2019年3月24日日曜日

生(なま)の春を感じる


 我が家のユキヤナギは満開を

過ぎた。今年は少し早いね。

 あの無数の花が、まさしく

「咲きこぼれる」姿には毎年感

嘆する。この世には凄いものが

いっぱいある。


 「凄いものがいっぱいある」ので

はなくて、「すべてが凄い」のだ

が、日常の中ではそれに慣れてしまって、なかなか意識でき

ない。ボケてしまう。



 私にとって、花や木を見たり触れたりすることは、ボケた

あたまをクリアにするための行為だろう。そうしてクリアに

なったあたまは、他のものもクリアに見られるようになる。

人為というフィルターが弱まって。


 わたしたちは、「思考ボケ」「観念ボケ」とでも言うよう

な状態で日々を生きている。感動するのだって、「思考」

「観念」の枠組みの中でというのが大半を占めている。感動

する事は良いことのように思われるが、「思考」「観念」の

枠組みの中では決して良いこととは言い切れない。ヒトラー

の演説に人々が感動して “何” が起こったか?


 感動するのなら、「思考」「観念」に隠されて見えなくな

っているものに気付かされるということがイイ。「生(な

ま)の世界」を見てしまうことが・・。

 人は「生の世界」を見てしまうと、言葉を失う。当然だ。

それは言葉以前に存在している世界だから。言葉の出る幕は

無い。

 そして人は、「言葉以前の世界」を「言葉以前の意識」で

感じる。さらに運が良ければ、「言葉以前の意識」で理解す

る。わけも分からず「了解」してしまう。

 「・・・そうか・・・。」と。


 なにも春には限らないのだけれど、他の季節に比べて、春

はそのような「了解」のチャンスがふんだんにあるように思

う。もっとも、自然に目を向けなければ、春も何もあったも

のではないけれど。


 なぜ、この花は赤い?

 なぜ、この草は光をめざす?

 なぜ、この木はこの木でありえる?


 “そう” だから、“そう” なのだ。

 「思考」が黙るしかない “存在そのもの” が、そこに在

る・・。春には、 “やられる” 。


 ユキヤナギの純白。

 純白の花と言えば、ハクモクレンやカラーも思い浮かぶ。

けれど、それぞれに純白でありながら、少しずつ違う。純白

の中にさえ違いがある。それぞれの存在がそれぞれの違いを

持っている。そしてその違いを、人は見てとることが出来

る。見てしまう。

 凄いことだと私は思う。何がどう凄いかと伝えようが無い

し、伝えようとする事が無粋だとも思う。


 人が言葉で理解しようとすることは仕方がない。

 けれど、言葉で理解することで、多くのものを失っている

事は間違いないだろう。

 世界の “事” の、せめて三分の一でも、言葉にお休みして

もらって「了解」しようとするならば、人はずっとしあわせ

になるだろうね。世の中だって、かなり安らげる所になるだ

ろう。


 来週には桜が咲き誇るだろう。

 そして、百花繚乱の季節を迎え、新緑が萌える

 春は命のエネルギーがあふれ出す。


 嬉しい。

 春です。




 

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