2022年6月25日土曜日

文明で滅びる



 ブログを開いて、「何か書こうか・・」と思ったところ

で、「そうだ、風呂を洗わなければ」と思い出して、風呂の

栓を抜きに行った。


 前に『リモコンに手を合わせて』(2020/5)という話を書

いたことがあるけれど、せいぜい「風呂を洗う」という手間

ぐらで、毎日、清潔で温かい風呂に入れることが「驚くべき

こと」だなんて思う日本人は、もう1%もいないだろうな

ぁ。 

 そういう現代日本の「普通」が、徹底的に「当たり前」に

なって、感謝や畏敬の対象にならないのは仕方がないことだ

けど、それが「当たり前」ではなかった時代が、この日本で

も1万年以上有ったのだから、むしろ、そっちが〈当たり

前〉だと認識しておいた方がいいだろうと思う。


 エネルギーをふんだんに使えるこの時代が、果たしていつ

まで続けられるのか?

 続けられたとしても、エネルギーの投入によってどんどん

改変されて行く世界に、人間はいつまで適応し続けられるの

か? 

 自然から、自然の一部として生まれてきた人間が、「思う

がままに」作り続けて来たこの世界は、一見、自分たち人間

に都合の良い世界に見える。けれど、自然の一部でありなが

ら自然の “自然な” 営みから大きく離れれば、生きては行けな

いのではないか? (『天空の城ラピュタ』のシータのセリフ

になってしまった・・・)


 世界を改変して行くのは、わたしたちの意識(思考)で

す。それは当然ながら意識に都合の良いように世界を変えて

ゆく。だけど、人間は意識だけでできているのではない。意

識以外の部分はないがしろにされ、変わってしまった世界と

適応しきれない部分が出て来ても当然のことだろう。


 意識は自分の思った方へ進む。それ以外の部分は取り残さ

れるか、意識の管理下で無理やり引っ張って行かれることに

なる。どちらにしても、それは意識にとっては大きな足かせ

となり、人の全体の在り方に大きなアンバランスを生じさせ

るだろうことは、容易に察しがつく。それは個人の中にも、

社会においても・・・。


 生物としての「飢え」と「病気・ケガ」以外の人間の苦し

みは、すべて、意識とそれ以外の部分のアンバランスが生み

出している。そして、歴史上のすべての悲惨な出来事は、そ

の延長線上に起きている。

 人は、身の丈を越えたエネルギー消費に耐え続けることが

できないのだろう  人だけではなくあらゆる生物もそうだ

ろう。(『インディジョーンズ』第4作のクライマックス

で、悪役の女がエイリアンの知識を取り込もうとして、アタ

マがパンクして死んでしまうシーンがあるけど、そういう

じのことが起こるのだろう)


 あらゆる古代文明がことごとく滅んだのは、資源を使い果

たしたというだけではなく、その資源消費に伴って生じる、

人々の中のアンバランスさが抱え込めなくなったからではな

かったろうか?


 人には人の、生物としての分際というものが有るはず。け

れど、アタマはそれを知らない。そして、アタマは行き過ぎ

るのが大好きだ。より遠く、より高く、自身の望みへと登ろ

うとする。

 そして、わたしたちの意識はからだを置き去りにして飛び

続け、自然との繋がりを失って虚空に彷徨い出てしまう。そ

の結果、からだは滅びる。文明も滅びる。


 飛び続ける意識は何処へ行くのか?

 他のからだに入り込み(心霊的な意味じゃないですよ)、

また同じことを繰り返すのだろう。それが「輪廻」というも

ので、狂気と破滅を繰り返す・・・・。それは地獄だ。


 自分の身の丈。自分の分際というものがある。

 アタマ(過去の人たちの意識)にそそのかされて、その分

際から無暗に離れようとしないことが、「輪廻」の地獄に入

り込むことを防ぐ唯一の手立てだろう。

 それはとても難しいことだけれど、人がでっち上げてきた

世界に、不注意に誘い出されてはいけない。少しは役立つこ

ともあるだろうが、そこはほぼすべてが妄想の世界だから。


 さて、私は今から風呂を洗うことにする。

 この世界の妄想の中和剤としての、畏敬とあきらめと感動

持ちながら・・・。ブラシでゴシゴシと・・・。(ちょっ

と大袈裟過ぎるけど、ホントにそういうことだと思うんです

よね)




