2019年3月3日日曜日

春を探す~「諸行無常」


  春は名のみの風の寒さや 谷のうぐいす歌は思えど

                   「早春賦」


 近所で春を探す。春を感じる。

 ホトケノザ、ヒメオドリコソウ、オオイヌノフグリ、ハル

ノノゲシ、スミレ・・・、春の花が道端で咲き始めている。

我が家のクレマチスの芽も動き始めた。空の青さも冬とは少

し違ってきている。


 春になるから花が咲くのか、花が咲くから春なのか。

 「暖かくなったおかげで花が咲くんだから、“春になった

から” 花が咲くんだよ」、そう言う人も多いだろう。でも、

もし暖かくなっても花が咲かなかったら、それを “春” と感

じるだろうか? スミレが咲くこと、暖かくなること、さま

ざまな自然のはたらきすべてで、“春” なんだろうなと思

う。


 どういう必然なのかは知らないけれど、常に自然に目が向

く。「人間ばっかり相手にしていると、頭がおかしくなる」

と昔から思っている。目が、耳が、鼻が、肌が、自然と自然

を求める。生活をしていると “作為” に疲れるのだろう。だ

から “無為” の自然に、安らぎを求めるんだろうな。すぐに

疲れちゃうんですよ、私は。人と人との “作為” の関係

に・・・。


 自然は、「自ずから、然らしむる」という言葉の通り

“そのまま” ”ありのまま” で、わたしたちの周りにある  

わたしたちそのものでもある。そこには何の計算も企ても無

い。フラットで、プレーンで(同じ意味か・・)、そのまま

を受け取ることができる。そのことが私を落ち着かせる。


 自然は言う事を聞かない。でも、文句も言わない。その

「文句を言わない」のがイイ。

 こっちの言うことを聞いてくれないことは、「文句を言わ

ない」ことの前では取るに足りないことだ。お互いに文句を

言わずに “ありのまま” でいられるのだから。


 何年か前に『アナと雪の女王』の主題歌が流行ったね。

〈ありのままの~〉ってやつ。

 あれは個人主義者の言う「ありのまま」だから、エゴの

「ありのまま」で、欲望の臭いがプンプンしていてウンザリ

した。「“ありのままの自分” を、知ってるのかよ?」と思

い、「まだこの上に我儘を積み上げる気か?」とね。

 昔、〈ありのままに生きようとしたアリは、アリのままだ

った・・・〉と、〔あのねのね〕は歌ったけれど、それが 

“ありのまま” っていうことです。“ありのまま” って、自分

から動こうとしないことです。自分から動いている様に見え

ても、それは動かされているんです。まぁ、エゴにそそのか

されて動くのも “ありのまま” と言えば “ありのまま” なん

だけどね・・。収拾が付かないなぁ・・・。


 エゴに動かされる “ありのまま” は、どんどんと “作為” 

の世界に入り込んで行き、常に状況の仕掛けに注意を払って

いなければならなくなる。でも自然の “ありのまま” に向き

合う時は、何も考えなくていい。素直で、清々しくいられ

る。どちらも “ありのまま” だけど、自然に向き合える “あ

りのまま” でいられるほうがラッキーだと思う。

 その点、私はラッキーだ。オオイヌノフグリの空色の花を

見て、スッと気分良くなれるんだから。


 春はうれしい。

 冬だってうれしいけどね。やっぱり花好きとしては、春は

格別です。


 大島弓子の『綿の国星』の中で特に印象深い一節がありま

す。


  ひとつの事を考えつめようとしても

  もう次の考えにうつってしまいます


  外のけしきが一日一日とうつりかわってゆくからです


  おばけのような桜がおわったかとおもうと

  遅咲きの八重桜


  すみれや れんぎょう 花蘇芳(はなずおう)


  黄色い山ぶき 雪柳

  なんとすごい

  なんとすごい

  季節でしょう 



 春が来るたびに、この一節を思いだします。

 春はすごい!


 この世界は「諸行無常」です。人はそれを「諸行無情」と

受け止めがちです。

 でも、春のダイナミックな移り変わりは、「諸行無常」の

美しさや驚異や奇跡を教えてくれるように思います。「諸行

無常」だからこそ、この世界は美しいし、わたしたちは喜び

を感じられるのでしょう。



 春、さまざまな命が、“移ろい” の力によってこの世界に

押し出されて来る・・。“美しさ” という「問い」をたずさ

て・・・。


  なんとすごい

  なんとすごい

  世界でしょう!







0 件のコメント:

コメントを投稿