2022年9月24日土曜日

不幸になったらどうなる?



 「人は誰も不幸にはなりたくない。けれど、もしも不幸に

なってしまったら、どうなるのでしょう?」


 突然の問いかけで始まりましたが、この問いかけって、な

にか不思議な感じがしませんか?

 あまり突拍子もないことを問いかけている感じはしません

が、考え始めると、なんともつかみどころのない、先へ進め

ない変な感じがしませんか?

 私は、行き止まりというか、考えが動けないという感じが

します。


 「不幸になってしまったら、どうするか?」ということな

ら話は先へ進みますが、「不幸になってしまったら、どうな

るか?」というのは、“ゲーム終了” という感じですね。

「不幸になってしまった」という答えが出ていますから、も

う終わってしまってるという感じで、「どうなるか?」と問

われてもねぇ・・・。


 なぜこんなことを言い出したかというと、「不幸」の正体

というようなものを考えてみよう、ということなんです。


 仮に、あなたが、はからずも「不幸になってしまった」と

しましょう。そして「どうするか?」を考えずに、「どうな

るか?」を見届けるとします。あなたは、そして、不幸は

「どうなる」のでしょう?


 つかみどころがないですから、あなたが末期ガンになった

としましょう。そして、あなたは不幸になりました。その後

「どうなる」か?

 ガンは進行して悪化して行くでしょうが、不幸は「どうな

る」のでしょうか? ガンの悪化と共に、“より不幸” になるの

でしょうか? 死が近付くほどに、不幸はより大きく、より重

くなるのでしょうか? そして、死の目前では、巨大な恐怖の

塊のようにあなたを押し潰してくるのでしょうか?私には、

そんなオドロオドロしい感じがしないんですが・・・。


 「不幸になってしまった」

 それで「どうするか?」を考え始めると、いろいろと悩ま

しいことになるのでしょうが、「どうなるか?」を見ている

のならば、「さて、それで?」という、他人事のような感覚

にならないでしょうか?


 自分の身に、世の中で「不幸」と言われるような事が起き

たとしても、人生は続きます。

 自分の身に、世の中で「幸福」と言われるような事ばかり

しか起きないとしても、いずれ人生は終わります。それは

「不幸」も「幸福」も、人生の本質とは直接関係が無いとい

うことではないでしょうか? 

 「不幸」も「幸福」も、“生きて、死ぬ” という、人生の本

質から外れたところに貼られる “ラベル” でしかないのだと言

るのではないでしょうか・・・。


 「不幸」とも「幸福」とも関係の無い、 “人生の本質” 。そ

こに目を向ければ、絶対の安定があるのでは?


 「不幸になったら、どうなるか?」

 「幸福になったら、どうなるか?」
 

 別に、どうにもなりません。“人生の本質” には関係ありま

せんからね。

 「不幸」も「幸福」も、本当の安らかさを乱すことはでき

ません。


 思考と感情のうしろ、あるいは思考と感情の底を抜けたそ

の下に、いつでもその安らかさはある。それは誰でも確かめ

られることだと私は思っています。瞑想だとか、特別な修行

やメソッドも要らない。ただ、社会から教え込まれた価値判

断から離れて、素直に自分の内をのぞき込めばいいだけだ

と。


 表面上の、社会と関わっているあなたを、自然の脅威や、

利己的な誰かが「不幸」にすることはできます。けれど、“あ

なたの本質” が傷付くことはありません。

 あなたも私も誰も彼も、本当は、常に安らいでいるので

すから。




2022年9月17日土曜日

一寸先は闇か?



