2022年6月18日土曜日

怒る権利



 「怒る権利」


 そんな言葉は聞いたことがないでしょう。私も聞いたこと

がない。

 一般的な言葉じゃないし、ごくごく一部でたまに使われる

ことがあるかもしれないという程度の言葉だろうね。けれど

「怒る権利」という意識は、ほとんどの人が持っているだろ

うと思う。つまり、「それは怒って当たり前だろう」という

考え方をすることは、ごく普通にあるということです。“ある

状況下なら、人は「怒る権利」が有る” と、誰もが思ってい

るだろうと思うんですよね。しかし、私はそんな権利は無い

と思っている。

 たとえ自分が殺されようと、自分の家族が殺されようと、

「怒る権利」など無い。


 「怒って当たり前」ということは、当然ある。人としてそ

れは理解できるし、私もそのような立場に立たされて怒るこ

とは、容易に想像できる。けれど、それは「怒る権利」が有

るということではない。わたしたちには、いつ、どのような

場合でも「怒る権利」は無い。


 怒ることは人間の性癖であり、業であるけれど、正しいこ

とでも有益なことでもないし、誰も幸福にはしない。ところ

が、わたしたち人間の社会が、「怒る」ということを社会

(人間関係)を動かしてゆく条件の一つとして受け入れてし

まっているので、誰もが疑うことも無いままに怒る。そうい

うものだと思っているし、当然だとも思っている。状況次第

では、「怒るべきだ!」とさえ思っていたりすることだろ

う。けれど、わたしたちに「怒る権利」は無い。逆に「怒ら

ない義務」を課す方が良いぐらいだろう。


 わたしたちは怒る。すぐに怒る。それは病的だと言ってい

い。人間の欠陥として、これほど大きなものはない。なぜな

ら、怒る理由の99.99%は妄想だろうから。

 わたしたちは妄想の中で負のエネルギーを凝縮させ、それ

を実際の社会(人間関係)に噴出させる。結果、社会の不安

定さを増大させ、その負のフィードバックはさらなる妄想を

掻き立て、個人の中により大きな負のエネルギーを生み出す

ことになる。


 〈不機嫌より大きな罪は無い〉

 これは確かゲーテの言葉だったと思うけど、本当にそう

だ。「不機嫌」はとても大きな罪だ。

 ところが、大抵の人は「わたしが不機嫌になっても、この

状況なら当然でしょ?」というような意識を持つことが普通

だ。「怒る権利」が有ると思っている。それが、周りにも、

分自身にもどれほどの害悪を成しているかを分かっていな

い。世界が平和にならないのは当然ですね。


 怒ることが容認されている世界だけれど、怒らないこと

は、実はとても大きな社会貢献だし、自分に対しても大きな

慈しみだ。


 怒ることは愚かだ。怒ることは、社会に対しても自分に対

しても破壊的だ。


 私は、教条的に「怒るな」と言いたいのではない。

 「怒り」を押さえつけたり、無いことにしたりしても、意

識下で増悪していずれ吹き出すことだろう。

 私は、「怒る」ことの無意味さ、愚かさ、罪深さを、多く

の人が理解した方がいいと思うだけだ。そして「怒ることの

バカバカしさを感じてくれればいいのに」と思っている。


 怒ることは、人間の性癖です。人間の業です。無くすこと

はできないかもしれない。けれど、社会通念がそれを必要以

上に増悪させて、破滅的なものにし、人の不幸を怖ろしいほ

ど大きなものにしていることを知らなければいけない。

 怒ってもいい。けれど、それはわたしたちの身の丈のレベ

ルであるべきだろうし、そこに妄想を加わらせてはいけな

い。我が身を滅ぼすだけだから。

 少なくとも、“誰にも、どのような事であっても、「怒る権

利」など無いのだ” と、わたしたちは肝に銘じる必要があ

る。


 〈不機嫌ほど、大きな罪はない〉


 その罪は、わたしたちのいま生きているこの現世を、瞬時

に地獄に変えてしまう。


 閻魔さんはいない。裁判もない。

 「不機嫌」、「怒り」という罪は、即座に、自動的に、わ

たしたちを地獄に落とす。

 それは誰しもが経験しているはずのことなのですが・・。



 
 
 

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