2019年4月30日火曜日

平成



 まもなく平成が終る。

 天皇皇后両陛下は「覚悟の人」であった。

  “100 % 公人” として生きることを決意し、そのように

生きてこられた。個人としての自分を捨てられた。「象徴天

皇として、全身全霊をもって・・・」とはそういうことに他

ならない。ほんとうに凄い方々だと言うしかない。

 その年月の中では、我々には計り知れない苦悩も持たれて

いただろう。けれど、その年月はほんとうに幸福な日々でも

あったであろう。なにせ「全身全霊をもって・・・」なの

だ。

 個人を捨てて、全身全霊をもって生きる日々が幸福でない

わけがない。それは、ひとつの「悟り」の “生” であるに違

いない。


 天皇陛下が常に泰然とされていたのは、なにも「自分は天

皇である。偉いのである」などと思われていたからではな

い。個人であることを捨て、覚悟の中で生きられていたから

だ。

 個人として、自身はもう死んでいる。死んでいるのだか

ら、怖れるものは何も無い。だから泰然としていられ

る・・・。なんとも凄い。


 沢木興道老師の遺した言葉に、こういうのがある。


 「顔の勾配がものをいう」


 その人の、佇まいがすべてを語ってしまう。



 私は、二十代の前半は、「天皇も皇室も別に要らないんじ

ゃない? 税金のムダじゃない?」ぐらいに思っていた。し

かし、両陛下の姿、振る舞いを見ているうちに「この方々は

本気だ・・・」と思うようになった。考え方が一変してしま

った。「本気の人」「覚悟の人」には敵わない。こういう

方々がおられる国で生きていられることは、しあわせなこと

だと思った。



 長い年月、ごくろうさまでした。

 いまさら個人に戻る必要も無いでしょうが、「個」の時間

と空間の中から、人々の暮らしに、この国の風土に、あらた

めて親しんでいただけたらいいなと思います。

 ありがとうございました。


 (まさか自分がこんなことを書く人間になるとは思っても

みなかった。そうさせられてしまったんだね。両陛下に。凄

いなぁ。)




2019年4月29日月曜日

何にも知らない



 このブログの中で私がカタカナで 「アタマ」 と書く時は、

主に 「エゴ」 や 「思考」 といった意味で使っていますが、突

き詰めて言うと、わたしたちの頭が持つ 「情報処理ソフト」 

のことです。『アタマをアンインストール』(2017/10)