 

2022年6月18日土曜日

怒る権利



 「怒る権利」


 そんな言葉は聞いたことがないでしょう。私も聞いたこと

がない。

 一般的な言葉じゃないし、ごくごく一部でたまに使われる

ことがあるかもしれないという程度の言葉だろうね。けれど

「怒る権利」という意識は、ほとんどの人が持っているだろ

うと思う。つまり、「それは怒って当たり前だろう」という

考え方をすることは、ごく普通にあるということです。“ある

状況下なら、人は「怒る権利」が有る” と、誰もが思ってい

るだろうと思うんですよね。しかし、私はそんな権利は無い

と思っている。

 たとえ自分が殺されようと、自分の家族が殺されようと、

「怒る権利」など無い。


 「怒って当たり前」ということは、当然ある。人としてそ

れは理解できるし、私もそのような立場に立たされて怒るこ

とは、容易に想像できる。けれど、それは「怒る権利」が有

るということではない。わたしたちには、いつ、どのような

場合でも「怒る権利」は無い。


 怒ることは人間の性癖であり、業であるけれど、正しいこ

とでも有益なことでもないし、誰も幸福にはしない。ところ

が、わたしたち人間の社会が、「怒る」ということを社会

(人間関係)を動かしてゆく条件の一つとして受け入れてし

まっているので、誰もが疑うことも無いままに怒る。そうい

うものだと思っているし、当然だとも思っている。状況次第

では、「怒るべきだ!」とさえ思っていたりすることだろ

う。けれど、わたしたちに「怒る権利」は無い。逆に「怒ら

ない義務」を課す方が良いぐらいだろう。


 わたしたちは怒る。すぐに怒る。それは病的だと言ってい

い。人間の欠陥として、これほど大きなものはない。なぜな

ら、怒る理由の99.99%は妄想だろうから。

 わたしたちは妄想の中で負のエネルギーを凝縮させ、それ

を実際の社会(人間関係)に噴出させる。結果、社会の不安

定さを増大させ、その負のフィードバックはさらなる妄想を

掻き立て、個人の中により大きな負のエネルギーを生み出す

ことになる。


 〈不機嫌より大きな罪は無い〉

 これは確かゲーテの言葉だったと思うけど、本当にそう

だ。「不機嫌」はとても大きな罪だ。

 ところが、大抵の人は「わたしが不機嫌になっても、この

状況なら当然でしょ?」というような意識を持つことが普通

だ。「怒る権利」が有ると思っている。それが、周りにも、

分自身にもどれほどの害悪を成しているかを分かっていな

い。世界が平和にならないのは当然ですね。


 怒ることが容認されている世界だけれど、怒らないこと

は、実はとても大きな社会貢献だし、自分に対しても大きな

慈しみだ。


 怒ることは愚かだ。怒ることは、社会に対しても自分に対

しても破壊的だ。


 私は、教条的に「怒るな」と言いたいのではない。

 「怒り」を押さえつけたり、無いことにしたりしても、意

識下で増悪していずれ吹き出すことだろう。

 私は、「怒る」ことの無意味さ、愚かさ、罪深さを、多く

の人が理解した方がいいと思うだけだ。そして「怒ることの

バカバカしさを感じてくれればいいのに」と思っている。


 怒ることは、人間の性癖です。人間の業です。無くすこと

はできないかもしれない。けれど、社会通念がそれを必要以

上に増悪させて、破滅的なものにし、人の不幸を怖ろしいほ

ど大きなものにしていることを知らなければいけない。

 怒ってもいい。けれど、それはわたしたちの身の丈のレベ

ルであるべきだろうし、そこに妄想を加わらせてはいけな

い。我が身を滅ぼすだけだから。

 少なくとも、“誰にも、どのような事であっても、「怒る権

利」など無いのだ” と、わたしたちは肝に銘じる必要があ

る。


 〈不機嫌ほど、大きな罪はない〉


 その罪は、わたしたちのいま生きているこの現世を、瞬時

に地獄に変えてしまう。


 閻魔さんはいない。裁判もない。

 「不機嫌」、「怒り」という罪は、即座に、自動的に、わ

たしたちを地獄に落とす。

 それは誰しもが経験しているはずのことなのですが・・。



 
 
