「自分は正し

い」という牢獄” に入る事になる。

 人を裁いたりするもんじゃない。


 ちょっと「違法薬物をやった」とか、「不倫した」とか、

「バカなことを言った」とか、そんなことで、 “罪” を裁く

のではなく、誰もが “人” を裁く・・・。

 「ふぅ~ん。あんたたちはよっぽど素晴らしい人間なんだ

ね」と、私はひとりでイヤミを言う。


 私は、人間という “出来損ない” の存在なので、とてもじ

ゃないが人を裁けない。

 (出来損ないなので)ついうっかり人を裁いたりすると、

後で自分にうんざりしてしまう。『天に向かって唾をする』

という状態になる。イヤになる・・・。


 「裁く」というのは、〈アタマの悪さ〉の典型的なものだ

ね。ひととき気分がイイけれど、その副作用の方がはるかに

強い・・・。ヘロインより人を不幸にするんじゃないだろう

か・・・。(こんなことを言うと、裁かれるんだよね。断っ

ておきますが、私は向精神薬否定派です。かぜ薬だって飲ま

ないんですから・・・)

 今日は、お終い。




2019年3月24日日曜日

生(なま)の春を感じる


 我が家のユキヤナギは満開を

過ぎた。今年は少し早いね。

 あの無数の花が、まさしく

「咲きこぼれる」姿には毎年感

嘆する。この世には凄いものが

いっぱいある。


 「凄いものがいっぱいある」ので

はなくて、「すべてが凄い」のだ

が、日常の中ではそれに慣れてしまって、なかなか意識でき

ない。ボケてしまう。



 私にとって、花や木を見たり触れたりすることは、ボケた

あたまをクリアにするための行為だろう。そうしてクリアに

なったあたまは、他のものもクリアに見られるようになる。

人為というフィルターが弱まって。


 わたしたちは、「思考ボケ」「観念ボケ」とでも言うよう

な状態で日々を生きている。感動するのだって、「思考」

「観念」の枠組みの中でというのが大半を占めている。感動

する事は良いことのように思われるが、「思考」「観念」の

枠組みの中では決して良いこととは言い切れない。ヒトラー

の演説に人々が感動して “何” が起こったか?


 感動するのなら、「思考」「観念」に隠されて見えなくな

っているものに気付かされるということがイイ。「生(な

ま)の世界」を見てしまうことが・・。

 人は「生の世界」を見てしまうと、言葉を失う。当然だ。

それは言葉以前に存在している世界だから。言葉の出る幕は

無い。

 そして人は、「言葉以前の世界」を「言葉以前の意識」で

感じる。さらに運が良ければ、「言葉以前の意識」で理解す

る。わけも分からず「了解」してしまう。

 「・・・そうか・・・。」と。


 なにも春には限らないのだけれど、他の季節に比べて、春

はそのような「了解」のチャンスがふんだんにあるように思

う。もっとも、自然に目を向けなければ、春も何もあったも

のではないけれど。


 なぜ、この花は赤い?

 なぜ、この草は光をめざす?

 なぜ、この木はこの木でありえる?


 “そう” だから、“そう” なのだ。

 「思考」が黙るしかない “存在そのもの” が、そこに在

る・・。春には、 “やられる” 。


 ユキヤナギの純白。

 純白の花と言えば、ハクモクレンやカラーも思い浮かぶ。

けれど、それぞれに純白でありながら、少しずつ違う。純白

の中にさえ違いがある。それぞれの存在がそれぞれの違いを

持っている。そしてその違いを、人は見てとることが出来

る。見てしまう。

 凄いことだと私は思う。何がどう凄いかと伝えようが無い

し、伝えようとする事が無粋だとも思う。


 人が言葉で理解しようとすることは仕方がない。

 けれど、言葉で理解することで、多くのものを失っている

事は間違いないだろう。

 世界の “事” の、せめて三分の一でも、言葉にお休みして

もらって「了解」しようとするならば、人はずっとしあわせ

になるだろうね。世の中だって、かなり安らげる所になるだ

ろう。


 来週には桜が咲き誇るだろう。

 そして、百花繚乱の季節を迎え、新緑が萌える

 春は命のエネルギーがあふれ出す。


 嬉しい。

 春です。




 