いう回で、独りよがりなお遊びとして前に書きましたが、

「アタマが悪さをする」というのは、このソフトが根本的な

問題を持っていて、常に不具合を犯すことを指しているわけ

ですね。

 それにもかかわらず、わたしたちは普通このソフトしか使

った事が無いので、しょっちゅう頭を抱え、腹を立て、泣き

ながらでも、「そういうもんなんだ・・・」と思いながらこ

のソフトを使い続けているわけです。代わりも無いし・・。


 このアタマという「情報処理ソフト」の最大の問題は、

「自分は分っている・・」「自分は正しい・・」「自分は知

っている・・・」という前提で情報処理を行うことです。

 どのような情報でも、「自分は分っている」「自分は正し

い」という結果に成るように強いバイアスの係った情報処理

をしてしまいます。外界と適切な対応をする為に情報処理を

しているのではなくて、自分に適切な情報になるように、情

報を処理してしまいます。要するに、情報を自分の都合の良

いように処理します。そういう働きをする「情報処理ソフ

ト」なんですね。


 そのように、誰も彼もが自分の都合の良いように情報を処

理しているのですから、人と人が対立したり、誤解し合った

  そもそも「理解」というものが存在するかどうか怪し

いですが  するのは当然だし、自然環境などに適切に対応

できなくなったりするのも当たり前です。


 そういうソフトですが、わたしたちは「自分はダメだ!」

とか「自分のせいだ・・・」などと落ち込むこともありま

す。それは一見「自分は正しい」という処理をしていないよ

うに見えますが、それは自身の情報処理方法を疑っていない

から起こることなんですね。だって落ち込む必要はないじゃ

ないですか? 間違ってたのなら、正せばいいだけのことで

す。

 落ち込むというのは、単に結果の悪さを問題視しているだ

けであって、「あっ、自分の情報処理方法が間違っていたか

ら、こういう結果を招いたんだ」という情報処理ができてい

ない。

 なぜそうなるかといえば、このソフトにとって最も大切な

のは、ソフト自体が「正しい」ことであって、ソフトの導入

されている人間は二の次なのです。ソフトは間違わないこと

にしたいのです。だから大きな問題を起こした時には、結果

だけを情報処理から切り離して、問題の処理を放棄してしま

う。そして、どうしていいか分からなくなって  情報の処

理を止めてしまって  悩み苦しむことになる。


 わたしたちの意識は、アタマというソフトに乗っ取られて

しまっているのです。

 何も分かっていないのに「分かった」ふりをし、何が正し

いか知らないのに「正しいこと」を分かっているふりをし、

本質的にはなにも知らないのに「知っている」ふりをす

る・・・。とんでもないものに、自分の思考・生きることを

預けてしまっています。

 苦しい事が次々に起ったり、愚かとしか言いようがない事

が世の中でひっきりなしに起ります。

 (こういう見方は納得できますか?)


 わたしたち(アタマ)は、何も分かっていないのです。

 わたしたちは、何が正しいか知らないのです。

 わたしたちは、本当に大切なことは何も知らないのです。


 「わたしは、本当は何も知らない!」


 そう宣言してみます。

 すると、すぐにアタマは「いや、そんなことはない。なぜ

なら、□□△△××で・・・」などと、アタマの中で自分の

正当性を語り始めます。大慌てで・・。

 でも、それに捕らわれずに、「いや、わたしは何も知らな

い」「知っているふりをしてきただけだ」「何が正しいかな

んて分らない」と宣言し続けます。そうし続けていると、や

がてアタマの声は「しゅん・・」となって、静まって来ま

す。いわば「ばれた・・・」とアタマの方が認識するので

す。

 そして、「意識」の主導権がいくらか自分自身の方へ移っ

て来ることになります。


 禅の修行なんかでやっていることが、そういうことです

ね。「知ったかぶり」のアタマを黙らせる為に、決まり通り

の生活の中で「個人の都合は認めない」ことを貫いたり、公

案を与えてアタマの “ご都合主義の情報処理” をマヒさせた

り・・・。

 「オマエ、何にも分かっていないだろ?」

 「オマエ、何にも知っていないだろ?」

と、責め立てる。アタマが泣いて退散するまで。


 出家して、禅の道場に入って修行する事は、そういう縁の

ある限られた人でなければできません。でも、普通の暮らし

をしながら、同じような事はできます。


 「わたしは、何も知らない」

 「わたしは、何も分かっていない」

 ことあるごとに、そう宣言し続けます。


 そんなことして何になるか?


 私は知りません。

 たぶん、しあわせになれると思っています。


 やってみなくちゃ「分からない」。


 (ここに書いたことは私の思い込みかも知れません。

  なにせアタマで考えて書いているのですから・・・。

  私は知りません。)