 

2022年6月17日金曜日

社会は「安らぎ」を嫌う



 もう二年以上前に『ポジティブ・プロパガンダ』

(2020/1)という話を書いたことがある。まだコロナ騒動の

前ですね。

 “「ポジティブなのが良い事」「ポジティブであるべきだ」

という意識を社会から過剰に植えつけられて、わたしたちは

生きるエネルギーを無駄に使った上に不幸せになっている” 

というような内容だった。


 その時には言及しなかったけれど、人に「ポジティブ」を

刷り込んでおいて、個人がそこに注ぐエネルギーを社会が食

っているんですよね。「ポジティブ」の為に、しあわせに生

きるのに必要なエネルギーより過剰なエネルギーを人が出す

ので、その部分を食って、社会がムダに肥えるわけです。そ

して、肥えた部分を個人に見せて「ほら、社会はまたこんな

にエネルギッシュで豊かになったよ!あなたもそこに加わら

ないと、しあわせになれないんじゃない?だって、そんなに

みすぼらしいじゃない・・・」と不安にさせるというやり口

で、またエネルギーを使わせる・・・。それが「ポジティ

ブ・プロパガンダ」ですが、「ネガティブ・プロパガンダ」

というものも有るわけです。


 それは「ポジティブ・プロパガンダ」をちょっとずらせば

いいだけで、「ほら、社会はまたこんなに不確実で不安定に

なったよ!あなたもこのままこれに加わっていると、しあわ

せになれないんじゃない?だって、そんなに弱々しいじゃな

い・・・」と不安にさせて、不安を解消するようにエネルギ

ーを使わせて、やはり社会がそれを食う。

 どちらも、人がすぐ不安になることに付け込んでいるので

すが、この二つを交互に使って、人にムダなエネルギーを使

わせ続け、個人をスポイルするのが、社会というシステムな

んですね。社会が人を安らがせることはないのです。

 昨日も、「東京がどれほど様変わりし続けているか」とい

う話題をテレビで観たけれど、それは「社会が人を安らがせ

ることはない」ということを象徴しているわけです。動き続

けている。休む(安む)間が無い。


 「よくやるよ」と私は思うけれど、ポジティブにまたネガ

ティブに不安を刺激されて、その解消に陶酔感さえ覚える

人々は、それが自分にとって本当にしあわせかなんて考えて

みもしないわけです。

 けれど、アタマは考えないけど、からだや心(深層心理)

