2022年9月4日日曜日

「やってます感」を卒業しよう



 今朝テレビを点けたら、千日回峰行の映像が流れていて、

すぐにチャンネルを変えた。

 私はああいう苦行には興味が無い。ああいうのはただの自

己満足だと思っている。そもそも、お釈迦様が苦行を否定し

た後に悟りを開いたというのに、仏教徒が苦行をするのは筋

が違うだろうとも思う。現代日本の、「“頑張る” 礼賛」にお

あつらえ向きの伝統だから取り上げるのだろうけど、ああい

うことを有難がったり、価値ある事のように受け止める必要

はないだろう。


 人というものは、手段と目的を取り違えるのを得意として

いる。手段の一つである苦行が目的になり、「悟り」という

本来の目的がどこかへ行ってしまう・・・。要するに「やっ

てます感」が満たせれば、当人もまわりも喜んで、それで

「やった!」ことにしてしまうわけです。

 それは何も仏教の修行だけではなくて、普通の社会の中で

も当たり前に起きていることで、「本当に真剣に考えれば、

他にやることが有るだろう」ということが、いっぱいある。

あり過ぎる。

 単に効率主義的に言っているのではなくて、「そんな自己

満足にエネルギーを使うのなら、効率主義の方がまだマシか

もしれないだろう」と。


 最近、“月に人を送る計画” がニュースになっているけれ

ど、それと変わらない。「他にすること有るだろう」と思

う。

 科学も宗教も経済も政治も、所詮はアタマがやることでし

かなく、本当の目的を見失うことが必然なので、自己満足で

済めばまだ良い方だ。破滅的な事態を引き起こすことも多々

あるのは歴史にあきらかだ。原爆・公害・宗教戦争・搾取・

ジェノサイド・etc・・・。


 「本当の目的」

 科学でも宗教でも経済でも政治でも、それは「安らぎ(し

あわせ)」だろうと私は思うけれど、そうではないだろう

か?


 「安らぎ」を得るのに、「千日間、雨の日も風の日も山を

駆け回る」?

 「安らぎ」を得るのなら、ご飯を食べて、家族と過ごした

りして、気楽に過ごせばそれで良いはずだが?


 《 晴天白日誤人事多 》( 晴天白日、人を誤ること多し)

                      大智禅師
                                                   

 この句は「人は、そのままでいいのに余計な事を考えて、

不必要な苦を抱え込む」といった意味ですが、なんとなく不

安になって気苦労を増やしてしまうようなのはまだカワイイ

ほうで、苦行とか大発明とか大事業とか、よく考えれば人の

「安らぎ(しあわせ)」とは関係ないことをして、「凄い事

を成し遂げた」なんて思うのはアタマが悪過ぎるだろう。も

ういい加減に、人はそういうことから卒業できないのか?


 「やってます感」はもういい。

 「感」は「感」でしかない。歴史が証明してる。

 「安らぎ(しあわせ)」に落ち着こう。

 本当に、「やろう」。


 それは「やらない」ことで見えて来る。




 


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