2019年4月28日日曜日

敬意を払え



 歩きスマホをしている奴だとか、電車の中でスマホに夢中

になって周りの人の邪魔になっている奴だとかが不快なの

は、「そいつが “傍若無人” だからだ」というような話は以

前書いた。“傍(かたわ)らに人無きが若(ごと)し” 、要

するに周りの人間に敬意を払っていないのです。


 「敬意をはらえ!」

 そう言いたい場面に出くわすことが、もの凄く増えたよう

な気がする。

 単に自分が歳をとって頭が固くなり、狭量になって来たか

ら、ということではなさそうに思う。人に敬意を払わない日

本人が、実際に増えている気がする。

 それぞれがとても狭い世界に入り込んで、その世界の外に

いる者は存在していないかのように振る舞う・・・、と言う

より、存在していないんだろうなぁ。

 存在しないものに敬意を払う必要など無いのだから、敬意

を払わないのは当然だというだけなんだろう。


 人に対して敬意を払うということは、自分自身が心穏やか

でいるためにとても重要なことです。「どうでもいい」「い

ないのと同じ」という人間が自分のまわりに増えれば増える

ほど、その人の世界は無価値なもので囲われてゆくことにな

るのですから、人に対して敬意を払わないということは、自

分の生きる世界の価値を消してゆくことになる。そうして自

分の生きる世界の価値が損なわれて行くと、その不毛さから

逃れようと増々狭い世界に逃げ込もうとする悪循環にはまっ

て行くことになる。価値が有るのは、自分と自分の世界だ

け・・・。

 人に対しての礼儀だとかマナーだとかいうことではなく

て、自分の生きている世界を価値あるものにするために、自

分のためにこそ、人に敬意を払うべきなのです。



 と、ここまで書いたことは、人として望ましい態度で、そ

れなりに意味のあることだと思いますが、実はそこからもう

一歩先へ進んでみたいのです。

 人だけではなく、生きているものだけではなく、あらゆる

ものに対して敬意を払おうと。


 服に対して、ドアに対して、石ころに対して、道に捨てら

れているタバコの吸い殻に対して、犬のウンコに対して、ホ

コリに対して、排気ガスに対して、ノロウイルスに対し

て・・・・。プルトニウムに対してだって敬意をもって接す

る方が良い(接してはいけないのですが)。

 空気に対して敬意を払い、地面に対して敬意を払う。敬意

を払って、地面を踏んで歩く・・・。

 なぜそんなものに敬意を払うか?

 それらが、自分と同じように「存在している」からです。


 私はなにも「犬のウンコを好きになれ」だとか、「タバコ

の吸い殻を道の上にそのままにして、温かく見守れ」などと

言いたいわけではない。

 蚊が飛んで来たら「パチン!」と叩き潰していいし、着ら

れなくなった服を捨てたって構わない。チンピラにからまれ

そうになったら逃げればいいし、イヤな上司や同僚を避ける

のも当然の事です。でも、そうしつつも、その存在に対して

の最低限の敬意を持っていなければならないと思うのです。

それらが、自分と同じように「存在している」から。


 「愛する」とか「大切にする」とか「認める」とかいった

ことでもないのです。「敬意を払う」という言い方しか出来

ないのです。他の表現を思いつきません。言葉に出来ない。


 視線を下げると自分の身体が見える。

 その自分の身体に対して、「良い」とか「悪い」とか「大

切」だとか「愛しい」だとかの想い以前に、言葉にはならな

い “肯定的な、ある感覚” をわたしたちは持っているはずで

す。その “感覚” 、“想い” を、自分以外のすべてのものにも

向けられないか?


 どんな存在であってもおろそかにできない。それを無いこ

とにはできない。「それが在ることの “絶対性” 」とでもい

うものを意識する。


 そういう想いを持つことができれば、世界は価値あるもの

だけで満たされることになるはずです。それは、人間の世界

の価値とは違うものですが・・・。


 四六時中、地面に敬意を払いながら歩くことなんてできま

せん。でも、時折そのことに想いを致す。

 ドアノブに手を掛けた時、敬意を持ってドアノブを回して

みる。

 ペットボトルのフタを開ける時、敬意を持ってフタを開け

る。

 スマホの画面をさわる時、敬意を払って指を滑らせてみ

る。


 それがどうだというのか?

 やってみればわかる。

 わかる人にはわかる。

 本当ならすべての人がわかるはずなんです。


 敬意を持ってスマホに触れる。

 「スマホも自分も存在している・・・・」

 そして視線を上げる・・・。

 自分のまわり「すべて」が存在している・・・。存在して

いる・・・。存在している!


 敬意を払え。


 自分と、世界の幸福の為に。



 

2019年4月21日日曜日

春宵一刻値千金



 『春宵一刻値千金(しゅんしょういっこくあたいせんき

ん)』という言葉がありますね。誰が言ったのか知らないけ

れど、本当にそうだなぁと思う。春の宵の何とも言えない気

分・・・。目から耳から鼻から肌から伝わってくる感覚が、

すべて美しく心地良い。さらにタラの芽の天ぷらでも食べな

がら純米酒でも飲めれば、五感すべてが「値千金」です。


 こういう感覚って、今の若い子たちはどれだけ感じられる

んだろう?

 若い子に限らず、私と同年代の人間でもどれだけ共感して

もらえるのだろう?

 一日の多くをスマホに向かってる感受性で、「自然と解け

合う喜び」のような気持ちを持てるのだろうか?


