2017年8月10日木曜日

意識について Ⅰ


 毎回、口から出まかせを書いては、ひとりで喜んでいるわ


けですが、今回は、私のこの喜んでいる 〈意識〉 について

考えてみます。

 自分では、「ついにこの話に手を出す事になったか・・」

という感じです。これを書いちゃうと “最終回” という感じ

になるくらいの大命題ですからね。

 人類にとって、“生命の誕生” と “人間の意識” ほど不思議

なものはありません。

 どちらも、「何故生まれたか?」という問いに対して、誰

一人として納得のゆく答えを出した者はいませんし、「生命

とは何か?」、「意識とは何か?」ということに対しても、

最終的な答えは出ていません(出る可能性もありません)。

そんなことにちょっとばかりとはいえ手を出そうとしている

のですから、身の程知らずも極まっています。(「ただの

人」だから、平気で “身の程知らず” が出来るわけですが)

 と、予防線を張ったところで、〈意識〉 の話です。


 何が不思議と言って〈意識〉 ほど不思議なものはありま

せん。

 「これは一体なんだ?・・・?」

と毎日思います。


 《 「意識」とは、社会が脳の中に浸潤して来たもの 》

とは、以前書いたんですが、この「意識」は、わたしたち

の 〈意識〉 の表面に在って、普段自分で意識している「意

識」 のことです。

 今回書こうとしているのは、その「意識」と、「意識」を

意識している “意識” に加えて、言葉を使わない〔 意識 〕

の三つをまとめた 〈意識〉 についてです。


 まずは、〈意識〉の在り方を整理します。


 「意識」=言葉を使い、日々の出来事を認識して統御し、

      論理的な判断を下す、社会的なパート。


  “意識” =言葉を使い、「意識」の判断に対して情緒的

      な重み付けをする、個人的なパート。 


 〔意識〕=言葉を使わず、自身と環境を感覚で認識して

      いる、生命のパート。


 〈意識〉=上記の三つを合わせた、意識の全体。


 これが、私の考える〈意識〉ですが、分かり難いので、

 「意識」=「思考」

  “意識” =「情緒」

 〔意識〕=「命」

 と(一応)しておきましょう。


 普段のわたしたちの感覚だと、「思考」が世界そのものの

様に大きくて、その中に「情緒」があり、さらにその中に

「命」がある(ようだ)、という感じだと思います。です

が、本当はこの逆だと考えた方が良いでしょう。

 「思考」を、少し大きめの 「情緒」 が取り囲んでいて、

その周りに、世界そのものの「命」が拡がっているのだと。


 ここで、わたしたちにとって要となるのは、「情緒」で

す。「情緒」は、今生きているわたしたち “個人” そのもの

で、通常はこれを起点にわたしたちの意識活動が行われてい

ます。


 「情緒」の周縁部にはワーキングメモリがあって、入って

来る情報をそこで処理しているようです。

 わたしたち人間は、情報の多くを〈言葉〉で処理する様に

なっています。たぶん農耕を始めた頃から “文化・文明” が

急速に発展し、ワーキングメモリで処理する情報の大部分

が、「社会」からものになっていった為でしょう。

 それ以前は、日々を生きる為には五感で捉える情報の方が

重要であって、〈言葉〉は「五感で捉える情報」を仲間同士

で受け渡す為のツール、あるいは “神” や “精霊” と交信す

るためのものであり、「社会」というものの形は今よりもず

っと曖昧で、〈言葉〉はまだ「道具」という域を出ていなか

っただろうと想像します。

 人が農耕を始めたことで人口は増え、優良な耕作地に人が

密集し、「社会」が大きな意味と力を持ち始めた。沢山の人

が密集して暮らす為、そこにはおのずと複雑な約束事が生ま

れた事でしょう。

 そして、その約束事が、生きて行く上で重要な課題となっ

て来たため、人のワーキングメモリに載せられる情報の多く

を〈言葉〉が占める様になり、その傾向は文明の発展ととも

に進み、いつしかわたしたちの〈意識〉は「思考」でいっぱ

いになってしまったのでしょう。〈言葉〉によって作られ動

かされて行く「社会」が、「情緒」にとって何よりも大きな

存在と成り、「社会」がまるで “世界” そのものの様になっ

てしまったのだと思います。

 
 人類が誕生して数百万年。〈言葉〉を持たない時から、人

は「五感からの情報」に頼って生きて来ました。今、わたし

たちが存在しているということは、〈言葉〉を使わずとも人

間は “生きて来られた” ということです。

 当時の、「情緒」の周りのワーキングメモリに載って来る