2019年3月21日木曜日

「幸福度58位」だそうだ



 国連の「幸福度調査」とやらで、日本は58位になったそ

うだ。「どこがクールジャパンだ!」なんて思いますが、あ

る意味「クール」なのかもしれない。


 「選択の自由度」とか「寛容度」が低いと見做されたこと

が、順位を下げている要因だそうですが、日本社会の同調圧

力の強さや管理主義を考えると、そうかもしれないとは思

う。ただ、このランキングには、キリスト教文化圏の個人主

義などの価値感が色濃く反映されているんじゃないだろう

か。そういう文化的な価値感の違いを踏まえた上で、こうい

う情報は捉えた方がいいだろうね。「寛容度」にしたって、

それぞれの国の国民性や民族的背景で、「寛容さ」を示す対

象が変わるだろうし、お互いにその違いは理解しにくいだろ

う。

 「選択の自由度」にしたって、アメリカやヨーロッパの人

間は、やたら「選択、選択」と口走って、「物事は自分で決

める」人種であるのに対して、日本人は「おかげさま」で、

「和を以て、尊しとなす」でやって来たわけですからね。同

じ価値観で量るのは無理があるでしょう。別に日本が何位だ

って構わないけどね。


 こういったランキングで、女性の社会進出というか男女の

社会的平等性を示すものがありますね。企業の経営者に女性

が占める割合とか、政治家の何パーセントが女性かといった

ことを指標にして、女性が男性と平等に扱われているかどう

かランキングする。

 こちらの方でも、日本は順位が低い。

 けれど、社会進出することが良いことなんですか? どこ

からそういう公式見解がでて来たのですか? 昨日「新社会

人」について書きましたけど、女性の社会進出だって、うま

く乗せられて、社会に利用されてしまっているのかもしれな

いじゃないですか。専業主婦でしあわせを感じて生きている

人はいっぱいいるでしょうしね。

 「社会に出てくる」=「良いこと」というのは、偏狭な価

値感だと思いますよ。

 「社会に出たくない人」「社会に出る必要を感じない人」

や「その国や民族なりの男女の役割分担が上手く成立して、

機能している社会」に対する、「寛容さ」を欠いているんじ

ゃないでしょうか?


 キリスト教文化圏の人は、自分たちの価値感を、独善的に

他の社会に押し付けてくるきらいがあります。

 “男女の性差を社会に反映する” という「選択の自由度」

や「寛容さ」は認められないのでしょうか? えらく「不自

由」で「不寛容」ですね。


 確かにね、社会的に見て不利益・不公平な立場を強いられ

ている人に発言の機会が与えられていないとかいった事は、

無くさなければならないと思いますよ。けれど、国連という

場で支配的な価値観が、人類共通の「善」とされるのは違う

でしょう。国連なんて所詮政治の場じゃないですか。

 女性に(男性にもですが)「社会に出ることが善」という

価値観を植え付けて、社会を動かす為に利用しようというこ

とに成功した社会は、当然それを正当化して、敷衍して行き

たいでしょう。もっとも、この手のランキングを作る人間

は、大真面目でそれが「善」だと思っている事でしょうけ

ど。


 「幸福度ランキング」だって余計なお世話だし、そもそも

「幸福な社会」に暮らす人ひとりひとりが、本当に、どのよ

うに・どの程度「幸福」かなんて調べようがないですよね。

「幸福」は個人の内面のことですから。

 (とはいえ、紛争地であるとか、あきらかに女性や子供や

ある種の人々が虐げられているという国や地域はありますか

ら、それは「幸福な社会」とは言えないし、そこに暮らして

「幸福」を感じるのが難しいのは確かでしょう)


