2017年8月29日火曜日

「地球温暖化どころじゃない」、とか思うんですけど・・


 今日もまた、強烈な陽射しでウンザリする暑さなんです

が、少し秋っぽさが見え隠れする様になっては来ました。

 「このまま温暖化が進むとたいへんですねぇ」などと、テ

レビなんかは脅かしますが、ほんとに温暖化するのかなぁ。



 地球って、本当に温暖化しているのでしょうか?

 そして、それは人間活動によるものなのでしょうか?

 この夏も一時間当たり100mm前後の雨が、あちこちで降

りました。この傾向は、確かに今までには無かった様です。

「記録的短時間大雨情報」が、毎日の様にどこかで出され、

「その地域じゃ初めてかも知れないけど、“記録的” が毎日

はおかしいでしょ」などと突っ込んでいました。名前を変え

た方がいいんじゃないの。

 それはともかく、あんな雨はちょっと酷いですね。


 それと何年か前に、紀伊半島のすぐ南で台風が発生したこ

とがあって、あれには驚きました。「えーっ!」て天気予報

を観てて声が出ちゃいましたからね。ほんと、異例の出来事

でした。

 これらの出来事が、温暖化の影響だと言い切って良いのか

どうか分かりませんが、今までに(近代的な気象観測がはじ

まってから)無かった事なのは確かな様です。気温の上昇も

さることながら、海水温が上がっていることが大きく影響し

ているのでしょうね。


 歴史を地形から考える著書を出しておられる、竹村公太郎

氏は『日本史の謎は「地形」で解ける(環境・民族篇)』

PHP文庫 のなかで、海水温の上昇に対する “原子力・火力

発電所から出る冷却水の排熱” の影響を挙げています。竹村

氏の計算によると、「原子力・火力合わせて、全世界で年間

約12億キロリットルの石油を燃やして、海を温めている」

事になっているそうです。「12億キロリットルで発電し

て」ではなくて、「それだけのエネルギーが排熱となって、

海を温める事だけに廻っている」という意味です。(詳しい

ことは、本を読んで下さいね)。これでは気象に影響が出て

も不思議ではなさそうです。

 それとは別に「CO2削減」が、政治的な欺瞞や経済の駆け

引きの道具でしかないというのも見えてきますね。

 発電所の排熱の事を、専門家や政治家が知らないはずが無

い。もし本当に知らないのであれば「能無し」という事にな

りますしね。「地球温暖化防止の為に原発を!」なんて、ま

やかしですよ。


 だからといって、私は地球温暖化の対策をどうのこうのと

言う気は無いんです。それが、本当に人間活動によるものな

らば、もう止められないと思ってますから。


 誰も指摘しないのが不思議なんですが、「このままCO2を

排出し続ければ、100年後には気温が5℃上昇してしまう」

ということで、排出量を世界で25%減らしたとしても、

「温暖化が止まる」なんて誰も言ってないでしょ?25%減

らしたところで、100年後に起こることが130年後ぐらいに

ずれるだけなんじゃない? 世の中がどうなろうが、人間は

原子力も化石燃料も、使えなくなるまで使い続けるに決まっ

てますよ。

 経済のもたらす快楽と不安には抵抗出来そうにない。それ

に、人口があまりにも増えすぎてしまって、ブレーキが効き

ません。


 今の人口で化石燃料・原子力の使用量を極端に減らせば、

世界中の人間が自分の暮らしを守ろうとして、(燃料・材料

として)森林に手を出す事になる。その結果、またたくまに

森林は消滅して、地球温暖化より悲惨な事になるでしょう。

 今さらどうにもならないと思いますよ。


 「資源」と「それを活用するテクノロジー」は、人類を繁

栄させた一方で、わたしたちをのっぴきならない所へ追い込

んでいる。

 食料生産量の低下による世界的な飢餓。

 資源の取り合いによる紛争の多発。

 「人口崩壊」ということが、いずれは起こると思います。

100億あまりに膨れ上がった人口が、急激に減少する・・。

10年ほどで数十億人が死ぬのではないかと思っています。

(私の勝手なイメージですよ・・)


 そんな恐ろしい悲劇を避ける為には、今の内から人々が 

“自然な死” をなるべく受け入れる様にしていくしかないと

思うんです。あんまり無理に死を回避しない。みんな適当に

死んでもらう(私もね)。死生観を見直す・・。

 嫌な話ですが、人類が健全に生きて行く為には、適当に人

が死ななければならないんです。


 昭和初期の日本人の平均寿命は50歳ぐらいでしょう。

 それで、みんな不幸だったかというと、そんな訳がない。

みんな、それなりに人生を楽しんだりしたことでしょう。

 家族や友人が、50歳で死んでも「仕方が無いな」と諦め

をつけたでしょう。それが普通でしたから。


 そこそこに生きて、そこそこで死ぬ。

 その中に、ちゃんと幸福を感じて生きる。

 そんな生き方が、人間に求められているんじゃないでしょ

うか。 

 もちろん、自然に長生きする人は長生きしてくれたらい

い。無理に死ぬ必要は無い。

 「死をどう捉えて、どう受け止めるか」ということと、

 「幸福に生きるとはどういうことか」ということを、改め

て見つめ直さないことには、悲劇  というより “惨劇” で

しょう  は避けられないだろうなと思います。

 思いますが、そんな価値観の転換が、世界規模で起こると

も思えません。・・・・。ナムアミダブツ・・・。と言って

おきましょう。
 

 今の日本や他の先進国を見渡して、一人の人間が幸福に生

きるだけの事に、これほど多くのエネルギーを必要としない

のは明らかです。生物学者の本川達雄先生によれば、日本人

は生物として生きるのに必要なエネルギーの、40倍のエネ

ルギーを消費しているそうです。アメリカ人だとさらにその

倍ぐらいでしょう。そこまでやって、みんながニコニコ穏や

かに楽しく暮らしているかというと・・・・。

 やっぱり、《 省エネよりも、省エゴ 》ですね。

 「自分」を知って、「欲望」に使われない様になるしかな

い。その方が幸福だろうとも思う。


 「幸福とは何か?」

 それが本当に判らない限り、判ろうとしない限り、人類は

不幸なままに滅んで行くのでしょう。(それがいつかは知り

ませんが・・・)