はエネルギーの使い過ぎで疲れ果てて、鬱病やら引きこもり

やらイジメやら依存症やらが増えるし、自殺したり過労死し

たり、理解不能な事件を起こしたりする。でも、そういった

出来事を見ても、人は個人の弱さや異常さのせいだと考え

る。その考え自体も「ポジティブ・プロパガンダ」の故なの

だけど、自分の方が異常になっているのだとは夢にも思わな

い。自分の不幸に気付けない・・・。


 私に権力があるのなら、私もプロパガンダをしてみたいも

のだ。


 「成功者の顔をじっくり見てごらん。ほんとうにしあわせ

そうかい?」

 「“恐い事になるぞ” と言うけれど、“恐い” って本当は 

“何” なんだろうね?」


 わたしたちは、社会に右往左往させられているけれど、人

間本来の在り方からすれば、その数十分の一以下の右往左往

で充分しあわせに生きられることだろう。多くの日々と時間

安らいで過ごせることだろう。

 社会は、人を安らがせないように仕向ける。

 政治が言う事、メディアが言う事、教育が言う事、さまざ

まな組織が言う事、周りの人間が言う事・・・。その「言う

事」をよく吟味してみればいい。あなたを安らがせないよう

にしていることがすぐにわかるだろう。


 社会は「安らぎ」を嫌う。

 安らいでいる人間を見つけたら、即座に揺さぶりにかか

る。

 「そんなことしてていいの?」

 「ヤバことになるんじゃない?」

 そして、じっとしていられないように仕向けて、動き出し

たらそのエネルギーを頂く・・・。


 「そんなことしてていいの?」


 「うるさい!いいんだよ、これで。もうその手には乗らな

いよ」


 そう言って、社会を「しゅん・・・」とさせてやりたもの

だ。少なくとも、心は売り渡さないよと・・・。




2022年6月11日土曜日

命より大切なもの



 コロナ騒動が始まって以来、それまでより増して、「命を

守れ!」とマスコミやら政治家やらが口走る。一般人も口走

っているのかもしれない。私みたいな考えの人間が迂闊にも

のを言うと、えらい目に遭いそうだ。「命より大切なものが

有るか!」などと詰め寄られたりしそうに思う。けど、そう

詰め寄られたら「有るよ」と答えてしまうだろう。

 「命より大切なもの」は「安らぎ」ですよ。


 こういう答えをすれば、「命が無ければ、安らぎを感じる

こともできないじゃないか」というような反論も予想され

る。まぁ、そりゃそうですね。

 とはいえ、それなら人が死んだら「安らかにお眠りくださ

い」なんてことを普通に言うのは、あれは何?


 死後も安らげない可能性があるので、そうならないよう願

っているのか。生きている間には「安らぎ」がないので「死

んだからもう安らげるね」というねぎらいなのか?

 どちらにしても、生きている間にはあまり「安らぎ」がな

いという認識が、「安らかにお眠りください」という言葉を

生んだのではないだろうか。そして、「生き死に」を越え

て、「安らぎ」を望んでいるのではないだろうか。


 拷問でもされたら、「ひとおもいに殺してくれ!」と思う

のではないだろうか?

 閉じ込め症候群になったりしたら「死んだ方がマシ」と思

うのではなかろうか?