情報は、目・耳・鼻・口・皮膚から入って来る “即物的” な

ものだけで、それは自分を取り巻いている “環境” からのも

のと、自分の身体の中から発されるものだけです。これらの

情報に対して、わたしたちの先祖は本能的な(本能ではな

い!)対応をしていたでしょう。

 「蚊に喰われたら、そこを掻く」

 「蛇を見たら、後ずさりして警戒する」

 「果物を見つけたら、口に入れる」

 「疲れたら、休む」

 そういった行動が、生きて行くことのすべてで、怖れ・怒

り・悲しみといったものもあったでしょうが、それらは短時

間で過ぎ去る物だったでしょうね。

 その頃の人間の〈意識〉は、「情緒」と「命」だけで出来

ていた。仲間同士の意思の疎通は、勘や雰囲気で行われてい

たことでしょう。ところがある時、そこに〈言葉〉とともに

「思考」 が生まれた。何故か? これは永遠に分からない事

でしょうが、私はたぶん、人が「自分もいつか死ぬ」と気付

いたからだとみています。

 大脳の容量があるレベルを超えた頃、ある日ひとりの仲間

が死んだ。それを目の当たりにしたひとりが、「自分もいつ

か死ぬ」ことに気が付いてしまった。それは、人が初めて

“個体” というものに気付いた瞬間でもあった。“個体” それ

ぞれに、一人々々それぞれに「死」は訪れ、この世界から居

なくなる・・・。

 底知れない不安・恐怖・絶望が頭のなかに膨れ上がり、狂

い死にしそうになった瞬間、その不安・恐怖・絶望を位置付

け、コントロールする為に、脳は〈言葉〉を生み出し、「思

考」し始めたのではないか? そして、その不安や恐怖を一

人で抱え続けることには耐えられないので、他の仲間に伝え

ようとしたのでしょう。仲間たちの脳容量も、同じように十

分なレベルであったため、程なくして〈言葉〉というものは

拡がって行ったのでしょう。

 もちろん、これは私の想像でしかなく、何の根拠もありま

せんが、そういうシナリオが有りうるんじゃないかなと思っ

ているんです。

 そうやって、「思考」(知恵)というものを持ってしまっ

た人間は、不安と恐怖に支配される様になった。アダムとイ

ブが「知恵の実」を食べて、楽園から追放された様に・・。

 〈言葉〉を持って以来、不安と恐怖をコントロールする為

に、〈言葉〉を使って様々な思考体系を作り出し、社会を統

御し、宗教を生み出し、哲学し、科学し、思想を持ち、なん

とか、やがては死んでしまう “自分” というものの虚しさを

そうとして来たのでしょう。

 「情緒」と「命」だけの時には無かった抽象的な恐怖は、

〈言葉〉によって生まれ、不完全ながら〈言葉〉によってコ

ントロールされて来ました。〈言葉〉は「両刃の剣」です。

 〈言葉〉を持たない時代の人間は、しあわせだったことで

しょう。ただし、それは「知らない事による “しあわせ”」

であって、「しあわせであることを知らない」ということで

もあります。〈言葉〉を持ったわたしたちは、「知ったこと

によって不幸になった」のですが、「不幸(恐怖)」の本質

を見極めることが出来れば、「自分がしあわせであることを

知る」ことが出来るのだと思います。

 
 「社会」を持ち、膨張し続けた「思考」は個人が対応出来

るレベルを遥かに超え、「情緒」は「思考」に掛かりっきり

になってしまい、まるで「思考」が世界のすべてだと感じる

様になってしまった。

 「命」は、〈意識〉の片隅に追いやられ、普段はほとんど

顧みられることが無い。

 「情緒」は、「思考」から廻ってくる情報に “快・不快”

“喜び・悲しみ・怒り" などのレッテル貼りをする事に忙殺

され、時折「命」の側から上がって来る情報も、いったん

「思考」の中に廻してから処理する癖がついている。

 「身体の具合が悪い」→「休む」 ではなく、

 「身体の具合が悪い」→「仕事が有る」→「休めない」

といった具合に。  
 

 そんな〈意識〉の中の「思考」優先の在り方が、人間に何

をもたらして来たかは、今までに何度となく書いてきました

から、ここではふれませんが、「思考」優先の〈意識〉は 

“喜び” を生み出すことはあっても、“安らぎ” を生み出すこ

とは出来ません。


 《 人は “喜び” には飽きるが

            “安らぎ” には飽きない 》  


 圧倒的に、「思考」が “世界” だと見做されている現状か

ら、もっと「命」の方へバランスを移して行かなければ、個

しあわせになれないままだろうし、人類は自ら滅んでし

だろうなと思います。


(次回へつづく)

 

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