 テレビなんかで「先が見通せない時代」なんて言葉をよく

聞くけど、その度に「先が見通せる時代なんて、あったため

しが有るのかよ」と心の中で突っ込みを入れてしまう。ああ

いう表現を使うと、うなずいてもらえそうに思うんだろう

な。それと、自分でものを考えないから、型通りの表現で穏

便に済ませようとするのだろう。そのあたり、メディアで働

く人間の凡庸さが、私には見通せる・・・ように思う。


 「一寸先は闇」というではないか。先など見通せるわけが

ない。もし見通せるのなら、それは決定していることになる

ので「過去」と同じだ。先を見通せたら「未来」は無くなっ

てしまうことになる。安心安全かもしれないが、たぶん退屈

極まりなくて死にたくなるんじゃないだろうか? いや、「死

にたくなる」かどうか、「本当に死んでしまう」かどうかも

見通せているとしたら・・・それは安心安全なのだろうか?

そんなことも考えてしまう。


 「先が見通せない時代」、そんなことを言って何が面白い

んだろうか。

 そういう、上っ面の言葉を弄んで何かを言ったつもりにな

っている人間は、その先の自分にどのような見通しを付けて

いるのだろうか? そういう人間は、なんとなく、凡庸な人生

設計を持っていそうな気がする。まぁ、気がするだけだけ

ど、たぶんそうだろう。


 「見通せる未来」を生きるなら、すべては「分かっている

こと」だから、「済んだことをなぞるだけ」だと言っていい

だろうけど、「生きる」ってそれでいいの? 


 「安心安全原理主義」を刷り込まれ、強いコントロール願

望に冒され、自分のアタマを疑うことなく、人生を計画通り

に生きることを望む人たち・・・。もしも本当にそのように

なったら・・・。

 「おめでとうございます」と言ってあげよう。けれど、分

かっているなら、望んだようにすべてが進むのなら、それは

もう生きてみる必要はないんじゃないのか? さっさと埋葬し

てもらうがいいだろうな。


  「一寸先は闇」

 そんな表現をするから、気の小さい者は不安になってしま

い、科学やら占いやら宗教やらで先を照らして見通しを付け

ようとする。けれど「一寸先は闇」ではないだろう。私は

「一寸先は透明」という感じがする。誰でも素直に未来を思

えば、そんなイメージを持つのではないだろうか?


 誰もが「過去」というシナリオの先を見ようとするけれ

ど、それは常に「今」で切れている。その先は書かれていな

い。白紙だ。わたしたちの意識にとっては空白だ。それをア

タマは「闇」と表現する。けれど、「空白」は「闇」ではな

い。

 「過去」のシナリオに縛られているせいで、その先にもス

トーリーを求めるけれど、そもそも「過去」のシナリオ自体

が、起こったことを自分で脚色したものであって、本当はそ

こにストーリーは無い。ただ、起こるべくして起こったこと

のなりゆきを、自分の意識に合うようにアタマがまとめただ

けだということに普通は気付けない。

 「一寸先は闇」ではない。


 一瞬々々、わたしたちは「一寸先」を受け取りながら生き

ている。

 その「一寸先」を過去のストーリーと結びつけずに受け取

ることができたなら。「一寸先は・・・・」。


 いま見ているスマホだかパソコンだとかから目を上げ、

「先」に目を向けてほしい(内面的な意味でですよ)。

 そこに見えるのは、言葉にしようがない、止むことなく届

けられる「いま」ではないだろうか? 

 そしてそれは、空前絶後の、あなただけが受け取れる出来

事ではないだろうか?

 そこに「闇」や「光」が見えるだろうか?


 (常にとは言えないけれど)私に見えるのは「闇」でも

「光」でもなく、「驚き」と「感動」なのですが・・・。







 