 他にもいろいろシチュエーションが考えられるけれど、人

が「命より安らぎが大切」と思う事は、結構普通だろう。


 「命が無ければ、安らぎを感じることもできないじゃない

か」と詰め寄られたら、「安らぎがなければ、生きていても

バカバカしいじゃないか」とも、私は答えるだろう。

 
 「安らぎ」を持っていない人であるからこそ、ことさらに

「命が一番大切」などと言うのではないだろうか? そこに

は、「命を延長したら、“安らぎ” を得られる時が来るので

は?」という渇望が潜んでいるのでは? そんな風に思う。け

れど、そういう人に「安らぎ」は訪れることはないだろう。

 なぜなら、「命が一番大切」という時の、その「命」とい

うのは「個」の「命」を指している。けれど、本当の「安ら

ぎ」を得られるのは「個」の「命」から離れた時だからだ。


 「安らぎ」とは、〈恐れのない状態〉と言えるだろう。そ

して、どのような「恐れ」も、その根源は「死」だ。ちょっ

とした恐れから、人を震え上がらせるような恐れまで、すべ

ての「恐れ」は「死」を想起させるものから生まれる。「命

が一番大切」という意識は、逆説的に「死」を何よりも重い

ものにする。それが為に、「命が一番大切」という思いの、

その強さに比例して「死」はより重くなり「恐れ」も大きく

なる。その結果、「安らぎ」の占めるスペースは無くなって

しまう。けれど、人はその逆説に気付かないまま生きて行

く。


 「安らかにお眠りください」

 その言葉は、普通、人は「安らぎ」というものを本当は知

らないのだということを表しているのかもしれない。人は

「安らぎ」を知らずに生きているのだろう。

 「 “安らぎ” というものが有るらしい・・・」そういう深層

心理が、死後の世界に託されて「安らかにお眠りください」

という言葉になるのかもしれない。


 普通、人が “安らぎ” という言葉を使う時、それは「恐れ」

と、「恐れ」がやわらいだ時が織りなす波の中の、「恐れ」

がひとときやわらいだ時のことを言っているのだろうと思

う。

 けれど、それは「恐れ」が少ない状態に過ぎず、「安ら

ぎ」ではない。だから、死んだ人に対して、「安らかにお眠

りください」という、ねぎらいだか羨望だか分からない言葉

を向けることになるのではないか?「安らぎ」が何かを本当

に知っているわけではないのだけれども、自分にもいつか

「安らぎ」というものが訪れる可能性を希求して。そして、

それが「死」の側に有ることを、人は根源的に知っているの

かもしれない。


 本当の「安らぎ」は、生きている者の感じるような、「恐

れ」の波がひととき穏やかである時間のようなものではな

く、死者の赴いた所のように、永遠に変わらない穏やかさで

はないだろうか(死者に聞いたわけではないけれど)? そし

て、それは多分「死」の側に有るのだろう。そして、生きて

いながらも「死」を受け入れることによって、その味わいを

持つことができるのだろう。


 だって、考えてみて下さい。「死」をまったく恐れなくな

ったとしたら、そこに「不安」が有るでしょうか? わたした

ちは「死」を忌み嫌い、拒絶することによって、「安らぎ」

を失っているのです。


 「命」が何であるかも深く考えたことも無く。「死」が何

なのかもしっかりと考えたことも無く、「命が一番大切」

「死は恐ろしい」と条件的に反応する人たち。


 生まれてきたのだから「命」があるのは当然。

 生まれてきたのだから「死」を迎えるのも当然。

 それを本当に受け入れた時、本当の〈命〉に出会う。

 本当の「安らぎ」の中に落ち着くことができる。


 自分の、命と、意識の、奥の奥・・・。

 そこには、なにものにも乱されることのない「安らぎ」が

ある。

 それは、深く内省すれば、誰にでも分かることだと私は思

っているのですが・・・。



 



2022年6月4日土曜日

おいおい、どこへ行くの?



 4月から、Eテレの『こころの時代』で「歎異抄にであう

~無宗教からの扉」というシリーズをやっている。月一回で

全6回。あと4回ある。

 法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』にも触れ

ながら、『歎異抄』が何を語っているのかを解いてゆくとい

うシリーズ。


 阿満利麿という宗教学者の方が講師で、『歎異抄』の解説

をされているのだが、この解説がとても良い。言葉の選び方

が適切で印象的、話し方も、言葉を聞き手の意識に一つ一つ

置いてゆくといった感じで、言いっ放しにしない。『歎異

抄』や念仏や仏教に興味のある人なら見て損はないだろう。

私も、残りの4回を楽しみにしている。


 『歎異抄』といえば、「善人なおもって往生をとぐ、いわ

んや悪人おや」という言葉がまず浮かぶ。

 「善人でも往生できるのだから、悪人なら尚のこと往生は

まちがいない」というのだが、私は少し異議を唱えたい。ど

のような異議かというと、この言葉は将来のことを言ってい

るのだけど、私は現在完了進行形で言いたい。

 「善人でも往生しているのだから、悪人なら尚のこと往生

している」と。(念のためですが、ここで言う「往生」は、

「困っている」という意味ではない)