 こんな話をして、人を怖がらせるのは感心したことではな

いけれど、「世界の不幸」も「個人の不幸」も、その根っこ

は同じで、ひとりひとりが真に幸福になれば「世界の不幸」

も消えてゆくだろうから、「世界の幸福」なんてものが幻想

に過ぎないとしても、まず「自分」が幸福になっちゃうのが

いいのだと思うんですよ。

 (怖い話と言っても、“科学的な根拠のあるもっと

  絶的な話” は、他にいくつもありますからね。

  「覚悟」というものは、人間の義務でしょうね。) 





2017年8月28日月曜日

ネットお遍路さん、どうぞ休んでいって下さい。


 最近、四国のお遍路さんが流行ってますねぇ。近所のおば

さんもバスツアーで何度も行っているらしい。「何故、“お

遍路” が流行るか?」なんてことはまた考えるとして、何故

お遍路の話をしだしたかというと、「このブログって、お遍

路さん相手の “無料休憩所” みたいなものかなぁ」と思った

からです。


 お遍路をしていると、地元の方が “お接待” をしてくれま

すね。食べ物を接待してくれるだけではなく、泊まるところ

まで借りられたりするようですが、あちこちに休憩所があっ

て、お茶やお菓子などが置いてあったりするようです。

 このブログも、ある意味 “お接待” かなと。

 こういうブログに目を止めて読んでくれる人は、“お遍路

さん” の様なものでしょう。

 普段の生活や世の中の在り方に、何かしらの疑問や不満な

どの「居心地の悪さ」を感じて、それを解消する “手掛か

り” を探して、ネット上を巡っている。

 そんな人に、「ちょっと休んでいって下さいね」と、“言

葉のお接待” をさせてもらう・・・。

 まあ、“休憩所” のお茶やお菓子が口に合わない事もある

でしょうから、この “休憩所” の「お話」もお気に召さない

かも知れません。でも、そこのところは “無料休憩所” です

から、お手柔らかに。


 このブログが “霊場” であれば素晴らしいのですが、そん

な大それたことはとても言えません。

 私自身が “お遍路”の最中ですから、お仲間に “お接待” を

させてもらって、 “霊場” を目指す気持ちを新たにしてもら

たら、十分に有り難いです。


 実際の “お遍路” をされてる人にも、様々な理由や思いが

ある事でしょうし、その思い入れの深さも人それぞれでしょ

う。

 “お遍路” を終えても、ただ単純に「やったー!」と達成

感だけで済んでしまう人もいるでしょうし、人生に対する

“深い気付き” を持つ人も居るでしょう。中には、宗教的な

“何か” を得る人もあるでしょう。それは、その人の “生き

ることに対する真摯さ” と “ご縁” によるのでしょうが、ど

うせ “お遍路” をするのなら、誰もが、「御朱印帳」を埋め

る毎に自身の「こだわり」をひとつあずけてしまえたらよい

のになと思います。


 《 どれほど遠く旅しょうとも
     
       心が自分にとどまっていては

             家で寝ているのと同じだ 》


 ネット上の “お遍路” には、「御朱印」は有りませんし、

“霊場” の場所も数も判らない。“終り” は自分で決めなけれ

ばなりません。(実際の “お遍路” も「一回廻ってお終い」

ではありませんね。ほんとは「内面的な旅」ですものね)

 身体的な実感とか達成感が無い分、余計に大変かも知れま

せん。
 
 なにより、“霊場” は何処にあるのでしょう?

 実際の “霊場” が山の中などに多い様に、ネット上の “霊

場” も「世の中」(人と人との約束事)から離れた所にある

はずですが、あなたにとっての “霊場” は、あなたにしか見

けられませんね。なかなか大変です。

 でもまぁ、このブログに辿り着いたのも何かのご縁。

 結構本気で “お接待” しているつもりです。

 よかったら、ひと息入れていって下さい。


 あなたが、今まで何処を巡って来られたのかは存じません

が、この先も良い旅をされますことをお祈り致します。


 