2022年9月11日日曜日

日々新た



 今朝、NHKの『こころの時代』を見ていた。北陸の浄土真

宗の僧侶の方が出ていて、民藝と仏教などにまつわる話をさ

れていて面白かった。

 番組の中で、知人の陶芸家の作っている白磁と、昔の唐だ

か清だかの時代の白磁(私は陶芸には興味が無い)を田んぼ

のふちに並べて見ている場面があったのだが、それを見てい

「あっ、“古いもの” って無いんだ」と気が付いた。最近作

れた白磁も、昔の白磁も、いま、同様にそこにあるのだか

ら。


 昔の白磁は「古くからあるもの」ではある。けれど「古い

もの」ではない。いまそこに、そのような在り方で存在して

る。「今日、そのような在り方を具現化している」という

味で、「新しい」のだと思った。そして同時に、ありとあ

ゆる生きているものも物質も、いまそのような在り方で

「新しい」のだとも思った。


 年寄りは「古い人間」ではない。「古くからいる人間」

だ。

 私の住んでいる家は「古い家」ではなく、「古くから建っ

ている家」だ。

 「古いもの」は無い。

 すべてが、いま、ここに新しい。

 世界のすべてが、瑞々しいのだ。


 「過去」という物語に囚われなければ、何もかもすべては

瑞々しく目に映る。そこに見えているのは〈命〉だろう。

日々新たな、瞬間ごとに新たな、“「在る」こと” だろう。


 風景が一変した。



2022年9月4日日曜日

「やってます感」を卒業しよう



 今朝テレビを点けたら、千日回峰行の映像が流れていて、

すぐにチャンネルを変えた。

 私はああいう苦行には興味が無い。ああいうのはただの自

己満足だと思っている。そもそも、お釈迦様が苦行を否定し

た後に悟りを開いたというのに、仏教徒が苦行をするのは筋

が違うだろうとも思う。現代日本の、「“頑張る” 礼賛」にお

あつらえ向きの伝統だから取り上げるのだろうけど、ああい

うことを有難がったり、価値ある事のように受け止める必要

はないだろう。


 人というものは、手段と目的を取り違えるのを得意として

いる。手段の一つである苦行が目的になり、「悟り」という

本来の目的がどこかへ行ってしまう・・・。要するに「やっ

てます感」が満たせれば、当人もまわりも喜んで、それで

「やった!」ことにしてしまうわけです。

 それは何も仏教の修行だけではなくて、普通の社会の中で

も当たり前に起きていることで、「本当に真剣に考えれば、

他にやることが有るだろう」ということが、いっぱいある。

あり過ぎる。

 単に効率主義的に言っているのではなくて、「そんな自己

満足にエネルギーを使うのなら、効率主義の方がまだマシか

もしれないだろう」と。


 最近、“月に人を送る計画” がニュースになっているけれ

ど、それと変わらない。「他にすること有るだろう」と思

う。

 科学も宗教も経済も政治も、所詮はアタマがやることでし

かなく、本当の目的を見失うことが必然なので、自己満足で

済めばまだ良い方だ。破滅的な事態を引き起こすことも多々

あるのは歴史にあきらかだ。原爆・公害・宗教戦争・搾取・

ジェノサイド・etc・・・。


 「本当の目的」

 科学でも宗教でも経済でも政治でも、それは「安らぎ(し

あわせ)」だろうと私は思うけれど、そうではないだろう

か?


 「安らぎ」を得るのに、「千日間、雨の日も風の日も山を

駆け回る」?

 「安らぎ」を得るのなら、ご飯を食べて、家族と過ごした

りして、気楽に過ごせばそれで良いはずだが?


 《 晴天白日誤人事多 》( 晴天白日、人を誤ること多し)

                      大智禅師
                                                   

 この句は「人は、そのままでいいのに余計な事を考えて、

不必要な苦を抱え込む」といった意味ですが、なんとなく不

安になって気苦労を増やしてしまうようなのはまだカワイイ

ほうで、苦行とか大発明とか大事業とか、よく考えれば人の

「安らぎ(しあわせ)」とは関係ないことをして、「凄い事

を成し遂げた」なんて思うのはアタマが悪過ぎるだろう。も

ういい加減に、人はそういうことから卒業できないのか?


 「やってます感」はもういい。

 「感」は「感」でしかない。歴史が証明してる。

 「安らぎ(しあわせ)」に落ち着こう。

 本当に、「やろう」。


 それは「やらない」ことで見えて来る。