2017年8月21日月曜日

「運命」に翻弄される?


 私は「運命論者」でしょうか?

 「世界は惰性で動いてる」とか「人間に自由意志は無い」

なんてことばかり言っていますから、「この人は “運命論

者” だ」と思う人もいるでしょう。

 確かに「運命論者」だと言われれば、そうなのかも知れま

せんが、世間一般で言われるところの「運命論者」とは、ち

ょっと違うだろうと思います。


 普通、「運命論者」は大きな不幸や、大きな幸運に出会う

と登場して来ます。
 
 「こうなる運命だったのだ」

 でも、些細な取るに足りない出来事が起きたぐらいでは、

登場しません。

 「あなたは、今日、今、ここで、くしゃみをする運命だっ

たのだ」

 なんてことは、言いません。


 「運命論者」という者は、人生や世の中を “意味ありげな

ものにしたいだけ” の様な気がします。と同時に、何か “拗

ねてる” んでしょう。自分の思い通りにならないので、「ど

うせそうでしょうよ・・」とか、他人の不幸を見て「ザマア

ミロ」とか思ってるんだろうなぁ、とか思います。そして、

「すべては運命だ」などとうそぶきながら、誰かに迷惑を掛

けられたりすると、「なんで、こんな事をするんだ!」と怒

り出すのでしょう。(そもそも拗ねてる人ですから)

 「すべてが運命」なら、怒ってもしょうがないと思います

が、この手の人はたぶん怒ります。
 

 私の場合は、「運命論者」と言うより、「必然論者」と言

う方がよさそうです。

 「すべては、必然だ」「すべては、起こるべくして起こ

る」とか思っているのは確かですから。


 6500万年前に、巨大な隕石(小惑星?)が地球に衝突し

て、恐竜たちの繁栄は終わりました  ということになって

いますが、その隕石は、いつ?地球に衝突する事になったの

でしょう?


 その隕石が出来た事、地球が出来た事、地球の軌道が隕石

の通過コースになった事・・などなど、さまざまな因果関係

の結果、隕石は衝突した。それは、偶然と言えば偶然です

が、あらゆる因果関係をどこまでも遡って行けば、宇宙の始

まりに辿り着きます。辿り着かざるを得ません。ということ

は、「隕石の衝突・恐竜の絶滅は、宇宙の始めから起ること

が決まっていた」と言っても間違ってはいません。

 そんな、歴史上の大事件に限らず、私が、今、パソコンの

「Enter」キーを押すことも決まっていたのです。「決まっ

ていた」というよりは、「必然だった」のです。


 物事には「原因」と「結果」があります。あたりまえです

ね。

 わたしたちが行う事、わたしたちに起きる事、世界に起き

る事。これらはすべて、何かの「結果」であることは間違い

ありません。ならば、そこには「原因」があります。その

「結果」をもたらす「原因」が、過去にあります。


 窓の外でクマゼミが鳴いています。あのクマゼミが今鳴く

事にも「原因」があります。

 あなたが何かを考える。何かを話す。何かを行う。

 すべて、過去の何かが「原因」となって、無意識レベルで

あなたを動かしています。

 「運命は信じない」と思うのであれば、「運命は信じな

い」と思うような “運命” なのです。

 「運命を信じる」と思うのであれば、「運命を信じる」と

思う “運命” なのです。そういう「必然」があなたにあった

のです。
 

 こういうことを言うと「何もかも決まっているなんて考え

てると、自分が生きている事が、無意味に思えて来て虚しく

なる・・・」なんていう感慨を持つ人が結構いるでしょう。

 生きてる事は、無意味なんです。

 意味は、人間が後付けするだけです。

 本来、生きてる事に意味は無い。


 身も蓋もないことを言って申し訳ありません。(身も蓋も

無い事をいうのが、得意なんです!)

 でもね、生きてる事が無意味だからといって、「虚しくな

る」必要はありませんね。

 人は、「自分」というものを立てたがるから、「意味」を

欲しがるのです。

 「意味」が無ければ、「自分」がありません。

 「自分」が無ければ、「意味」がありません。

 その「意味」が、その「自分」が、さまざまな問題の種と

なることには気付かず、気付いても気付かぬ振りをして生き

て行く。

 「意味」は無い方がいい。「意味」は “無い” に越したこ

とはない。「意味」が無ければ、「意味」に悩まされること

も無いのですから。

 もちろん、「意味」に喜ぶこともありませんが、「意味」

のもたらす喜びというものは、相対的で限定的で一時的なも

のです。「意味」の “無い” 喜びは、それを超えます。

 「意味」が無いという事は、「自由」ということです。物

理的なもの以外、人を縛るものがありません。


 だから、「わたしたちは意味も無く、思わされ、考えさせ

られ、行動させられて生きている」と気付いている方が、

「自由」でのびのびしていられます。「自分」の事さえ「他

人ごと」の様になるからです。決して「虚しく」なんかあり

ません。「虚しい」としたら、それは「自分」に価値を持た

せたいと思うせいです。


 「すべては、必然です」

 ですが、それと同時に「奇跡です」。

 すべての出来事が、その一瞬だけの存在なんですから。 

 二度と起こることは無いのですから。
 

 「はくしょん!」


 くしゃみ一つしたって、それは空前絶後の出来事です。

 この宇宙に二度と起こらない出来事です。

 震えるほど感動したって構わないのです。


 「富士山大噴火!」


 それは確かに稀に見る大事件です。

 でも、起るべくして起こることでもあります。

 「あ、そうなの?」と言って昼寝していたって自由です。


 「運命」というものにすべてが支配されているのなら、そ

の「運命」はきっとこうささやいています。

 「どうぞ、おしあわせに」
 

 《 世界は無意味です

   だったら、しあわせにしちゃえばいいんです 》


 「何もしなくてもしあわせ」って、コスパ最高でしょ?

 難病で、寝たきりで、「何もできない。けど、わたしはし

あわせです」って人も現実に居るんです。

 一方で、なんだかんだとやりまくって、自分も他人も苦し

ませている人間もいます。(悲しいかな、それも必然です

が)

 どうせ「必然」なら、「何もしなくてもしあわせ」の方に

入れたほうが、有り難いですよね。

 このブログがそういう「因縁」の一つであるのならば、

「うれしいな」と思います。(なんでもイイですけどね。

「必然」ですから)


 では、私は「必然論者」だ。という事にして、今日はおし

まいにしたいと思います。それでは、

 「どうぞ、おしあわせに」




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