 「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽往生できるとい

うのが、浄土宗・浄土真宗だけど、たぶん法然も親鸞も本音

は違うと思う。本当は「南無阿弥陀仏と唱えることで、自分

がすでに往生していることを確かめられる」と言いたいのだ

ろう。けれど、当時の時代状況と庶民の気分に合わせて、

「往生できる」と、将来への望みとして表現したのだろうと

思う。


 わたしたちは「行き過ぎてる」のです。

 この世に生まれた瞬間から “往生” しているのに、余計な考

えに囚われて、 “往生” の外へ目を向けてしまう。そして “善

人悪人ごっこ” に憂き身をやつすことになる。

 なぜそうなるかと言えば、教育(育て方)のせいですね。

自分の本質や、いま在る自分ではなく、外(世の中)に目を

向けるように躾けられてしまうから。

 “そのまま” 、“このまま” の価値に落ち着くすべは教えら

れず、自分以外の物ばかりを意識するクセを付けられてしま

う。

 “自分” という「ゼロ点」から一歩でも半歩でも踏み出せ

ば、それは「行き過ぎ」です。“自分” からさまよい出

て、“自分” を見失うことになる。


 「阿弥陀仏」は存在しません。

 「阿弥陀仏」は “空” のことだからです。

 “自分” の外にある事柄すべては妄想である。お話しであ

る。本当は何も無い。“空” である。その “空” を自分に分か

らせる。それが「南無阿弥陀仏」の名号です。

 「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「“空” に、自分を投

出す」という表明なり確認なりの行為です。


 「阿弥陀仏」は、いつでも、わたしたちの背後から呼びか

けています。

 「おいおい、どこへ行くの?」


 わたしたちが立ち止まり、振り返るなら、ここはいつでも

極楽なのだと。



2022年6月1日水曜日

バカから逃れられない



 このところ、私は少し機嫌が悪いようだ。最近書いたブロ

グも、どこかイジワルで投げやりな感じがすると自分で思

う。二年以上も続くバカげたコロナ騒動や、ウクライナでや

ってる戦争のことなんかで、どこかしら不愉快さが溜まって

いるのかもしれない。


 《 機嫌の悪い奴はバカである 》

 私はそういう認識の人間なので、「ああ、バカになって

る・・・」と、最近の自分を思い、ため息をつく・・・。あ

あ、アタマが悪い。

 けれど、しようがないのだ。人は物心付いてから死ぬま

で、バカで生きるしかない。お釈迦様ぐらいになると違うか

もしれないが、それはとてもとてもわずかな例外だ。人はバ

カである。


 機嫌が悪くならない人間を見たことが有る人はいないだろ

う。それが、人はみなバカだということの、一つの証明とな

る。

 “「自分はバカではない」とか「いつか自分は、バカを卒業

できる」などということは、ゆめゆめ思わないことだ” など

と、マイクを握って街頭演説でもしたいところだ。


 誰もが「バカ」の自覚を持てば、世の中はかなりマシなも

のになるだろうと思う。ただし、前向きな「バカ」の自覚で

なければいけないが・・・。

 
 「自分はバカだ・・・」と卑下して、不機嫌になったりし

たらなおさらバカだ。それはバカ過ぎる。

 「だって、バカだも~ん🧡」という気楽で謙虚な態度が望

ましいと思うが、これはうっかりすると、「だって、バカだ

も~ん😎」という軽薄で傲慢な、エゴの免罪符になってしま

う。そのあたりは、やはりバカではいけないのだ。


 「結局どっちなんだ?バカでいいのか?バカじゃいけない

のか?」という話だけど、「いいか、悪いか」の話ではな

い。バカであることからは逃れられない。誰もが死ぬまでバ

カである。そのことを、徹底的に認識していること。その一

点だけは賢くなければいけないのだ。そして、その一点だけ

賢ければそれでいいのだ。


 自分がバカであることを分かっていること。

 誰もがバカであることを分かっていること。

 その徹底的な理解が、自分と世の中に平和をもたらす。


 誰も自分のバカからは逃れられない。それを前向きに認め

て受け入れると、人は穏やかになれる。

 自分のバカを許せば、他人のバカも許せるようになる。

 他人のバカを許せば、自分のバカも許せるようになる。

 他人のバカに出会っても、「しようがないよね」と受け入

れられれば、苛立ちが消える。穏やかさを保てる。

 自分のバカに出会っても、「しようがないよね」と受け入

れられれば、自己嫌悪が消える。穏やかさを保てる。


 「いいか、悪いか」の話ではない。人は皆バカである。し

ようがないのである。

 わたしたちには、バカが作り付けになっている。バカから

は逃げられない。ただ、バカを許せる賢さだけは持っていた

いものだ。それさえあればことは足りる。実のところ、「賢

さ」とは、それだけのことなのかもしれない。