2019年4月4日木曜日

引きこもって当たり前じゃない?



 この前から、NHKが中高年(40歳以上)の “引きこも

り” を何度か取り上げている。「中高年の “引きこもり” 」

が61万人ということで、若者よりも多くなっているそうだ

(両者を合わせると100万人以上)。その中には、中年以降

に “引きこもり” になった人もあれば、若い時から引きこも

り続けている人もある。なぜそうなるかといえば、単純な話

で、社会がせせこましくなっただけのことなのだろうと、私

は思っている。私だってできれば引きこもりたい。嫌だも

の、今の日本の社会と付き合うのは。


 これまでも何度か書いて来たけれど、今の社会は人間の為

に有るのではなくて、経済の為にある。そして、社会の構成

要素でしかないわれわれ人間は、当然ながら経済を存続させ

る為の道具でしかない。


 〔 経済 >社会 >人間 〕というのが現在の世の中の図式

です。そんな中に放り込まれる人間の中には、「何よりも

率が求められる」という状況に耐えられないセンシティブ

人や、その「効率」について行けない人たちが沢山いる。

ういった人たちが、“引きこもり” になり、“鬱病” にな

り、“パニック障害” になったりする。

 そうなって当たり前でしょう。どちらかといえば、そんな

世の中に合わせられる方が、人間として変だと思いますね。


 コンピューターとロボットが普通に仕事に組み込まれ、こ

れからは AI が仕事をするようになる。そのことは、もうす

でに、社会が求めているものが一般的な人間の能力を越えた

ものになっているということですよ。経済の要求レベルが、

もう人間では間に合わなくなっている。だから、 もうすで

に言外に社会から疎外されている人間は、引きこもったりす

るしかない。そうなって当然です。


 「それは、引きこもったりする人間の、適応力が低いから

だ」と言われれば、その通りでしょう。適応出来ていないん

です。しかし、そんな社会に適応することは人としての望む

べき姿でしょうか?

 もはや世の中は〔 経済 >社会 > 機械 >人間 〕です。適

応出来なくて当たり前です。適応出来たところで、機械のパ

ーツです。喜んでる場合でしょうか?


 このブログは Google の 〈Blogger〉の中にあるわけで

すが、その Google を運営している人々は、果たして 

Google を動かしているのでしょうか?

 インターネットに代表される、社会と機械のシステムに取

り込まれ、経済を動かしているのではなく、経済に動かされ

ているだけでしかないんじゃないだろうか? いや、そうだ

としか思えない。確かに凄いことをやっているけれど、彼ら

も所詮「パーツ」でしかない(タダで使わせてもらっていて

何ですが・・・)。考え過ぎだと思いますか?


 GAFA の経営者たちが、気が狂っているとしか思えない額

の資産を持っていますが、それが何なんでしょう? そんな

もの、なんで持つのでしょう? 

 嬉しいのでしょうか? 

 幸福だとでも言うのでしょうか? 

 生きる上では、どう考えてもほとんど(ほとんどの桁が凄

いけど)ムダでしかないでしょう? 経済の見せる妄想に憑

かれ、動かされているんですよ。

 彼らよりも、引きこもって、不安にさいなまれながらも

日々を生きている人の方が、人としてはしあわせかもしれな

い。少なくとも、「パーツ」になることからは免れている。

苦しいけれど、人である。まだ、ハートが生きている。


 二千年前でも、三千年前でも、社会というものは問題を抱

えていたでしょう。わたしたち人間の〈アタマ〉が寄り集ま

って出来ているのだからそうならざるを得ない。しかし、時

代が進んで、社会の狂い方はもう来るところまで来てしまっ

ているようです。


 人間と人間で社会を作っている間は、そこから疎外される

者の数は少なかったでしょう。所詮人間レベルの中ですから

ね。ところが、人間の上位に機械を持ち込んでしまったが為

に(省力化にロボットを導入して人を減らすって、そういう

ことでしょ)、普通の人までもが社会からはじかれてしまっ

た。物理的にも、心理的にも。それが現代でしょう。


 引きこもったり、鬱になったり、パニック障害になった

り、何かの依存症になったり、そういった人たちは、「まと

も」なんだと思いますよ。人として。

 こんなに「効率、効率!」と言って、「生き残り競争」を

して、「準備された楽しみ」と「教えられた喜び」にだけ目

を向けている社会では、適応出来ない方がしあわせなんじゃ

ないでしょうか? もちろん、それなりの苦しさは有るでし

ょうし、深く心を病んでしまって、抜き差しならない状況に

ある人もいるでしょう。そういう人に「何か」を言えるかと

いうと・・・、私は相応しい言葉を持ち合わせていません

が・・・。


 でも、そういう人がたまたまこれを読むことがあったら言

いたい。

 いずれにせよ、あなたは生きている。生きているというこ

とでは、社会で上手にやっている人たちと等価だ(等価なん

ですよ。そう思いにくいかもしれないけど)。

 社会に適応する為に必死にやっている人と、社会に適応出

来なくて一人で「何とか生きよう」ともがいている人と、ど

っちも必死なのは同じです。どっちも苦しんでるんです。顔

には出さなくてもね。

 それなら、社会(経済)のパーツになっているより、人と

して苦しんでいる方がマシかもしれない。経済にバカされ

て、自分じゃない「何か」として動いているよりは、止まっ

ている(動けない)方がよさそうです。



 しあわせになるのに、理由は要らない。

 動けなくて、ひとりで悶々としている自分が、いま生きて

いる・・・。自分をふりかえる時間ならたっぷりある。

 「自分はしあわせかもしれない・・・」そういう前提で自

分の今を見つめて、感じて欲しいと思う。


 「他人事だからそんな気楽な事が言えるんだ」と思われる

かも知れないけれど、それでもいいから、ちょっと自分を振

り返って欲しい。世の中の方に問題が有るのかもしれない

と、自分と世の中を見つめ直して欲しい。



 生きてると、どうせ苦しい。やせ我慢でも強がりでも負け

惜しみでもいい。「いま、生きている」という価値を味わっ

て欲しい。ひとまず、先のことや他人のことは忘れてね。



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