 「人間ばっかり相手にしてると、あたまがおかしくなる」

と私は言うのですが、自然との関わりを減らせば減らすほど

人は観念的になる。観念的になればなるほど、現実から乖離

する。

 現実から乖離するということは、「あたまがおかしくな

る」ということです。現実とは違うところに自分の “現実” 

を作ってしまう。


 わたしたちの五感は、自然の状況を捉える為に備わってい

るものです。人も自然から生まれた自然の一部としては当然

です。けれど今は、その五感の一部だけを使って、人間の世

界の状況だけを捉えて「それで良し」としている。

 自然に目を向ける人であっても、五感から入って来る感覚

に観念のフィルターをかけてから受け止める人が多いのでは

ないのだろうかと思う。見事な桜を見ても、まずスマホで撮

影してから、自分の目で見て味わうのはほんの数秒といった

様に・・・。


 これまでに何度となく書いていますが、人間の世界は “お

話” です。それが現実だとしても、その現実は、わたしたち

が “お話” を具体化したことによって存在している “作り物”

です。わたしたち人間は “作り物” の中に住んでいます。そ

してその “作り物” 加減は、今や極限に達しようとしている

気がします。

 昔は、たとえ “お話” の中であっても、その中で主役は人

間であったのです(あたまがおかしいとはいえ・・・)。と

ころが、今や、経済がテーマであり、主人公は AI になろう

としています。人間は、AI が「経済」という “お話” を 進

るのを支える黒子に成り下がろうとしています。


 人間は “手段を目的にしてしまう” のが得意ですが、それ

が行き行くところまで行き着こうとしているのが現代ではな

いだろうか? ついに、自らが “手段の手段” になろうとして

いる・・・。「軒を貸して母屋を取られる」とでも言うの

でしょうか・・・。


 「万物の霊長」などと思い上がって、アタマの “作り物” 

に入れあげている内に、人間は引き返せない所まで来てしま

ってるようです。


 「春宵一刻値千金」という “肌感覚” は、自身がこの自然

の世界の一部であることを感じさせます。

 色・形・光・音・匂い・温度・感触・味・・・。

 自然から与えられた感覚で、自然から伝えられるものを受

け取る・・・。

 たとえどんなにテクノロジーが進んでも、人間が自然の一

部であることは変わらない。


 もしも将来、機械のからだに AI の脳を搭載して、そこに

感情を入れ込んで今と同じように感じて考えられる様になっ

たとしても、その機械のからだや脳も、「劣化」という自然

の働きからは逃れられないだろう。結局、わたしたちは自然

の一部でしかなく、自然の理(ことわり)の中にある。

 それならば、人間が誕生した時と同じように自然の中で生

かされていればそれで良いんではないだろうか? 人間がし

ていることのほとんどは、余計なことなんだろう。それが必

然ではあるのだろうが・・・。


 この、美しく・香しく・おだやかで・あたたかな “春の

宵” を、からだ全体で感じる喜びは、人に与えられた最高の

贈り物の一つじゃないかと思う。そこにアタマを出しゃばら

せるとぶち壊しになる。


 この「一刻」を受け止め、味わい、自然の一部として、自

然を生きる。


 人間の幸福とはそういうことだと思うんだけどね・・・。


 「春宵一刻値千金」!


 今を大切に。


2019年4月17日水曜日

平成を振り返ってたら・・・



 平成ももうすぐ終わりということで、この頃テレビで平成

の出来事を振り返る番組がよくある。

 先日その手の番組を見てたら、オウム真理教の村井氏が刺

殺された時の映像の中で、オウム真理教の支部のガラスに

『絶対幸福』と書いた紙が貼ってあった。 

 「あら、まあ・・・参ったね・・・」と思った。だって『絶

対幸福』という言葉を、このブログの中で何度か使っている

んだもの。

 だから一応断っておこう。私はオウムと関係ありません。


 オウム真理教の中で使われていた『絶対幸福』という言葉

と、私が使う『絶対幸福』という言葉が、違う意味なのかど

うかは分からない。だって、私はオウム真理教の中で麻原が

どんなことを教えていたのか知らないから。

 けれど、オウムの中で使われていた『絶対幸福』と、私の

言う『絶対幸福』が同じ意味だという可能性はけっこう高い

だろう。なぜなら、オウム真理教は “まじめな団体” だった

だろうから。「人として本当に幸福を得る為にはどうすべき

か」と本気で考え、努力していただろうから。決して、人を

不幸にしようとか、世の中に地獄を具現化しようなどとは思

っていなかったはずだから。“まじめ” にやった結果があれ

だったのだろうから・・・。


 “まじめ” は方向性をまちがうと怖い。なぜなら “まじめ” 