2017年8月27日日曜日

科学の限界と仏教


 仏教のことを素人なりに勉強していると、その世界観が宇

宙物理学や素粒子物理学などの考えと、よく似ているのに気

づく。


 これは別に不思議な事ではなくて、人間の脳がものを考え

る時に、人間の脳の “やり方” でしか考えられないので、考

える手法が違っても、考える対象が同じであれば、突き詰め

るほどに結果は似通って来て当然だと思われる。人間は、脳

の処理システムで拾えないデータを扱えないし、脳が考えつ

けないシステムは理解できない。それ以前に、それがシステ

ムであることに気付く事すら出来ない。 


 人間の考えは、対象にどの様なアプローチをしたとして

も、それが正しい過程を経ているのなら、山に登るのと同様

に、辿り着く答えは同じで、結局脳の機能の中に納まる(当

たり前だけど)。もし納まらなければ、「イッちゃってる」

と言われる事になる。


 昔、ホーキング博士が「ビッグバン以前の宇宙」につい

て、考えられるいくつかのモデルを話しているのをテレビで

観たけれど、あんな世界最高の頭脳の一つが、あの様な事を

考えるなんてビックリしました。「あなた、“頭の良いバ

カ” なの?」って思ったんです。


 詳細は忘れましたけど(覚える価値が無いので)、内容が

どうか以前に、科学者であれば「ビッグバン以前」の事は語

るべきでないし、語れるわけも無いのに、なんだかんだ

と・・・。ただの、ムダ話でした。幼稚園の子が、宇宙の果

ての話をするのとなんら変わりません。


 「ビッグバン以前」に何かが存在していたとしても、それ

がこの宇宙の論理で出来ているとは限りません。それを、

の宇宙の論理でしか考えられない脳を使っても、答えを得る

どころか、考える取っ掛かりすらありません。

 「ムダな事はムダだ」と、「科学は論理でアプローチする

ものだ」と、それをホーキング氏ともあろう人が忘れてしま

うなんて。

 「科学の限界を認めたくないのかな」「往生際が悪いな」

「憐れだな」といった思いを持ったのを憶えています。



 今、量子力学であるとか素粒子物理学とかが、“素粒子” 

や、その “場” の事について、大がかりな観測装置や実験装

置を使って調べていますが、もしも、最小単位であるはず

の “素粒子” の性質が、それより「さらに小さな何か」を想

定しなければ、説明出来なくなったら?

 それを観測したり、その仮説を証明したりするのに、地球

の公転軌道ほどの大きさの実験施設が必要になったりして、

科学者は「白旗」を挙げる事でしょう。そして、たぶんその

日は来るでしょう。なぜなら、「どこが終わりか」誰も知ら

ないのですから。

 「終り」が分からなければ、研究は完成しません。


 釈尊は、「起源」を語りません。

 人間の考えられる範囲を越えているので、「語れない」の

です。要するに「そんなこと考えたって、しょせん想像でし

ょ? ムダだよ。」という立場ですね。

 で、そんな「思考」の限界まで来たけれども、まだスッキ

リしないので、その限界を突破しようとして、突破しちゃっ

たんでしょうね。常人からみると「イッちゃった」わけで

す。


 「イッちゃう」と、普通は「狂っちゃう」わけですけど、

釈尊や、後の仏教の始祖方の場合、「イッちゃったらしい」

のに「狂ってはいない」様なので、「ああ、これは変な所

に “イッた” のではなくて、有り難い所へ “イッた” のだな

ぁ」ということになったのでしょう。それで、人々から支持

され帰依される様になっていったのでしょうね。


 しかし、「思考」を突き抜けて何処へ「イッた」のか?


 「感覚・体験」の最深部、あるいは最縁部へ進んだのでし

ょう。極限に微妙で極限におおらかな、感覚へのアプローチ

を続けた。そして「分かった」のではなく、“分けられな

い” と「知った」、あるいは「得た」、または「悟った」。

 「感覚的に納得した」ということになるのでしょう。



 そこは、「思考」では知り得ない《意識界》。

 《涅槃》、《極楽》、《浄土》、様々に表現されますが、

「分からない事を、分からないままに納得できる在り方」と

でも言えばいいのでしょうか。(私は「たぶんその様だ」と

しか言えませんが・・・)



 ホーキング氏は、“「思考」の人” であった為に、「思

考」の限界まで来ても諦められなかったんでしょうね。

 「感覚」のアプローチなんて思いもよらなかったんでしょ

う。その為に「思考」の壁の前から離れる事も出来ず、科学

者としてあるまじき “悪あがき” をしてしまった。「絶望」

から目をそらす為に・・・。


 こんな事を考えていると、「ポアンカレ予想」を解いた、

ロシアの数学者 グレゴリー・ペレルマンの事が頭に浮かび

ます。

 歴史的な偉業を成し遂げながら、人々の前から姿を消し

た・・・。

 彼もまた、「思考」の限界を見て「絶望」したのか?

 それとも、「思考」の限界を超えて、(有り難い所へ)

「イッてしまった」のか? 

 「そんな事考えてもね・・・」って、お釈迦様が優しく笑

っている様な気がします。




2017年8月22日火曜日

集中力は養えません!