 日本の自殺率なんかを考えると、日本は「幸福な社会」で

はないだろうとは思いますけどね。孤独を感じている人の割

合も、ダントツに高いそうですし。

 けれど、それらも他の国にくらべて「自殺に対するハード

ルが低い」とか、「孤独という概念が違っている為に、“孤

独だと感じる人” が他の国よりも多い」という文化的背景も

あり得るでしょう。昔っから「個人主義」の国と、もともと

「家社会」を長くやっていた国では、孤独を感じるシチュエ

ションが違っていても不思議じゃない。

 そういう文化的背景や歴史は無視して、自分たちの作った

基準ですべてを比較しようなんて、独善的でイヤラシイと思

いますけどね。


 そもそも、「“社会” が『幸福』ということに口出しする

んじゃねぇ!」と思いますね。

“社会” は、個人を幸福にはしないんだから。


 まぁ、今の日本が「不寛容」で「不自由」なのは、本当だ

とは思いますね。キモチ悪い世の中になりました。

 外国のことはよく知りませんが、どの国にしても似たよう

なものでしょう。それぞれに違いはあっても、所詮人間のや

ることです。人間が集まって社会を作るのですから、良いこ

とばかりのはずが無い。今、良い国でも、たまたま「今が良

い」時期だというに過ぎないかもしれませんし。


 人はみんな “出来損ない” です。

 “出来損ない” 同士が、比べ合って、批判し合って、裁き

合っても仕方がないと思うんだけど、“社会” とやらがそう

仕向けるんですね。おだてたり、すかしたり・・。


 「幸福な社会」なんてあるのでしょうか?

 「暮らしやすい社会」というのはあるでしょうが、「幸福

な社会」は無いでしょうね。「幸福」という言葉は、個人に

対して使われるものだと思いますね。





 

2019年3月20日水曜日

「新社会人」への言葉



 もう三月の下旬だ。歳を取るとあっという間に一年が過ぎ

る。この分じゃ、気が付いた時には死んでるだろうな。もっ

とも、死んでいたら気が付かないけれど。


 今年も、「新社会人」と呼ばれる子たちが社会に押し出さ

れてくる。夢や希望を持った子たちもいるのだろうが、「新

社会人」のほぼ100%は、経済を動かす為のパーツとして 

“社会” に組み込まれてしまうだけのことだ。“夢や希望” 

は、多分 “夢や希望” のままになる.

 仮に “夢や希望” が叶ったとしても、“社会” の中で叶えら

れた “夢や希望” は、 “社会” に取り込まれた “夢や希望” 

であって、個人のものではない。自己実現したいという欲求

をうまく利用されているに過ぎない。“社会” は、個人とい

うものに何の価値も置いていないのだから。

 だって “社会” には人格も感情も無いので、“社会” 以外の

ものに何の思い入れも持たない。したがって “社会” は “社

会” 以外のものに存在意義を見てとらない。“社会” にとっ

てすべての存在は “社会” というシステムを動かす為の道具

に過ぎないのです。


 時折、 “社会” が個人の為に動くようなことがあるけれ

ど、それは “社会” が個人を守ろうとするように動くこと

が、“社会” にとってメリットがある場合のことです。“社

会” は “社会” の為に存在する。すくなくとも、現代の日本

やアメリカのようなところではね。


 そんな “社会” に出てくる「社会人一年生」に対して、私

からは、「幸運を祈る」としか言いようがない・・・。ホ

ント、殺されないでね。「ヤバイ・・・」と思ったら逃げる

んだよ。・・なんて、ここで言っても何にもならないけれ

ど。


 数千年前の小さな社会なら、 “社会” は人の為にあったか

もしれない。けれどもう随分昔から、 “社会” は “社会” の

為にある。そして今や、“社会” は “経済” の為にある。(よ

かったら『リアルマトリックス』(2017/3) という回を見て

下さいね)


 わたしたち人間は、「 “経済” を動かす為に存在させられ

ている」と見て、ほぼ間違いないでしょう。富める者も貧し

い者も「経済の道具」としては同じです。

 「成功と挫折」、「勝者と敗者」といったストーリーは、

人を「経済の道具」として動かす為の、良く出来たトリック

です。そのストーリーの中で、人は自己実現や自己肯定を求

めるように刷り込まれる。それを達成できなければ、人とし

て不完全なままで終わるのだと・・・。そして骨の髄までそ

んな刷り込みをされた若い子たちが、“社会” に押し出され

てくるのです・・・。


 毎年、この時期、黒いスーツに身を包んだ男の子や女の子

を見る度に、「上手く生きるんだよ」、「苦しいだろうけ

ど、できるだけ自分の感覚に素直でいるようにするんだよ」

と祈る。


 “社会” は強大で、その中では個人など何の力も持たな

い。誰も “社会” から物理的には自由にはなれない。けれ

ど、精神的には自由でありうる。

 “経済” と “社会” の道具となって「成功者」として百歳ま

で生きることと、「挫折者」と見做されつつ、として五十

歳程まで生きることのどちらが幸福か?