は視野が狭い。

 「真面目」という漢字を見れば、その視野の狭さが分かる

はず(分かるでしょ?)。

 もしも、オウムの掲げた『絶対幸福』と、私の言う『絶対

幸福』が同じ意味ならば、うっかりすると私もオウム信者の

ような視野狭窄に陥りかねない。ああ怖い・・・。

 怖いけれども、実のところそのような “怖さ” を生理的に

感じているので、このブログは当初から、常にある程度の

「ゆるさ」をベースにして書かれている。「ゆるさ」が無け

れば怖い・・・。

 人は、「ゆるさ」を失った瞬間に “観念的” になる。

 “観念的” になった瞬間に「ゆるさ」を失う。

 それは同時に起こる。

 “まじめ” は怖い。


 “まじめ” は「観念のかたまり」で、それは条件が揃えば

あっという間に「原理主義」に成長し、自分の観念に都合の

良いものだけを見て、不都合なものは見ないという “視野狭

窄” を起こす。歴史上のあらゆる暴力  身体的・精神的・

経済的・文化的を問わないあらゆるかたちの  は、そうし

て起った。


 人がどんな考えを持っているかということも重要だけれ

ど、どれだけ “まじめ” かということも大きな問題だ。

 「大真面目」というのは「× 無限大」というようなこと

で、その考えが人や世界の本質を見誤ったものであれば、そ

の “誤り” も無限大になってしまう。要するに「狂気」とな

る。


 オウムの起こした事件はもちろん。ナチスのやったこと

や、大平洋戦争中の日本人の思考や、原爆を投下したり一般

市民の上に焼夷弾を雨のように降らせたアメリカの考えや、

昭和の大学紛争や赤軍派などの過激派の活動。政治・経済・

ヒューマニズムの名の下に行われる人間疎外と環境破壊。

「安心安全」の為に “管理” され、安らかさを失う

人々・・。

 そのようなことに関わる人たちはみんな「大真面目」な人

たちだ。いわば「善人」だ。「正義の人」だ。「正しい人」

だ・・・。

 ああ、怖い。“まじめ” は怖い・・・・・・。


 浅原彰晃は “まじめ” だったのだろう。

 オウム信者は “まじめ” だったのだろう。

 ヒトラーも “まじめ” だっただろう。

 ネオナチも “まじめ” だろう。白人至上主義者も “まじ

め” だろうし、 シー・シェパードも(たぶん) “まじめ” な

のだろう。みんな「自分は正しい」と信じているのだろ

う・・。
 

 なぜだか知らないが、世の中には「まじめ=良いこと」と

いうというイメージがある。それはなぜだろうと考えてみる

に、“まじめ” だと物事が予定通りに進みやすいからだろう

ね。「でたらめ」「ちゃらんぽらん」だと物事が進まな

い。“まじめ” は物事を予定通り思い通りに進めたいエゴに

とっては都合がいいので、受けがイイのだろう。けれど、

定通りに進めたい事だけに “まじめ” になると、他の事はど

うでもいい事になってしまうのではなはだ危ないことにな

る・・・。“まじめ” は危ない。


 なにも私は、「でたらめ」「ちゃらんぽらん」にしたほう

がイイというのではありません。そればっかりでは人間は生

きて行けないでしょう(「でたらめ」「ちゃらんぽらん」も

大事ですが)。ただ、“まじめ” には注意が必要です。


 物事をちゃんと進めて行くためには “まじめさ” のような

ものが必要ですが、私は “まじめさ” より、“真摯さ” という

ものを採用したい。


 “まじめ” というものは、【ある集団の約束事に忠実であ

ること】だと私は考えます。“まじめさ” が重んじているの

は「約束事」であって、人や環境ではありません。【約束事

に忠実】ならばロボットと同じです。感情は排除されるの

で、 “まじめ” はさまざまな問題を生むのです。

 一方、“真摯さ” というものは、【人や出来事に誠実に関

わる】ことだと思います。人や出来事は「約束事」ではあり

ませんから、どんどん変化して行きます。どんどん変化して

行くものに関わる為には、そのものの在り方をしっかりと見

据えて対応する柔軟性が必要です。「柔軟性」とは、「自分