 「集中力を養う」とか言って、マスコミやネットや書籍な

んかでも、いろいろな方法が紹介されたりしますよね。

 ああいうのを見てると、「たぶん無意味だな」と思いま

す。


 この間も、「『けん玉』をしてると集中力が付く」なん

て、TVで言ってる人がいましたけど、「けん玉」に集中し

たからって、他の事にも集中できる様になるとは思えないで

すね。虫嫌いの “けん玉チャンピオン” に、ゴキブリの研究

をしろと言っても、集中出来るとは思えません。

 人は、自由自在に、集中したい時に、何にでも、集中でき

るわけでは無いでしょう。興味の無い事には集中しません

し、興味のある事には意識せずとも集中してしまうもので

す。



 女性はネットやTVにダイエットの話題を見つけると、す

ぐに手を止めて見入ってしまいます。

 美人プロゴルファーが、ミニスカートでグリーンの芝目を

読むためにしゃがんだら、ほとんどの男たちは素晴らしい集

中力を発揮します。

 ことさら「集中力を高めよう」としなくても、興味があれ

ば自然と集中するものです。



 大事な事は、その人が「何に集中するか?」でしょう。

 なんであれ、その人の「楽しみ」「喜び」につながる事で

あれば、それでいいんじゃないでしょうか。「どれだけ集中

力を発揮できるか」ということよりも・・。ただし、「後味

が良ければ」ですが・・・。



 「集中」というと、このごろ話題になるのが「マインドフ

ルネス」ですね。

 「ヨガ」や「座禅」からの流れでしょうが、(「座禅」も

「ヨガ」の一種ですね)普段の仕事や生活の中で「思考」し

すぎて疲れた脳(意識)を、「感覚」に集中させることで休

ませるんでしょうね。

 ものを考え過ぎる現代人には、結構な事だと思います。

 ただ、世界的な企業に取り入れられたりしているのを見る

と、「仕事のパフォーマンスを上げるためのツール」と見做

されているフシがあるので、その辺は「ちょっと、どうな

の?」と思いますね。



 「マインドフルネス」のやり方の代表的なものに、“呼吸

を意識する” というのがあるようです。

 「吸って、吐いて・・・」の繰り返しを静かに見守る。身

体が呼吸している動きに集中する・・、というやり方です

ね。「禅」で行われる「数息観(すそくかん)」というもの

と同じだろうと思います。他に “歩きながら、歩いている動

きを意識する” というのもある様で、これも「禅」の「経行

(きんひん)」でしょう。あと、“物を食べることに集中す

る” とかあるようですが、結局は欧米に広まった「禅」が、

日本に逆輸入されて来たんでしょうね。



 「元からあるものを、あまり有り難がらない」という、日

本人の国民性は何なんでしょうか? なぜか “外ばっかり向い

ている感” がありますよね。でもまぁ、「マインドフルネ

ス」が広まることは、良いことだと思います。



 でもね。「マインドフルネス」って、“「思考」から意識

をそらす” ということが目的で、“「思考」に集中させない

ように、「感覚」に集中させる” という方法のようですが、

 “脳の中” から “身体” へ(思考から感覚へ)、〈意識〉を

移してはいるけれど、まだ〈意識〉は「自分」に向いている

んですね。その辺が「仕事のパフォーマンスを上げるための

ツール」、という位置付けで終わってしまいかねない危惧を

抱かせます。もう一歩、先へ進めないか? と。



 「集中」するのではなくて、「拡散」(あるいは「拡

張」)させる方が、より “深く” “在る” ことができる様に

思います。



 「拡散」とは、どういうことか?



 〈意識〉を外へ向けます。

 「感覚」のセンサーを外へ向けます。

 例えば、耳に入って来る音を、一つ残さず聞こうとしてみ

ます。



 雨降りの日に窓を開けて、地面や屋根を叩く無数の雨音を

全部聞き取ろうとする。

 公園のベンチに座って、鳥の声や蝉の声や子供のはしゃぐ

声を全部受けとめようとする。

 他には、肌に触れる風を全身で感じてみる。 

 目に入って来る物を、すべて見ようとする。

 とか、ありますが、いずれにせよ〈意識〉を外へ向けて開

放するのです。



 わたしたちの脳は、一度に一つの事しか意識出来ませんか

  女性の脳はある程度は「同時並列処理」が出来るそう

ですが  無数の事柄を同時に意識しようとすると、集中す

る回路が破綻して、〈意識〉が「拡散」してしまいます。

 その結果、当然「思考」は停止しますし、〈意識〉は外に

向かっているので「自分」を忘れます。



 外に在る「音」や「風」や「光」や「温度」などが、“思

考という「自分」” が不在になった身体の中に流れ込んでき

ます。

 外界のものに身体中が満たされ、世界との一体感というも

のが垣間見えます。

 もしかしたら、桃の花を見た 霊雲(りょううん又はれい

うん)や、竹の音を聴いた 香厳(きょうげん)の様に悟り

を開いてしまうかも知れません。

 要するに「忘我」ということですね。エゴに席を外しても

らいます。



 「自分」の中に集中している限り、ビミョーにエゴが覗い

ています。そこからもう一歩外へ出る為には意識を、「拡

散」させた方が良い。

 ですが、自分の身体も「思考」からすれば、“外” ではあ

りますから、「マインドフルネス」をもう一歩進めて、身体

の感覚に集中した〈意識〉を、さらにその奥深くまで集中さ

せるという手もあります。中の中まで、突き抜けちゃうんで

す。

 「 “宇宙の果て” を目指すか、“ブラックホール” に入って

行くか」みたいなもんですね。どちらにしても「外に出ちゃ

う」ことですね。
 

 「だけど、なんの為に?」

 という疑問も出て来るのでしょうけど、「集中」というこ

とが、どうも過大評価されているのではないか? と感じる

んです。それに「ちょっと冷や水を浴びせられないかな?」

と。



 「集中してしまう」というのなら、分かるのです。でも、

「集中する」というのは、“功利的” で “エゴイスティック” 

な匂いがします。打算が見え隠れします。



 ときどき、YouTubeで植芝盛平や塩田剛三といった、合

気道の達人などの動画を観るんですが、あの方たちの動きを

観ていると、「集中している」のではなくて、「集中しない

様にしている」としか思えません。

 いちいち「集中」してたら、相手の瞬間的な動きに対応で

きるはずがありません。

 「集中しない」ことで、自在に身体が最適に動くのだろう

と思います。

 もちろん、その身体・動き・感覚を身に付ける為には、常

人にはマネできない「集中力」が発揮されたでしょう。しか

し、その「集中力」は、「集中しよう」として発揮されたも

のではなくて、「集中してしまった」から生まれたのでしょ

う。

 要するに「憑りつかれてしまった」のです。

 他の事なんかに、「集中している」暇なんかなかったはず

です。



 「集中力を高めよう」なんて、バカげた話です。

 人は皆、自分にとって大切な事には「集中力」を発揮する

ものです。それが社会的に見て「良い」か「悪い」かは、ま

た別の話でしょうし、その「集中」の度合も、その人の在る

べき姿でしょう。



 「好きこそものの上手なれ」と、昔から言いますけどね。

 「好きなもの」にのめり込んで、社会的な賞賛を浴びる人

もいますし、「好きなもの」にのめり込んで、破滅する人も

います。“破滅” は避けたいところですが、さて、自分の望

むがままに「集中力」を発揮できるでしょうか?

