2017年8月15日火曜日

意識について Ⅲ

 
 〈意識〉は何の為にあるのか?


 よくまあ、こんな大それたことを書こうとするもんです。

われながら、大胆で無神経で恥知らずだなぁ、と関心してい


ます。別に守る物はありませんからね。こんなことも書けち

ゃいます。

 では、始めましょう。


 〈意識〉の中の、「思考」と「情緒」については、前回ま


でに書いた事で、「何の為に」という説明にもなっています

から、それで良しとしておいて、「命」について考えます。


 「命」は、「思考」「情緒」の外側に広がっているもの


で、“宇宙全体の生命の自律性” といったものです。〈宇宙

全体の意識〉と呼んでいいのだと思います。

 その中で、個々の生命の持つ〈意識〉は “〈宇宙全体の意


識〉の拍動” の様なものです。


 話が大層で観念的だと思われるでしょうから、“科学っぽ


く” 説明してみますね。




 わたしたちの〈意識〉は、脳を中心とした神経ネットワー

クの中に生まれ、活動しています。

 〈意識〉が活動する為には、五感や身体の内部からの情報


(刺激)がなければなりません。情報が神経系に入って来な

ければ〈意識〉の活動は起こらないでしょうし、「〈意識〉

が在る」必要がありません。

 「何も起こらなければ、〈意識〉はする事が無い」

 何も入力されなければ、パソコンの画面は止まったままで


すよね。わたしたちの〈意識〉も同じです。五感と身体の中

からの情報が入って来て初めて、〈意識〉が生まれます。

 私が考えてみてもらいたいのは、“五感” と “身体” から入


って来る情報の事なんです。

 わたしたちは “五感” で、光・音・温度・味・匂い・圧

力・湿度などを感じて、「暑い」とか「くさい」とか「痛

い」とか意識を持つわけですね。そして “身体” の中から

も、いろいろな情報が伝えられて、「胃が痛い」とか「頭が

痛い」とか「腹が減った」という様な意識を持ちますが、こ

の“身体” の中からの情報も、実は外界からの入力が時間差

で違う形に変換されたものです。

 「スマホを見すぎて、首が凝った」→「頭がいたい」

 「半日、何も口にしていない」→「腹が減った」

 「車の排ガスを吸い過ぎた」→「肺ガンになった」

と、いったことです。

 ですから、〈意識〉に入って来る情報は、結局 “身体” の


外からやって来るんですね。

 情報というのは、わたしたちの “身体” を刺激することで

しかもたらされませんが、例えば「風が頬をなでる」といっ

た時に、「風」という物理的な刺激が、「頬」に触れた瞬間

に電気パルスとなって脳へ伝えられます。この時、わたした

ちは「自分」と「風」を切り離して考えているのですが、そ

れはわたしたちが、「“自分” は “自分以外のもの” とは別に

存在している」としか考えていないからに過ぎないんです。

 こんな思考実験をしてみて下さい。


 1.あなたの人差し指を第一関節から切り取ります。

 2.その人差し指を 1m 離れたテーブルの上に置きます。

 3.優秀な外科医とエンジニアに頼んで、人差し指とあなた

  の手の神経にブルートゥースを取り付け、信号が送られ

  るようにします。

 4.外科医に、(もうあなたの身体の一部ではない)人差し

  指を触ってもらいます。


 結果はどうでしょう?

 あなたは、外科医が指に触れた事を感じるはずです。たぶ


ん今の医療技術なら、実際に出来る事でしょうね。

 この時、あなたの身体と人差し指は、もう別のものです


が、情報が伝わってきたために、一体感を感じてしまいま

す。「わたしの人差し指だ」と。

 であれば、わたしたちが外界から受けるどんな刺激も、


「自分の一部だ」と感じられるのではないでしょうか?  

電気パルスという形式ではないというだけです。

 そう考えると「わたしたちの身体と世界は、ひとつに繋が


っている」と言っても、あながちおかしな話とはいえない。

 この宇宙全体が、物質と磁場・引力などで複雑に繋がり合

っています。その無限のネットワーク全体が、〈生命〉であ

り〈意識〉であると言ってよいのではないでしょうか。 

(あなたと私も、空気やインターネットやなんやかんやで繋


がっている一つの存在ですね。「気持ち悪い?」。無理もな

いですが・・・)


 「自分の身体と世界を繋がったものと看る」という処理プ


ログラムを、わたしたちは普通採用していないので意識でき

ない、というだけで、「自分と世界は繋がった一体のもので

ある」というのが、真実なんではなかろうか?


 実のところ私は、「自分と宇宙がひとつになった」感覚を


持ったことがあります。

 随分前の話ですが、ある日、通勤途中に、木立の間に見え


隠れする朝日を見ながら歩いていました。すると突然、意識

が停止したようになって、自分の身体が宇宙いっぱいに広が

ったような感覚になったんです。ほんの2~3秒でしたが、

普段、自分の身体を「自分」だと感じている様に、世界全体

を「自分」だと感じたんです。そして、涙が出て来ました。

嬉しくも悲しくもないのに・・・。(朝日がまぶしかっただ

けかも知れませんが)

 脳科学者のジルボルト テイラーさんが、脳卒中を起こし

た時に感じたのと同じ感覚だろうと思います。

 私の場合は、木立の間から射す “朝日の光による断続的な


刺激” によって、脳の言語野などの、論理的処理を行う部分

の活動が一時的に止まってしまったのでしょう。

 これは、「論理的に考えられなくなった為に、妄想が生ま


れた」のではなくて、「普段、論理的思考によってさえぎら

れている感覚が、意識された」と考える方が素直だと思いま

す。

 わたしたちは “個体としての自分” と “世界” を、からだ


の表面で区分けし、言葉を使って「思考」する為に、「命」

を感じることが出来なくなっているのです。けれど、その意

識が無くなってしまえば、自分と世界の区別は無い。


 ということで、「自分(個体)と、世界(宇宙)は一体」


ということになりました。ですから、私やあなたに〈意識〉

が在るという事は、〈宇宙全体〉にも〈意識〉が在るという

ことになります。それを逆に言えば、わたしたちの〈意識〉

は “宇宙全体の意識の一部” ですね。

 宇宙自体が〈意識〉を持っています。「何の為に?」

 そんなこと知りませんよ。わかりませんよ。

 分かる訳がない。


 でも、こう思うことにしています。

 《 わたしたちが〈意識〉を持っているのは

   「存在する」という至福を感じる為だろう 》


 そうでもなければ、何の為に〈意識〉なんか持つ必要があ


るでしょう。

 ロクでもない事が次から次へと起り、嬉しい事や楽しい事

も、あっという間に過ぎ去ってしまう。

 確かな事は、「自分(意識)は、今、ここに存在してい


る」という事だけ。

 そして、「自分と世界が一体」ならば、死んだとしても、


それは “〈存在〉の形式の変化” に過ぎない。

 だったら、いつでもどこでも「しあわせ」でいなければ、


〈意識〉を持っていることに何の価値が有るでしょう?

 
 屁理屈でも、やせ我慢でも、ヤケクソでもいい。

 本当は、根深い妄想かも知れない。それでも
 

 「今、ここに在ることがしあわせだ!」

 そう、言ってしまいたい。

 そう言ってしまおう!


 《 宇宙の始まりから終わりまで

           何もかもがしあわせだ 》



 〈意識〉の中で、「アタマ(思考)」に惑わされず、


「命」と感じ合い、しあわせで在ること。

 それが、人として在ることの真の “価値” ではないんだろ


うか。



   

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