2017年8月7日月曜日

世の中はでっち上げ。


 人は何故疑うか?


 言葉を使うからだと思います。

 言葉は真実を隠します。

 現実を覆って見えなくします。

 生(なま)のものを加工して変えてしまいます。


 言葉で捉えることによって、物事の一部(時には全部)が

隠されたり、削られたりしてしまいます。そのことを、感受

性の強い者は無意識に感じ取り、「腑に落ちない」「納得で

きない」と疑いを持ったりします。感受性の鈍い者であって

も、ひとつひとつの言葉の不具合が組み合わさると、実際的

な問題が出て来るので、「異常(おか)しいんじゃない

か?」と疑いを持ち始めます。


 言葉が “疑い” を生みます。

 言葉によって世界は “疑い” に覆われます。

 さらに人は、“疑い” を取り除こうとするのに言葉を使う

ので、世界はより一層 “疑い” に満ちて行きます。 

 言葉によって “疑い” の満ちた世界には、安住の場所が在

るはずもありません、人はそこから逃れようとしますが、そ

の為に、また言葉を使って策を練るので、事態はひたすら悪

くなって行きます。


 とはいえ、世の中の多数派は言葉の世界にどっぷりと浸か

っているので、言葉が “疑い” を生んでいるなんて思いもし

ません。「疑わしいのは、人だ」と考えています。人をし

て “疑わしい存在” にさせているのは、言葉を使うからだと

は気付きません。


 人は日々幾度となく、何万回となく、言葉の隙間から真実

を見ているのですが、それが真実であることが分からない。

それは逆に無思考の狂気の世界に見える。ほんとは、言葉の

世界の方が狂気の世界なんですが・・・。


 人は言葉を離れることによってのみ、真実を捉えることが

できます。

 ですが、短い時間ならともかく、四六時中言葉から離れて

いては私たちは生きて行けません。

 ですから、やはり言葉を「信じない」という身構えで生き

るしかないのかなと。

 「信じない」では、何も立ち行かなくなるでしょうから、

「怪しむ」「そういうことにしておく」と言った方が良いで

しょうか。言葉はすべて方便であって、「間に合わせ」でし

かない。


 「結局、疑ってるんじゃないか! “疑い” から自由になっ

ていないじゃないか!」


 そうですね。疑ってるようにも見えますね。でも、疑って

いるのではありません。

 人間の世界は、「常に不完全だ」と考えているだけです。

 「ちょっと気を許すと、すぐにとんでもないバカを始め

る」「少々問題があっても大禍なく過ぎれば上出来だ」ぐら

いに考えています。


 言葉は不完全。

 人間は出来損ない。

 世の中はでっち上げ。


 《 完璧なんてあると思うな

       もしもあったら、まぐれ当たりだ 》


 と言ったところです。


 「誰それが『ああ言った、こう言った』」とか。

 「俺はこう思う」「あいつの言う事はおかしい」とか。

 言葉なんかを真に受けて、人間同士がいがみ合うなんてバ

カらしいし、言葉に乗せられて、しなくてもいい、する必要

も無い事に必死になるなんて後世の恥さらしだと思います。

 関西弁で言うと、人間は「要らんこと-しい」(余計なこ

とをする奴)です。

 その「要らんこと」を考えさせる元凶が言葉ですから、ほ

んとに言葉には気を付けなければ身を滅ぼします。下手をす

れば、世界を滅ぼします。


        と、私は言葉で考えてみました。

 (このブログもでっち上げ 💓)
 

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