 幸か不幸か、人間はそうそう社会優先には出来ていない様

です。


 《 人は皆、“自分の星” に満足したり、

   呪ったりしながら生きて行く様ですが、

   “自分の星” は「笑っちゃう」のがイイようです 》


 「集中」しなければ、「呪ったり」「満足したり」出来ま

せんからね。


 本来は、けっこう「ぼ~っ」としてていいんだと思います

よ。人間は。“ぼ~っとする権利” なんかを人口の3分の1ぐ

らいが主張し始めたら、世界はずっと住みやすくなるように

思います。もちろん、「ぼ~っ」と主張するんですけど。




2017年8月21日月曜日

「運命」に翻弄される?


 私は「運命論者」でしょうか?

 「世界は惰性で動いてる」とか「人間に自由意志は無い」

なんてことばかり言っていますから、「この人は “運命論

者” だ」と思う人もいるでしょう。

 確かに「運命論者」だと言われれば、そうなのかも知れま

せんが、世間一般で言われるところの「運命論者」とは、ち

ょっと違うだろうと思います。


 普通、「運命論者」は大きな不幸や、大きな幸運に出会う

と登場して来ます。
 
 「こうなる運命だったのだ」

 でも、些細な取るに足りない出来事が起きたぐらいでは、

登場しません。

 「あなたは、今日、今、ここで、くしゃみをする運命だっ

たのだ」

 なんてことは、言いません。


 「運命論者」という者は、人生や世の中を “意味ありげな

ものにしたいだけ” の様な気がします。と同時に、何か “拗

ねてる” んでしょう。自分の思い通りにならないので、「ど

うせそうでしょうよ・・」とか、他人の不幸を見て「ザマア

ミロ」とか思ってるんだろうなぁ、とか思います。そして、

「すべては運命だ」などとうそぶきながら、誰かに迷惑を掛

けられたりすると、「なんで、こんな事をするんだ!」と怒

り出すのでしょう。(そもそも拗ねてる人ですから)

 「すべてが運命」なら、怒ってもしょうがないと思います

が、この手の人はたぶん怒ります。
 

 私の場合は、「運命論者」と言うより、「必然論者」と言

う方がよさそうです。

 「すべては、必然だ」「すべては、起こるべくして起こ

る」とか思っているのは確かですから。


 6500万年前に、巨大な隕石(小惑星?)が地球に衝突し

て、恐竜たちの繁栄は終わりました  ということになって

いますが、その隕石は、いつ?地球に衝突する事になったの

でしょう?


 その隕石が出来た事、地球が出来た事、地球の軌道が隕石

の通過コースになった事・・などなど、さまざまな因果関係

の結果、隕石は衝突した。それは、偶然と言えば偶然です

が、あらゆる因果関係をどこまでも遡って行けば、宇宙の始

まりに辿り着きます。辿り着かざるを得ません。ということ

は、「隕石の衝突・恐竜の絶滅は、宇宙の始めから起ること

が決まっていた」と言っても間違ってはいません。

 そんな、歴史上の大事件に限らず、私が、今、パソコンの

「Enter」キーを押すことも決まっていたのです。「決まっ

ていた」というよりは、「必然だった」のです。


 物事には「原因」と「結果」があります。あたりまえです

ね。

 わたしたちが行う事、わたしたちに起きる事、世界に起き

る事。これらはすべて、何かの「結果」であることは間違い

ありません。ならば、そこには「原因」があります。その

「結果」をもたらす「原因」が、過去にあります。


 窓の外でクマゼミが鳴いています。あのクマゼミが今鳴く

事にも「原因」があります。

 あなたが何かを考える。何かを話す。何かを行う。

 すべて、過去の何かが「原因」となって、無意識レベルで

あなたを動かしています。

 「運命は信じない」と思うのであれば、「運命は信じな

い」と思うような “運命” なのです。

 「運命を信じる」と思うのであれば、「運命を信じる」と

思う “運命” なのです。そういう「必然」があなたにあった

のです。
 

 こういうことを言うと「何もかも決まっているなんて考え

てると、自分が生きている事が、無意味に思えて来て虚しく

なる・・・」なんていう感慨を持つ人が結構いるでしょう。

 生きてる事は、無意味なんです。

 意味は、人間が後付けするだけです。

 本来、生きてる事に意味は無い。


 身も蓋もないことを言って申し訳ありません。(身も蓋も

無い事をいうのが、得意なんです!)