 答えを決めるのはそれぞれに任されていますし、 “とし

て「成功者」になる” というのも “有り” でしょう。けれ

ど、本当の「成功」とは “人として生きる” ことだと思うの

で、社会的な「成功」は有っても無くてもあんまり変わらな

いでしょう。オマケですね。(『グリコのおまけ』

(2017/3)というのも良かったら見て下さいね)


 その昔、「六十年安保」や「七十年安保」といった学生運

動がありましたが(私より上の世代ですが)、「新社会人」

になるはずの若い子たちが、みんな “就職拒否” するといっ

た運動が二・三年続いたりしたら面白いんじゃないかなと思

う。

 「こんな “社会” なら、ぼくたちは “社会人” になんてな

らないぞ!」ってね。

 日本でそんなことが起れば、それが世界に波及して、 “経

済” に支配されている世界を変えられるかもしれない(どう

変わるかなんて知らないよ)。


 それはともかく、私は本気で祈っています。

 「新社会人」たちが、 “社会” に食い潰されないこと

を・・。

 なんとか、として生きて行けることを・・・。


 どうか、気をつけてね・・・。




2019年3月19日火曜日

誰のせいでもない



 何を書こうか。

 何か出て来そうな気配なので、パソコンを起動して前に座

っているけれど、まだ何も出て来ない。

 こんな時は、とにかく何か書き始めると、やがて出たがっ

ていたものが顔を出すように思う。思うだけかも知れないけ

れど。


 このブログを書いているのは私だし、書いている事に責任

もあるとは思うが、それは便宜的にそうだというだけで、本

当のところ、このブログがいま存在して、そこにいろいろな

ことが書かれて行くのは、この世界がそのようになっている

からであって、私のせいではない。なにしろ、このブログの

書き手は《人には自由意志は無い》だとか、《世界は惰性で

動いている》だとか言って、根本的に個人の価値や責任を認

めていない人です。すべては成り行きだという考え方の人で

す。

 なんらかの必然があって、このブログを書いているようで

すが、その「必然」がただのひとり言なのか、どこかの誰か

の役に立つのか、それとも誰かの害になるのか、書いてる本

人にはまったくわからない。もちろん私的には、誰かの役に

立ったり、面白がってくれたりして欲しいですけどね。それ

はあくまでも私の希望にすぎない事で、このブログが存在す

る「必然」とはまた別の話です。


 と、気が付けばもう十数行の文章を書いてしまっている。

書いてしまっているし、普通に人が話したりする内容とは、

かなりかけ離れたことを書いている。

 こんな話をほとんど “自動書記” 状態で書いているのは、

やはり《人には自由意志は無い》ということの実例のように

思う。わけもわからずに書いているのです。
 

 今までに書いたものを読み返したりすると、まったく自分

が書いたような気がしないものもある。「いったいなんだっ

てこんな話が出て来たんだ?」と思う。何かが私に語らせる

のですね。ほとんど霊媒師です・・・。ああ、キモチ悪

い・・・、というのはウソで、本人は面白がっています。

「へぇ~、こんなのありなんだ!」とか思ったりするんです

よ、自分が書いたものを見て。


 だいたい「ひらめき」とかってそういうもので、本人にも

その出自が分らないものですよね。現代の脳科学でも「ひら

めき」の真相はわかりません。

 〈脳の中の膨大なデータを、ある関連性に基づいて無意識

検索し、想定外の答えを得る〉のを「ひらめき」と言うの

でしょうが、ここまでは AI がもう少し進歩すれば出来そう

です。けれど、「ひらめき」の凄いところは、その想定外の

答えに、当人が納得するということです。なぜ想定外の答え

なのに「納得する」ことが出来るのか?

 前もって答えが用意されているのではないのに、なぜ「わ

かった!」とか思うのでしょうか?


 《「正しい」とは、そういうことにしておけば気が済むと

いうことである》という言葉が私の中から出て来たのは、も

う二十年近く前のことですが、別に “「正しさ」について思

惟を重ねていた時に出て来た” とかいう由緒正しいものでは

なくて、何だか知らないけど急に出て来たのです。急に出て

来て、「あっ、そういうことか!」と分かったんですね。

 自分が生み出したのではなくて、自分の中にあるものが自

分に教えてくれたのです。私の手柄ではない。けれども、こ

の言葉が自分を通して出て来たというのは、私の〈エゴ的〉

には嬉しいです。だって、この言葉は人類史的に考えても、

非常に力のある言葉だと思うからです。

 ちょっと想像してみて下さい。国連の会議場に、この言葉

が大きく掲げられていたとしたらどうでしょう? それぞれ

の国の代表者は、自国の都合ばかりを言い立てることができ

るでしょうか?

