2017年8月27日日曜日

科学の限界と仏教


 仏教のことを素人なりに勉強していると、その世界観が宇

宙物理学や素粒子物理学などの考えと、よく似ているのに気

づく。


 これは別に不思議な事ではなくて、人間の脳がものを考え

る時に、人間の脳の “やり方” でしか考えられないので、考

える手法が違っても、考える対象が同じであれば、突き詰め

るほどに結果は似通って来て当然だと思われる。人間は、脳

の処理システムで拾えないデータを扱えないし、脳が考えつ

けないシステムは理解できない。それ以前に、それがシステ

ムであることに気付く事すら出来ない。 


 人間の考えは、対象にどの様なアプローチをしたとして

も、それが正しい過程を経ているのなら、山に登るのと同様

に、辿り着く答えは同じで、結局脳の機能の中に納まる(当

たり前だけど)。もし納まらなければ、「イッちゃってる」

と言われる事になる。


 昔、ホーキング博士が「ビッグバン以前の宇宙」につい

て、考えられるいくつかのモデルを話しているのをテレビで

観たけれど、あんな世界最高の頭脳の一つが、あの様な事を

考えるなんてビックリしました。「あなた、“頭の良いバ

カ” なの?」って思ったんです。


 詳細は忘れましたけど(覚える価値が無いので)、内容が

どうか以前に、科学者であれば「ビッグバン以前」の事は語

るべきでないし、語れるわけも無いのに、なんだかんだ

と・・・。ただの、ムダ話でした。幼稚園の子が、宇宙の果

ての話をするのとなんら変わりません。


 「ビッグバン以前」に何かが存在していたとしても、それ

がこの宇宙の論理で出来ているとは限りません。それを、

の宇宙の論理でしか考えられない脳を使っても、答えを得る

どころか、考える取っ掛かりすらありません。

 「ムダな事はムダだ」と、「科学は論理でアプローチする

ものだ」と、それをホーキング氏ともあろう人が忘れてしま

うなんて。

 「科学の限界を認めたくないのかな」「往生際が悪いな」

「憐れだな」といった思いを持ったのを憶えています。



 今、量子力学であるとか素粒子物理学とかが、“素粒子” 

や、その “場” の事について、大がかりな観測装置や実験装

置を使って調べていますが、もしも、最小単位であるはず

の “素粒子” の性質が、それより「さらに小さな何か」を想

定しなければ、説明出来なくなったら?

 それを観測したり、その仮説を証明したりするのに、地球

の公転軌道ほどの大きさの実験施設が必要になったりして、

科学者は「白旗」を挙げる事でしょう。そして、たぶんその

日は来るでしょう。なぜなら、「どこが終わりか」誰も知ら

ないのですから。

 「終り」が分からなければ、研究は完成しません。


 釈尊は、「起源」を語りません。

 人間の考えられる範囲を越えているので、「語れない」の

です。要するに「そんなこと考えたって、しょせん想像でし

ょ? ムダだよ。」という立場ですね。

 で、そんな「思考」の限界まで来たけれども、まだスッキ

リしないので、その限界を突破しようとして、突破しちゃっ

たんでしょうね。常人からみると「イッちゃった」わけで

す。


 「イッちゃう」と、普通は「狂っちゃう」わけですけど、

釈尊や、後の仏教の始祖方の場合、「イッちゃったらしい」

のに「狂ってはいない」様なので、「ああ、これは変な所

に “イッた” のではなくて、有り難い所へ “イッた” のだな

ぁ」ということになったのでしょう。それで、人々から支持

され帰依される様になっていったのでしょうね。


 しかし、「思考」を突き抜けて何処へ「イッた」のか?


 「感覚・体験」の最深部、あるいは最縁部へ進んだのでし

ょう。極限に微妙で極限におおらかな、感覚へのアプローチ

を続けた。そして「分かった」のではなく、“分けられな

い” と「知った」、あるいは「得た」、または「悟った」。

 「感覚的に納得した」ということになるのでしょう。



 そこは、「思考」では知り得ない《意識界》。

 《涅槃》、《極楽》、《浄土》、様々に表現されますが、

「分からない事を、分からないままに納得できる在り方」と

でも言えばいいのでしょうか。(私は「たぶんその様だ」と

しか言えませんが・・・)



 ホーキング氏は、“「思考」の人” であった為に、「思

考」の限界まで来ても諦められなかったんでしょうね。

 「感覚」のアプローチなんて思いもよらなかったんでしょ

う。その為に「思考」の壁の前から離れる事も出来ず、科学

者としてあるまじき “悪あがき” をしてしまった。「絶望」

から目をそらす為に・・・。


 こんな事を考えていると、「ポアンカレ予想」を解いた、

ロシアの数学者 グレゴリー・ペレルマンの事が頭に浮かび

ます。

 歴史的な偉業を成し遂げながら、人々の前から姿を消し

た・・・。

 彼もまた、「思考」の限界を見て「絶望」したのか?

 それとも、「思考」の限界を超えて、(有り難い所へ)

「イッてしまった」のか? 

 「そんな事考えてもね・・・」って、お釈迦様が優しく笑

っている様な気がします。




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