も変わる」ということです。自分が変わる為には自己主張な

どしていられません。相手に合わせてゆかなければならない

のですからね。“真摯さ” はおのずと謙虚さを伴います。

 それに対して「約束事」というのは、決まった事で変わり

ませんから、それに忠実な “まじめさ” も変わる必要があり

ません。自分は変わらなくていい。変わるのは「約束事」と

自分のにあるものの方です。何も考えなくていい。

 人間や世界という複雑なものを、あるひとつの「約束事」

で括ってそれで “良し” としてしまう・・・。以外に

も、“まじめ” は「手抜き」なのです。ズボラなのです。


 真面目な人を見てるといつも言いたくなる。

 「人やら世の中やら世界の事を、もうちょっとマジメに考

えろよな!」って。


 私はイヤミを言うのが好きなんです。


 そう、オウム真理教の中での『絶対幸福』と、私の『絶対

幸福』が同じものであったとしても別にかまいません。《悪

魔でも、その目的の為に聖書を引用することができる》ので

すからね。薬も使い方を間違えれば毒だし・・。

 その言葉なり考えなりをどう捉えてどう活かすかというこ

とが問題ですからね。

 「猫に小判」だったり「キチガイに刃物」だったりするの

でしょう。「棚からぼたもち」だったり「青天の霹靂」だっ

たりね。(“言葉狩り” は不毛です)


 このブログの中に、誰かの役に立つ言葉があればと思う。

「寝た子をおこす」だけかもしれないけど・・・。


 (『絶対幸福』については、『絶対幸福』2019/1 『お

天道様が観てござる』2018/12 を見てね)



2019年4月14日日曜日

がんばらなくても生きられる社会を


 ネットのニュースを見ていると、先日行われた東大の入学

式で、上野千鶴子氏が述べた祝辞(?)の全文が載ってい

た。

 私が印象に残ったのは、


 「あなたたちはがんばれば報われると思ってここまで来た

はずです。ですが、がんばってもそれが公正に報われない社

会があなたたちを待っています」


 「あなたたちのがんばりを、どうぞ自分が勝ち抜くためだ

けに使わないでください。恵まれた環境と恵まれた能力と

を、恵まれないひとびとを貶めるためにではなく、そういう

ひとびとを助けるために使ってください」


 という言葉ですが、確かにそうですね。世の中は不公正な

ことでいっぱいだし、人々は自分の能力を人を出し抜いた

り、自分の優位性を確認する為にばかり使っているというの

がほとんどです。上野氏がそう言いたくなるのはよく分か

る。そして私は考える、「がんばれば報われる社会」という

ものは良い社会なのか? 「がんばること」が価値あること

だという考え自体、良いことなのか?

 「がんばることが求められる社会」、「がんばらなければ

生きられない社会」は良い社会か?

 「がんばらなくてもいい社会」、「がんばらなくても生き

られる社会」が良い社会ではないだろうか?


 こういうことを言うと、「がんばらなくてどうする!」と

いう声がすぐ上がるでしょうが、それはただ単に、そう言い

聞かされてきたからそう思うだけではないだろうか? 「生

きる為にがんばる」以外のやりかたを考えてみたことが無い

だけなんじゃなかろうか? 

 「がんばらなくても生きられる」世の中なら素晴らしいと

思うんだけどね。


 社会の中で「がんばる」というのは、比較し、競争すると

いうことですよ。

 「勝ち組・負け組」「成功」「自己実現」「夢を叶える」

 そんなことを言いながら、人間は、人より上に立つ、人よ

先んじる、人より力を持つといったことばかり続けて来

た。そればかりではないけれど、それがほとんどだというの

が現実です。それで何が起きて来たかといえば、差別、貧富

差、環境破壊、戦争、さまざまな心と身体の病い、自殺・

・・・。


 「がんばっても報われない社会」はもってのほかですが、

「がんばったら報われる社会」では “がんばれない人” が苦

しむ、ならば「がんばらなくても生きられる社会」が一番良

い社会ではないだろうか?


