2019年3月30日土曜日

魂に罪は無い



 「魂に罪は無い」と、前回書いた。

 ここで言う「魂」とは、精神だとか心だとかとは少し違

う。

 精神や心としてわたしたちが自覚する “はたらき” が、

れる “場” として「魂」という言葉を使っています。「無限

定の意識」というか、「比較以前の存在としての、命」とで

もいうようなものですね。

 そのような、 “区別、価値判断が存在し得ない「命」の在

方” には、罪は犯せない。何の不足も欲求も持っていなく

て、ただ存在することだけで充足している。人間の是非・善

悪の価値判断のまだ奥にある。

 是非・善悪の価値判断の外側に、無限に拡がっているも

の・・。


 孫悟空がどこまで行っても、 “お釈迦さまの手のひら” の

上だったように、是非・善悪の区別・価値判断に右往左往し

ているわたしたちの思考は、自分が価値ある者だと自惚れて

いる孫悟空のようなものでしょう。 “自分という価値” の外

側に、《限定しようの無い世界》がある。それは誰でも感得

することができるはずのものですが、「思考」という “比較

するはたらき” がそれを邪魔している。


 わたしたち人間の五感というものは、世界の中の「差」を

捉える為にあります。人間だけに限らず、すべての生物が、

世界の中の「差」を捉えることで生きています。

 目は、光の明暗の差や色という周波数の差を捉え、鼻や舌

は物質のもたらす刺激の差を捉え、耳は空気などの振動の周

波数・圧力の差を、皮膚は温度・湿度・圧力の差を捉える。

そうやって、生命は周りの環境を把握してそれに対応しよう

としています。


 生物の持っている、その「差」を捉えるはたらきは、わた

したち人間が「思考」を持った時、当然の事として「思考」

に組み込まれた。そして、単に物理的な「差」を捉えるだけ

にとどまらず、「思考」が自ら生み出す(想定する)約束事

の世界の中で、ありとあらゆるところに「差」を捉えてしま

うようになり、かえって生きることが大事(おおごと)にな

ってしまったんですね。


 「思考」に悪気は無いんですね。ただ、生きる為に「差」

を捉えようとしているだけです。

 だって生命は「思考」を持つ前から、「差」を捉えること

で生きて来たのですから、それが自らの「思考」の世界の中

であっても、「差」を見ずにはいられません。

 けれど、「思考」の中の「差」は実際の世界の中には無く

て、自分たちの「思考」の中にしかないものですから、結果

的に実際の世界との間に齟齬を生みます。

 わたしたちは「思考」の中で、自ら生み出した「差」を捉

え、その「差」に右往左往し、他者に対しても自身に対して

も「罪」を作る。

 いったい何をやっているんでしょう。まったく “骨折り損

のくたびれ儲け” 。


 今朝も、テレビで「空飛ぶバイク」の話題を取り上げてい

たけれど、「思考」の世界でジタバタ・ノタノタと動き回っ

ている姿は、孫悟空にも失笑されそうです。

 人がやる「正しいこと」や「良いこと」も、「思考」の世

界の中での恣意的な価値判断で一人相撲をしているようなも

のです。「思考」の世界の外には、 “お釈迦さまの手のひ

ら” に例えられるように、安楽な世界が拡がっているのに

ね。

 (「オマエは見たのか?」と言われそうですが、時々「チ

ラっ」と見ます。・・・あなたにも見られます。・・・なん

て言って、宗教の勧誘をしようというんじゃないですよ)



 「魂には罪は無い」というか、「魂の世界には、罪は存在

しようが無い」。


 「あれは良い。これは悪い」と四六時中 “是非・善悪” の

価値判断をしているわたしたちの「思考」は、自分たちのま

わりに「罪」を設定する為にエネルギーの半分以上を使って

いるようです。不愉快で、くたびれて当たり前ですね。


 人間のやることは、ほとんどすべて「マッチポンプ」で

す。ああ、疲れる・・・。




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