2022年6月4日土曜日

おいおい、どこへ行くの?



 4月から、Eテレの『こころの時代』で「歎異抄にであう

~無宗教からの扉」というシリーズをやっている。月一回で

全6回。あと4回ある。

 法然の『選択本願念仏集』や親鸞の『教行信証』にも触れ

ながら、『歎異抄』が何を語っているのかを解いてゆくとい

うシリーズ。


 阿満利麿という宗教学者の方が講師で、『歎異抄』の解説

をされているのだが、この解説がとても良い。言葉の選び方

が適切で印象的、話し方も、言葉を聞き手の意識に一つ一つ

置いてゆくといった感じで、言いっ放しにしない。『歎異

抄』や念仏や仏教に興味のある人なら見て損はないだろう。

私も、残りの4回を楽しみにしている。


 『歎異抄』といえば、「善人なおもって往生をとぐ、いわ

んや悪人おや」という言葉がまず浮かぶ。

 「善人でも往生できるのだから、悪人なら尚のこと往生は

まちがいない」というのだが、私は少し異議を唱えたい。ど

のような異議かというと、この言葉は将来のことを言ってい

るのだけど、私は現在完了進行形で言いたい。

 「善人でも往生しているのだから、悪人なら尚のこと往生

している」と。(念のためですが、ここで言う「往生」は、

「困っている」という意味ではない)


 「南無阿弥陀仏」と唱えれば、誰でも極楽往生できるとい

うのが、浄土宗・浄土真宗だけど、たぶん法然も親鸞も本音

は違うと思う。本当は「南無阿弥陀仏と唱えることで、自分

がすでに往生していることを確かめられる」と言いたいのだ

ろう。けれど、当時の時代状況と庶民の気分に合わせて、

「往生できる」と、将来への望みとして表現したのだろうと

思う。


 わたしたちは「行き過ぎてる」のです。

 この世に生まれた瞬間から “往生” しているのに、余計な考

えに囚われて、 “往生” の外へ目を向けてしまう。そして “善

人悪人ごっこ” に憂き身をやつすことになる。

 なぜそうなるかと言えば、教育(育て方)のせいですね。

自分の本質や、いま在る自分ではなく、外(世の中)に目を

向けるように躾けられてしまうから。

 “そのまま” 、“このまま” の価値に落ち着くすべは教えら

れず、自分以外の物ばかりを意識するクセを付けられてしま

う。

 “自分” という「ゼロ点」から一歩でも半歩でも踏み出せ

ば、それは「行き過ぎ」です。“自分” からさまよい出

て、“自分” を見失うことになる。


 「阿弥陀仏」は存在しません。

 「阿弥陀仏」は “空” のことだからです。

 “自分” の外にある事柄すべては妄想である。お話しであ

る。本当は何も無い。“空” である。その “空” を自分に分か

らせる。それが「南無阿弥陀仏」の名号です。

 「南無阿弥陀仏」と唱えることは、「“空” に、自分を投

出す」という表明なり確認なりの行為です。


 「阿弥陀仏」は、いつでも、わたしたちの背後から呼びか

けています。

 「おいおい、どこへ行くの?」


 わたしたちが立ち止まり、振り返るなら、ここはいつでも

極楽なのだと。



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