 でもね、生きてる事が無意味だからといって、「虚しくな

る」必要はありませんね。

 人は、「自分」というものを立てたがるから、「意味」を

欲しがるのです。

 「意味」が無ければ、「自分」がありません。

 「自分」が無ければ、「意味」がありません。

 その「意味」が、その「自分」が、さまざまな問題の種と

なることには気付かず、気付いても気付かぬ振りをして生き

て行く。

 「意味」は無い方がいい。「意味」は “無い” に越したこ

とはない。「意味」が無ければ、「意味」に悩まされること

も無いのですから。

 もちろん、「意味」に喜ぶこともありませんが、「意味」

のもたらす喜びというものは、相対的で限定的で一時的なも

のです。「意味」の “無い” 喜びは、それを超えます。

 「意味」が無いという事は、「自由」ということです。物

理的なもの以外、人を縛るものがありません。


 だから、「わたしたちは意味も無く、思わされ、考えさせ

られ、行動させられて生きている」と気付いている方が、

「自由」でのびのびしていられます。「自分」の事さえ「他

人ごと」の様になるからです。決して「虚しく」なんかあり

ません。「虚しい」としたら、それは「自分」に価値を持た

せたいと思うせいです。


 「すべては、必然です」

 ですが、それと同時に「奇跡です」。

 すべての出来事が、その一瞬だけの存在なんですから。 

 二度と起こることは無いのですから。
 

 「はくしょん!」


 くしゃみ一つしたって、それは空前絶後の出来事です。

 この宇宙に二度と起こらない出来事です。

 震えるほど感動したって構わないのです。


 「富士山大噴火!」


 それは確かに稀に見る大事件です。

 でも、起るべくして起こることでもあります。

 「あ、そうなの?」と言って昼寝していたって自由です。


 「運命」というものにすべてが支配されているのなら、そ

の「運命」はきっとこうささやいています。

 「どうぞ、おしあわせに」
 

 《 世界は無意味です

   だったら、しあわせにしちゃえばいいんです 》


 「何もしなくてもしあわせ」って、コスパ最高でしょ?

 難病で、寝たきりで、「何もできない。けど、わたしはし

あわせです」って人も現実に居るんです。

 一方で、なんだかんだとやりまくって、自分も他人も苦し

ませている人間もいます。(悲しいかな、それも必然です

が)

 どうせ「必然」なら、「何もしなくてもしあわせ」の方に

入れたほうが、有り難いですよね。

 このブログがそういう「因縁」の一つであるのならば、

「うれしいな」と思います。(なんでもイイですけどね。

「必然」ですから)


 では、私は「必然論者」だ。という事にして、今日はおし

まいにしたいと思います。それでは、

 「どうぞ、おしあわせに」




2017年8月20日日曜日

不治の病を生きる


 無謀にも、「意識」なんて話に手を出したもんだから、随

分としんどい思いをしてしまいました。自分なりには、成果

はありましたが、見た人がどう受け止めるかを考えると、少

しだけナーバスになります。

 まあ、それはそうとして今日は気楽に行きましょう。

 今日の話題は、「不治の病」です。



 もし、あなたが治療法の無い、死亡率100%の病に侵され

たら? 日々、身体は弱ってゆき、身体の自由が利かなくな

り、足取りもおぼつかず、耳は聞こえなくなり、目はかす

み、髪は抜け、歯も抜け、最後にはベッドの上で逃れる事の

出来ない「死」を待つだけ・・・。

 実はあなたも、その「不治の病」に罹っています。

 それを、「人生」と言います。



 「な~んだ!」



 と思いますよね。

 もったいぶったわりには、ありきたりの展開です。読まれ

ていたかも知れませんね。

 「だからどうした」って話ですが、その「どうした」をこ

れからちょっと掘ってみます。



 「人生」ではなく、普通に言うところの「不治の病」に本

当に侵されてしまったら、あなたはどう思うのでしょう?

 「数年以内に確実に死んでしまう」

 それが決定的になったら?

 治療法は無く、対症療法でケアしても、持って三年とかい

った場合。どうしますか?

 打つ手は、全て打った。

 万策尽きた。

 もう、ジタバタしても始まらない。

 そうなった時、その様な境遇に実際に立たされた時、多く

の人はある諦念を持つことでしょう。


 「もう、運命に身を委ねるしかないな」


 それしか、ないですよね。

 万策尽き果てたのです。

 人事は尽くしたのです。

 やるべき事はすべてやった・・・。

 そういう「諦念」に立った時、人は安らぎを覚えるのでは

ないでしょうか。

 「もう出来ることは無い」

 それは「もう何もしなくてもいい」ということでもありま

す。諦めた時、人は人生から解放されます。

 「死」を目前にした事によって、それによって安らぎを得

ることが出来る。

 ですが・・、人生をそこまで来てから、やっと「安らぎ」

では少々もったいなくは有りませんか? もう終わりです。



 初めに書きましたが、人生そのものが「不治の病」だと見

る事も出来ます。人の死亡率は100%ですから。

 であれば、わたしたちはいつでも、「不治の病」に侵され

た様に「諦念」を持つことが出来るはずです。自分の力や周

りの力に拘泥するのではなく、「命(さだめ)に身を委ね

る」という生き方があるはずです。


 「それじゃぁ、あまりに消極的で主体性が無い。何の為に

生きているのか分からない。意味が無い」


 そんな反論が当然予想されます。

 ですが、私は「自分の力や周りの力に拘泥するのではな

く・・・」と言いました。「自分の力や周りの力に意味は無

い」と言っているのではありません。「拘泥しない」と言っ

ているのです。「自分や周りの力」が、「自分や周りの考

え」が、要するに「人間の努力や考え」が絶対では無いし、

かなりの割合で、人を幸福や安らぎとはかけ離れたところへ

進ませてしまうでしょう? と。


 末期ガンの患者に対して、治る見込みなど無いのに厳しい

治療を勧めて、かえって患者を苦しめ、余命を縮める医者の

様に、わたしたちは人生の中で考え過ぎて、やり過ぎて、世

間を見すぎて、自分自身の素直な在り方を無視しがちです。


 わたしたちは望みもしないのにこの世に生まれ、望みもし

ないのに死ぬさだめです。

 その上、世の中の作り事に揺さぶられ続け、自分に落ち着

く暇もないまま死んでしまいます。必ず死んでしまいます。

 ならば、そのムダな骨折りを少しばかり減らした方が、良

いのでは?

