2022年9月17日土曜日

一寸先は闇か?



 テレビなんかで「先が見通せない時代」なんて言葉をよく

聞くけど、その度に「先が見通せる時代なんて、あったため

しが有るのかよ」と心の中で突っ込みを入れてしまう。ああ

いう表現を使うと、うなずいてもらえそうに思うんだろう

な。それと、自分でものを考えないから、型通りの表現で穏

便に済ませようとするのだろう。そのあたり、メディアで働

く人間の凡庸さが、私には見通せる・・・ように思う。


 「一寸先は闇」というではないか。先など見通せるわけが

ない。もし見通せるのなら、それは決定していることになる

ので「過去」と同じだ。先を見通せたら「未来」は無くなっ

てしまうことになる。安心安全かもしれないが、たぶん退屈

極まりなくて死にたくなるんじゃないだろうか? いや、「死

にたくなる」かどうか、「本当に死んでしまう」かどうかも

見通せているとしたら・・・それは安心安全なのだろうか?

そんなことも考えてしまう。


 「先が見通せない時代」、そんなことを言って何が面白い

んだろうか。

 そういう、上っ面の言葉を弄んで何かを言ったつもりにな

っている人間は、その先の自分にどのような見通しを付けて

いるのだろうか? そういう人間は、なんとなく、凡庸な人生

設計を持っていそうな気がする。まぁ、気がするだけだけ

ど、たぶんそうだろう。


 「見通せる未来」を生きるなら、すべては「分かっている

こと」だから、「済んだことをなぞるだけ」だと言っていい

だろうけど、「生きる」ってそれでいいの? 


 「安心安全原理主義」を刷り込まれ、強いコントロール願

望に冒され、自分のアタマを疑うことなく、人生を計画通り

に生きることを望む人たち・・・。もしも本当にそのように

なったら・・・。

 「おめでとうございます」と言ってあげよう。けれど、分

かっているなら、望んだようにすべてが進むのなら、それは

もう生きてみる必要はないんじゃないのか? さっさと埋葬し

てもらうがいいだろうな。


  「一寸先は闇」

 そんな表現をするから、気の小さい者は不安になってしま

い、科学やら占いやら宗教やらで先を照らして見通しを付け

ようとする。けれど「一寸先は闇」ではないだろう。私は

「一寸先は透明」という感じがする。誰でも素直に未来を思

えば、そんなイメージを持つのではないだろうか?


 誰もが「過去」というシナリオの先を見ようとするけれ

ど、それは常に「今」で切れている。その先は書かれていな

い。白紙だ。わたしたちの意識にとっては空白だ。それをア

タマは「闇」と表現する。けれど、「空白」は「闇」ではな

い。

 「過去」のシナリオに縛られているせいで、その先にもス

トーリーを求めるけれど、そもそも「過去」のシナリオ自体

が、起こったことを自分で脚色したものであって、本当はそ

こにストーリーは無い。ただ、起こるべくして起こったこと

のなりゆきを、自分の意識に合うようにアタマがまとめただ

けだということに普通は気付けない。

 「一寸先は闇」ではない。


 一瞬々々、わたしたちは「一寸先」を受け取りながら生き

ている。

 その「一寸先」を過去のストーリーと結びつけずに受け取

ることができたなら。「一寸先は・・・・」。


 いま見ているスマホだかパソコンだとかから目を上げ、

「先」に目を向けてほしい(内面的な意味でですよ)。

 そこに見えるのは、言葉にしようがない、止むことなく届

けられる「いま」ではないだろうか? 

 そしてそれは、空前絶後の、あなただけが受け取れる出来

事ではないだろうか?

 そこに「闇」や「光」が見えるだろうか?


 (常にとは言えないけれど)私に見えるのは「闇」でも

「光」でもなく、「驚き」と「感動」なのですが・・・。







 

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