今朝、NHKの『こころの時代』を見ていた。北陸の浄土真
宗の僧侶の方が出ていて、民藝と仏教などにまつわる話をさ
れていて面白かった。
番組の中で、知人の陶芸家の作っている白磁と、昔の唐だ
か清だかの時代の白磁(私は陶芸には興味が無い)を田んぼ
のふちに並べて見ている場面があったのだが、それを見てい
て「あっ、“古いもの” って無いんだ」と気が付いた。最近作
られた白磁も、昔の白磁も、いま、同様にそこにあるのだか
ら。
昔の白磁は「古くからあるもの」ではある。けれど「古い
もの」ではない。いまそこに、そのような在り方で存在して
いる。「今日、そのような在り方を具現化している」という
意味で、「新しい」のだと思った。そして同時に、ありとあ
らゆる生きているものも物質も、いまそのような在り方で
「新しい」のだとも思った。
年寄りは「古い人間」ではない。「古くからいる人間」
だ。
私の住んでいる家は「古い家」ではなく、「古くから建っ
ている家」だ。
「古いもの」は無い。
すべてが、いま、ここに新しい。
世界のすべてが、瑞々しいのだ。
「過去」という物語に囚われなければ、何もかもすべては
瑞々しく目に映る。そこに見えているのは〈命〉だろう。
日々新たな、瞬間ごとに新たな、“「在る」こと” だろう。
風景が一変した。
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