 誰も彼もが、自分の「正しさ」を口にしたとたんに、その

正しさ」の “誤り” を自覚させられるのです。

 世界の平和に大きく貢献できると思うのですが、この考え

は「正しい」でしょうか?(意地のワルイ人間ですよね。こ

の人は)


 ちょっと “私のアタマ” が自慢したがってたので、そうさ

せましたが、ことほど左様に「ひらめき」というものは不思

議だし、わたしたちの「考え」そのものさえ不思議ですね。

 「こう考えよう」と考えて「考える」ことは出来ないでし

ょ? 「考えさせられてる」んですよね。

 「何」に?

 「世界」でしょうねぇ。


 わたしたちの頭を使って、「世界」が考えていると言って

もいいのかも知れません(言い切らないでおきます)。それ

が何の為なのかは分りませんが、まぁ、何かの必然なのでし

ょうね。


 自分の頭から出てくるものが〈アタマ〉経由だと、いろい

ろ面倒な事に振り回されて参りますが、私は「自分の頭から

いったい何が出てくるのかな?」と面白がるように心掛けて

います(その「心掛け」も頭から出てくるのですがね)。世

界は自分に何を考えさせて何をさせようとしているのかと。

 別に大袈裟な事ではありません。「ああ、今日もビールを

飲ませようとしている」というようなことを面白がっている

のです。

 良くも悪くも、「自分って面白いな」、「世界って面白い

な」と。
 

 何の準備も予定も無く、こんな話が出てくるんですから面

白くないですか?
 

 「面白くない」?


 それは、ごめんなさいね。

 でも、私のせいじゃない。知~らない!




2019年3月17日日曜日

ニュージーランドでテロのニュース・・・



 ニュージーランドのモスクでの無差別殺人が、世界的なニ

ュースになっているようですね。このニュースを知った人間

の中には、喜んでる者も大勢いるのでしょうね。


 こんな事がいつまで続くのか? 


 人が存在する限り続くのでしょうね。

 昔も今も、テロであれ戦争であれ個人的な恨みであれ、世

界中で殺人が繰り返されるけれど、それは結局エゴの暴走に

よって起る。わたしたち人間は、全人類が滅びるまでこのま

ま愚かなのだろうか・・・。アタマが悪いままで終わってし

まうのだろうか?


 バカバカしいですね・・。愚かですね・・。やり切れない

ですね・・。暗澹たる気持ちになりますね・・。けれど、こ

の事件をリアルに受け止めてはいない自分が居る。私にとっ

ては、この事件も、ほとんど “ニュース” の一つでしかな

い・・・。

 こういう出来事を、ひとつひとつまともに受け止めていて

は、こちらの身が持たない。精神的な負担が多すぎる。これ

も情報化社会の弊害の一つかもしれない。

 知ってしまう出来事の量が多すぎて、事実に対する人の反

応がどんどん浅くなっているようです。世界の出来事が、た

だの “お話” になってしまっている・・・(とは言え、知ら

なければ “お話” にもならない。わたしたちが多くを知るこ

とになった事が、人を何処へ導いて行くのか・・・)。その

一方で、個人的な事柄に対する反応は過剰さを増しているよ

うにも思いますが・・。


 私はこのブログの中で、「世の中は “お話” に過ぎない」

ということをさんざん書いて来ました。だったら、今回の事

件も “お話” で、それだけの事だと済ませられるかといえ

ば、そういうことではありません。

 「世の中は “お話” に過ぎない」

 けれど、“お話” には「気分の良いもの」と「気分の悪い

もの」がある。こういう、人間の愚かさ、アタマの悪さがモ

ロに出てくるものは気分が悪い。


 そんなこと “お話” なんだから超然としていればよさそう

なものだけれど、人として生きている身としては、それでは

人として生きている意味が無い。こういうことで感情を乱さ

れてしまう事は、人として生まれた限り、受け止めるべきだ

と思う。ただし、その受け止め方は、人を非難したり断罪し

たりするのではなくて、「アタマの暴走をどうするか?」と

いうことに目を向けることでありたい(当事者でなければ

ね・・)。

 「憎しみの連鎖を止める」というのではなく、もっと広い

視点で、わたしたちの「思考」と「感情」の暴走の根っ子を

押さえたい。


 何千年も、あるいは何万年も、わたしたちはアタマ(エ

ゴ)に惑わされ続けている。

 アタマによって種を存続させつつ、アタマによって苦しみ

続けている。いいかげん、賢くなれないものだろうか?