 《 わたしたちは

   「何かを成すことの価値」ばかりを刷り込まれ続け

   「何も成さないでいる安らぎ」を

              あまりにも貶めている 》


 「どうせ死ぬのだから、好きな事をする」という声をよく

聞きます。こういうのを聞くと、「どうせ死ぬのに、『好き

な事をする』の? なんか、あせってるんじゃない? ヤケク

ソになってるんじゃない?」などと思います。だって「どう

せ死ぬんだから、のんびりしたら?」というのだって “あ

り” だからです。

 『好きな事』って言ったところで、大抵(人の)世の中で

の話でしょ? ちょっと、型通りでせせこましいんじゃな

い?

 世の中なんか、たしなむ程度にして、おおらかに命(さだ

め)に身を委ねてみる方が、自分が活きるように思うんです

よ。


 人はみんな「やり過ぎ」ですよ。

 今までに、ゴミの収集日にどれだけ物を捨てました? そ

れらは「自分に必要だ!」と思って手に入れたものだったで

しょ?

 今までに、どれだけの人と関わって、疲れたり、いざこざ

を経験したりしました? 

 人はみんな「やり過ぎ」るんです。


 「どうせ死ぬんだから、好きな事をしよう」じゃなくて、

「どうせ死ぬんだから、しなければならない事だけしょう」

の方が、気持ちがいいんじゃないの? と、思うんです。

(その方が環境負荷も小さいので、後世の人の為にもなりま

す)

 でも、ちょっとした楽しみとか思いやりとかはあるべきだ

とは思いますよ。一生、石の様に冷たく動かないなんて、死

んでるのと同じですからね。

 ただたんに、「生きなければ!」と必死になるのは違うん

じゃないかと。生きることに身を入れ過ぎると、かえって命

(いのち)が活きないんじゃないかと。


 「人事を尽くして、天命を待つ」


 政治家や企業経営者のオッサンが、好きで時々使う言葉で

すけど、これって「好きな様にやり放題やって、後は野とな

れ山となれ」という意味に解釈することも出来るんですよ。

 私に言わせれば、「天命に従って、人事を尽くす」方が尊

敬に値するんですが。(「人事を尽くして・・」も、「天

命」でしかないんですけどね。世界は惰性で動いていて、人

間に自由意志はありませんから・・・)
 

 少し、ゆっくりしてみましょうよ。

 少し、止まってみましょうよ。

 別に、「スローライフ」を提唱するつもりなんて無いです

けど、地球のエネルギーも、自分のエネルギーもバカ程使い

ながら、ただ刺激に興奮したり喜んだりしてるだけでしょ

う? コスパが悪すぎるし、生きることをはき違えてるとし

か思えない。

 立ち止まって、しみじみと自分に親しんでみたり、まじま

じと世界を眺めて感じてみたりする事にこそ、深~いしあわ

せがあると思ってるんですが・・、どうでしょう?



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 書き終わって、「ほんとうに不治の病の中にある人がこれ

を読んだら・・・」と考えてみました。

 「軽く考えてる」と思われるかも知れません。

 ですが、「人はみんな、必ず死ぬ」ことに変わりはありま

せん。代わりもありません。

 「人生の長さ」とか「何を成したか」とか、そんな事はひ

とりの人の命に関係ありません。関係あっては困るのです。

 どんな人生であろうとも。どんな死に様であろうとも。

 誰もが、自分を肯定して人生を終えることが出来なければ

困るのです。

 自分の人生を肯定出来ない可能性があっては、安心して生

きる事も死ぬことも出来ません。

 安心して、命(さだめ)に身を委ねて良いんだと思いま

す。


 《 「運命」とは、

     「命に運ばれてしまうこと」ではありません

   「運命」とは、「命に運んでもらうこと」です

  「自分で自分を運んで行こう」なんて傲慢なんです 》




2017年8月19日土曜日

意識について Ⅳ


 意識についてもう一つ。いちばん肝心なことを。



 「私は、ほんとうに存在しているのだろうか?」



 前にも、『荘子』の中にある「胡蝶の夢」の話を引き合い

に出しましたが、「今、ここで、こうしている “私” は本当

に “私” なんだろうか?」「 “私” とはいったい何だ?」。



 「胡蝶の夢」をあらためて説明しておきます。


 ある日、荘子は自分が蝶になった夢を見て、目が覚めた。

 目覚めた荘子は、思った。

 「今、自分は荘子だと思っているけれど

  もしかしたら、これは蝶が荘子の夢を見ているのかも

  知れないぞ」


 という話ですが、これは論理的には否定し切れないんです

ね。

 わたしたちは、〈意識〉で自分を自分だと認識しているわ

けですが、その〈意識〉が自分のものだということは証明で

きない。

 もしかしたら、今このブログを見ていると思っているあ

は、2056年のフランスの病院で、昏睡状態のまま何年

眠り続けている私かも知れないですからね。

 こんな冗談も、あらためて考えてみると「無い」とは言い

切れなくて、すこしばかり変な気分になりますよね。

 “わたし” とは、何でしょう?