 「そんな社会なら、みんな怠け者になってしまう」

 そう思われるかも知れませんが、怠けたい人は怠けていい

と思うんです。怠けない人たちの方に余裕があれば、怠ける

人も生かしてあげればいい。余裕が無ければ怠ける人のこと

は放っておけばいい。怠ける人も死にたくなければ動きだす

ことでしょうから。それでも動かないのなら、そのまま死ん

でもらえばいいのです。だって、怠けない人の方に余裕がな

ければしょうがない。


 「それじゃぁ、“怠けない善良な人” だけががんばるの

か!」と思われるかも知れませんが、そうじゃないんです。

怠けない人は別に「がんばる」わけではない。ただ

“怠けない” という自分の性分や、その時の状況に合わせて

自分のすべきことをするだけのことです。それが、社会や他

人の為になることだったりするだけです。


 「正直者がバカを見る」という慣用句がありますが、正直

者はバカを見たりしませんよ。

 正直者は「自分が正直であること」がそのまま〈報い〉な

ので、その見返りなど必要としません。自分が正直でいられ

れば、それでもう満足なのです。「正直者がバカを見る」な

どと言って、自分の善意が裏切られたなんて思う人間は、正

直者ではありません。そこには見返りを期待する打算があり

ます。きつい言い方をすれば「腹黒い」。


 そのように、怠けない人は「怠けないこと」がその性分な

ので「怠けないこと」自体が喜びですから、他の人が怠けよ

うがどうしようが構いません。

 「怠けないこと」「自分に何かが出来ること」そのものが

喜びですから、そこに「がんばる」などという意識はありま

せん。あったとしても、その人の内面の個人的なことです。

「自分はそうしていたいからそうするだけ」ですね。

 怠けたい人はそのようにあればいいし、怠けたくない人は

そのようにあればいい。それぞれ自分らしくあればそれでい

い。それぞれに自分のすべきことを自然にやればいい。


 人間にはごく自然な「向上心」というものがあります。

 他人と比べてどうこうではなく、自分の能力が高まること

自体が嬉しいという性質がありますが、そこに「競争社会」

がつけ込んできます。自然な向上心を「他者との比較」に向

け、「競争社会」を動かすエネルギーとして利用するので

す。その時に言われる言葉が「がんばれ!」です。その言葉

で、エゴの持つ「不安」や「欲求」に点火するのです。そし

て人は競争の為に走り出します。それが自身に何をもたら

し、社会にどんな影響を与えるかなど深く考えもせず

に・・・・。


 「がんばること」は、良いことでしょうか?

 「がんばらなくちゃ・・・」と思って苦しんでいません

か?


 誰も彼もが「がんばっている」この世の中は、「良い世の

中」ですか?

 問題だらけじゃないですか?


 「がんばる」以外の “前向きさ” というものは無いのでし

ょうか?

 本当に「がんばらなければ生きられない」のでしょうか?


 「がんばれ!」なんてけしかけられて思い込まされなけれ

ば、人はもっと自然に “善良さ” と “前向きさ” を表わして、

仲良くやれるんじゃないかと思うんですけどね。

 仮に、欲の強い悪意のある人間がいても、誰かの「がんば

り」を利用できなければ、自分一人分の力しかないのですか

ら、大したことは出来ないはずなんですよ。


 エゴとエゴがせめぎ合い、利用し合い、生身の人間は放っ

たらかしでエゴばかりが肥大して行く・・・。それが「がん

ばる社会」の正体ですよ。

 先日も日本の「長者番付」が出てましたが、あれは人の

「がんばり」を還元せずに、上手に搾取した人たちの名前で

すよ。それでその本人たちがしあわせならばまだしも、当人

達も「競争社会」に思い込まされ、エゴを突き動かされてや

みくもに「がんばって」興奮しているだけのことです。それ

が生み出したものは、先に書いたように、差別、貧富の差、

環境破壊、戦争、さまざまな心と身体の病い、自殺・・・・

す。


 以前にも書きましたが、私は阪神大震災以降「がんばる」

という言葉が嫌いです(『がんばれ』?・・「ちょっと黙

ってくれないか」 2017/10)。「がんばる」に代わる、自

な “前向きな言葉” がないものだろうかと思っています。


 「がんばる」は「我を張る」ことだというのは結構知られ

ていることでしょうが、「がんばる」は人を競争に誘い込む

言葉です。「比較」という地獄に引き込む言葉です。

 みんなが「がんばらない」のなら、「がんばらなくても生

きられる社会」になるはずです。人間の自然な「向上心」と

「生きたい」という思いによってね。

 けれど実際にそんな社会が生まれることなどないまま、人

は滅んで行くのでしょう。エゴにそそのかされ、我を張り続

けてね。