 なにも「私は賢い」と言っているのじゃない。せめて、す

べての人間が「自分は、“人間” という愚かな存在のひとつ

だ」ということをわきまえておくという程度の賢さを、身に

付けられないものだろうかと思うのです。個人レベルでどう

こうということではない。


 「人間は一人残らず愚かである」

 「誰も彼も、自分も、 “何が正しいか” を知らない」とい

う共通認識が生まれない限り、こんなことは続く・・・。


 わたしたちのアタマは悪い。ほんとうに悪い。


 自分を生かそうとして、自分の “正しさ” に従い、他者を

価値の無いものとみなす。

 自分を生かそうとして、自分の “正しさ” に従い、本当の

《自分》の価値に気付けない。


 わたしたちを苦しめているのは、他の民族や、他の国の人

間や、違う人種や、違う宗教の人間や、社会や、自然災害

や、病気ではなく、わたしたちが後生大事に抱え込んでいる

自分たちのエゴ(アタマ)なのだと、わたしたちの多くの先

達が教え遺してくれている。

 けれど、エゴはそれを自分の都合の良いように、すり替え

る。進んで曲解する。エゴは狡猾です。


 「わたしは悟った」と一人超然としているのなら、それは

石ころになったのと同じです。

 けれど、「わたしは人である」と言って、人として今まで

通り “人間的” に振る舞うのなら、苦しみはいつまでも続

く。


 わたしたちは、人でありながら、人(エゴ)を超えなくて

はならない。 

 人でありながら、人(エゴ)を捨てなくてはならない。

 そうしてはじめて、人は “人” になる。


  『妖怪人間ベム』という、面白いアニメがありました

ね。

 「早く人間になりたい!」

 オープニングのテーマ曲の中で、ベムがそう叫ぶ。

 けれど、人間にあこがれた妖怪人間たちは、人間のエゴの

醜さを知って、そのあこがれに疑いを持つ・・・、そんなス

トーリーだったように思います。


 わたしたちは、『妖怪人間』にも失望されたまま、“人” 

にもなれず、アタマ(エゴ)に惑わされたまま、生き続けて

行くのでしょうか?