 何故、“わたし” がある(と思う)のでしょう? 

 “わたし” は本当に “ある” のでしょうか?



 “わたし” というのは、前回書いた様に “〈宇宙の意識〉

の拍動” といったものです。その “わたし” は本当に “ある”

のでしょうか? どうして、 “ある” と思うのでしょうか?


 「我思う、故に我あり」と言われれば、なるほど「そう」

でしょう。でも同時に、「“我” と思う故に、“我” 疑わし」

と言えるかも知れません。


 私は男ですが、普通は男であることを意識しません。

 だって男なんですから、そんな当たり前の事実をいちいち

考えたりしません。

 ところが、わたしたちは「わたしであること」をしょっち

ゅう意識しています。「わたしは!わたしは!」と事あるご

とに言いつのったりして、“わたし” を立てようとおおわら

わです。先日も引退レースで足を痛めて、途中棄権したウサ

イン・ボルトが、「私は今まで何度も、自分自身を証明して

きた」とインタビューに答えたそうですが、何故わたしたち

は「わたし!わたし!」と “わたし” にこだわるのか?

 “わたし” が怪しいから、殊更「わたし」と言わなければ

ならないんじゃないの? “わたし” が紛れもなく “ある” の

なら、何も言う必要はないだろうし、“わたし” を見せつけ

たりする必要もないでしょう。“わたし” って、ものすごく

危ういものなんじゃないんでしょうか?

 でもまぁ、わたしを “わたし” と思っている〈意識〉があ

ることは確かですね。〈意識〉が無かったら・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・少なくとも、私やあなたにとって「世界」は無い。


 ですから、わたしが “わたし” と思える、「母体」となる

〈意識〉は間違いなく存在するといえますね。

 (そんな当たり前のことを、わざわざ言わなくてもよさそ

うなもんですが、こうしながら私は、 “わたし” という個人

持ちの〈意識〉を、〈宇宙の意識〉の一部に “降格”    

“わたし” から見れば   させているんです)


 わたしたちは、当然ながら自分の目で見て、自分の耳で聞

いて、自分の手で触れて、でしか世界を感じられません。私

があなたの目で世界を見たりする事は出来ませんから、どう

しても自分が世界の中心だと感じてしまいがちです。それ

が、わたしたちの “バカ” のはじまりです。なにせ、“わた

し” はとっても危うい存在ですからね。(控えめに言ってま

す)


 “わたし” は世界の中心ではありません。

 こんなあやふやな物が、世界の中心であるわけがありませ

ん。はっきり言って、“わたし” は脳の生み出した “お話” に

過ぎません。“わたし”、 を生み出した脳と、それが収まっ

ている身体は(今のところ)存在していますが、“わたし” 

という “真実” は存在していない。


 “わたし”とは、〈世界〉と〈意識〉の間にギャップが生ま

れたために、脳が苦し紛れに作り出した「仮想世界の住人」

に過ぎません。それは、〈世界〉と〈意識〉の間のギャップ

が埋まったら、廃棄されるべき物です。ところが、“わた

し” がいつまでも居座る為に、いつまで経っても〈世界〉と

のギャップが埋まりません。必要にせまられて脳が生み出し

た “わたし” でしたが、それに頼っているうちに、自分より

大きな存在になってしまつて、振り回されているんです。

 それはまるで、「起業する時に頼った友人が、気付いたら

経営者然として会社を牛耳っている」ようなものですね。

 「これは・・・、一体・・誰の会社なの・・・・・」


 そのような状況ですから、

 「わたしは、何の為にここにいるの?」

 「わたしは、誰なの?」

 「わたしは、何?」

 という思いが湧きあがって来るのは、当然ですね。

 (「牛耳っている」“わたし” も、「わたしは、何?」と

嘆く “わたし” も、実はどちらも同じ “わたし” なのがメン

ドウなところですが)


 “わたし” を廃棄しない限り、わたしたちに「安らぎ(し

あわせ)」は訪れません。


 《 アタマが悪さをする事を「アタマが悪い」と言う 》

わけですが、「アタマ」が犯した、最初で最大の「悪さ」が

“わたし”(エゴ)を生み出した事です。

 まあ、致し方ないわけではあるのです。人類誕生以来、

“わたし” によって生き続ける事が出来たというのは間違い

無いでしょうから。でも、その数万倍 “わたし” によって地

獄を創り出して来たことは確かです。もうそろそろ「大人に

なったら、“わたし" を処分する」というかたちを、“人間の

生き方” として普遍化させなければならないのでは? 

(どうやって普遍化させたらいいのか知りませんが。ハハ

ハ。)


 ウサイン・ボルトは「自分を証明して来た」と言う。

 その「自分」は 、“証明する必要があった「自分」” です

ね。でも、それ以前から “証明する必要のない「自分」” が

在ったはずなんです。在るはずなんです。

 その「自分」は何処へ行った?

 トラックのスタートラインに、置き去りになったのでは?

 ジャマイカの道端で帰りを待っているのかも知れません。

 ボルトが “ウサイン・ボルト” になった事は、それでイ

イ。しかし、「自分」を置き去りのままにしていては、「自

分」が可哀相だろう・・・。


 彼の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 私の「自分」は何処に居る?・・・・・・。

 あなたの「自分」は何処に居る?・・・・。


 「自分」は何処にも居ない。


 そして、〈自分〉は「自分」(の世界)の外に居る。