 見ず知らずのニュージーランドのテロ(ということらしい

ですが)の犠牲者とその家族たちに対して、正直言って、私

は感情移入はできません。そこに、リアルな個人を思い描け

ないのです。

 私が思い描けるのは、「ああ、またアタマが愚かなことを

やらかしたな・・・」ということだけです。

 願わくば、犠牲者の遺族や関係者たちのアタマが、犯人の

アタマの暴走から悪影響を受けませんように・・・。


 人というものは、本来、静かで穏やかなものだと思います

よ。本来はね・・・。




2019年3月13日水曜日

泣くしかない時は、泣くのです。



 今日は3月13日。東日本大震災関連のテレビ番組など

は、あっさり消えてしまった。

 そういうものです。

 薄情だとかどうとかいう問題じゃない。

 もし、そういう番組があと二週間も続けば、被災者だっ

て、自分の立場に関わりの深い内容でなければ見なくなるだ

ろう。もう、八年も経っているからね。

 でも、私はもう少し関わってみようと思う。


 人は生きていて、生きていれば新しい出来事に目を向け

て、それに対応して行かなければならない。過去の事に留ま

ってはいられない。どんなにそこに留まっていたいとして

も。

 だから、あの震災と原発事故の事が、被災者であれ、それ

以外の人であれ、人々の重要事項としてのランクを下げて行

くことはしょうがないことです。
 

 あの津波で家族を失った人の中には、いまだに「時間が止

まっている」というような感覚を持たれている人もいるかも

しれない。八年経ってもね・・。

 じゃぁ、その人が「過去に留まったまま」かといえば、そ

うではない。たとえ、その悲しみ、苦しみ、怒りなどがあの

時と変わらないとしても、「わたしは、悲しみ続けてい

る・・。何も変わっていない・・・」という想いを持たれて

いるんじゃないだろうか。

 「何も変わっていない・・」という想いは、時が経ったこ

とを気付いているからこそ生まれて来る想いです。少なくと

も、その一点だけは変わったのです。その人の中でも。

 そういう意味では、その人も過去に留まっているわけでは

ない。“時が経った” という「新しい出来事」に関わってい

るのですね。そして、「私は過去の事を “過去の事” にして

しまうなんてできない」という対応の仕方をしているわけで

す。本人は「変わっていない」つもりかもしれません

が・・。


 そうやって、過去にこだわり続け、過去にしがみ付き、過

去に囚われていることが、良い事かどうか私にはわかりませ

ん。いえ、良いも悪いも無いのでしょう。だって人が生きて

行くというのは、過去の出来事の後始末をしているようなも

のです。それが目立つかどうかだけで、人はみんな過去に囚

われ、過去の鎖に繋がれ、それから自由になることはできな

い。「“自由な未来” を描いて、それを生きる」ことなどで

きないのです。


 あの震災と、原発事故の生み出した状況・・。ある人の中

では、それがどんどん薄れてゆき、ある人の中では昨日の事

のように自分にのしかかっている・・・。

 そこに、正しいとか間違っているとか、良いとか悪いとか

はない。

 それぞれに、それぞれの今を生きているのですね。


 「あの震災で過酷な経験をしたけど、今は何とか笑顔でい

られる」という人は一応いいことにして、「今も苦しいま

ま」だという人はどうしたらいいのでしょうか?

 そのままでいいのでしょう。

 いつまで苦しいのかはわかりません。

 死ぬまで苦しいままかもしれません。

 苦しさのせいで死んでしまうかもしれません。

 それがその人にとっての「今を生きる」ということでしょ

うから。

 その人にとってはそう在らざるを得ないのですから。


 えらく冷たい言い草かもしれません。そんなこと、わざわ

ざ言葉にしなくったってよさそうです。なのに、なぜこんな

ことを言うかというと、そういう状況にある人を見て、「つ

らい過去から一歩踏み出して」とか「笑顔を取り戻して」な

んてことを言う人がいますが、当人は今、あるがままの精一

杯の自分を生きているのです。それが、暗かろうが苦しかろ

うが、このままでは良くなかろうが、そう在るしかない。だ

からそう在る。精一杯そう在る。それがその人の今。良いも

悪いも無い。他の人の基準など関係ないことです。


 そりゃぁね。人が苦しんで泣いているのは、見ている方も

つらい。私だってつらい。元気になってくれたらと思う。で

も、人には「今は、泣いて苦しむのが努め」といった時だっ

てある。それがとても長く続いたとしても、それがその時の

“生きるということ” なんだろうと思う。他人(家族・友人

も含め)が、自分や世の中の基準を持ち出して「それじゃぁ

いけない・・・」などとおせっかいをするのは、あまりほめ

られたものではないと思う。

 だって、それは相手の立場に立っている様に見えて、実は

相手を自分の立場に引き寄せようとしていることですから。

相手じゃなくて、自分主体なんですよ。それでは、その人は

世界から隔絶したままです。


 相手が、今泣くしかないのなら、自分も一緒に泣くのが本

当に相手に寄り添うことでしょう。

 それが正解だなんて思わないけど、そういうことが、その

人にとっての “目を向けるべき「新しい出来事」” になるん

じゃないかと思うんです。「一人ぼっちで過去にいると思っ

ていたのに、その過去に人があらわれた・・・」とい

う・・・。


 誰でも、泣きたい時がある。泣くしかない時がある。

 なぜ、「泣いちゃいけない」なんて言うんでしょう?

 人は泣くものです。

 人は弱いものです。

 なぜ、強がらなくちゃいけないんですか?
 

 つらかったら、泣く。

 とてもとてもつらかったら、泣き続ける。

 それは人間らしいことでしょう。

 それも生きるということでしょう。
 

 泣くしかない時は、泣くのです。
 

 もしもそのまま泣き死んだっていいのです。

 それが、その人の生きるということです。


 泣くしかない時は、泣くのです。



 (書いている内に涙が出そうになってきた・・・。これ

で、おわります・・・)