2019年10月30日水曜日

止まっている



 「たどり着くと、何も無い」というのが前回のタイトルだ

った。「空」の話だった。


 私の母親は三年前に亡くなった。九十歳で死んだのだが、

今や私の母を知る者はせいぜい十数人だろう。その十数人も

やがてはいなくなり、その時には私の母の存在は、記憶から

も消え失せることになる。そうなった時、果たして私の母は

存在していたと言えるのだろうか?


 同じことは、私にもいえる。

 あと五十年もすれば私は死んでいて、私を知っている人も

いなくなるだろう。そうなった時、私は存在していたと言え

るだろうか?


 極論を言えば、それがいつかは知らないが、人類がいなく

なる時が来る。その時、すべては記憶さえ残らない。仮に、

人類の詳細な記憶が情報として残されていたとしても、それ

を開く者がいなければ、そんなもの石ころと代わらない。

 たどり着いたら、何も無い。


 この、いま生きているわたしたちは、個人としてどころ

か、社会も、人類としてさえも消え失せるものです。うたか

たの存在です。誰一人、なに一つ残せない。残らない。

 にも関わらず、「生きた証を残したい」などと言う人がい

る。自分自身や、自分の大切に思う人の記憶を遺したいと、

それも普通の人が・・・。


 人類の中には、お釈迦様のように二千年以上も人々の記憶

に残る人もいる。この先も残り続けるだろうと思う。けれど

も、そのお釈迦様ですら、人類がいなくなる時には、その記

憶は消えてしまう  もちろん、当のお釈迦様はそんなこと

百も承知でしょうが。


 何も残らない。何も残せない。

 何をしても、ほんのひと時の自己満足や、思い入れだとい

うこと。

 「何かをする」ことは、わたしたち人間の本質とは違う事

なんだろうと思う。何をしても、瞬間々々に消えてゆき、い

ずれは、したことの記憶さえも残らないのだから。


 「だから何をしてもムダだ!」と、ムーミン谷のジャコウ

ネズミのようなことを言うつもりなのではない。

 わたしたちは生きている限り何かをする。それは必然で

す。けれども、それは必要ではない(残念ながらね)。本当

に必要なことは、「する」ことではなくて、「何かをしなが

らも “止まっている” 」ことだろう。


 「『何かをしながらも “止まっている” 』ことだろう」?


 この矛盾した表現が何を表すかというと、「すること」

「していること」が目的や結果に繋がっていないということ

ですね。

 自分が「すること」「していること」から、自分に対して

働きかけてくる印象や圧力といった影響をスルーしてしま

う。自分でしていながらも、それが自分とは無関係であると

いうスタンスで、さまざまなことを「する」。

 何をしていようが、意識の本体は “止まっている” 状態。

 たとえ、ものを考えていても “勝手に考えさせておく” 。

考えていることに関わらない。


 そうやって、考えることも含めた「する」こと全般から意

識を離してやる。意識を「する」ことから解放してやる。す

ると、世界の動きの流れの外に、わたしたちの〈意識〉が

「在る」ことを知る。

 自分の本質が「する」ことではなくて、「在る」ことだと

分かる。

 世界の本質自体が「在る」ことだと気付く。


 実は、わたしたちは「止まっている」のです。


 「じゃぁ、目の前で動いている人やモノや、自分の手足は

なんだ?」


 なんだと思いますか?


 秋の夜長に考えてみるのも面白いかもしれませんが、「

はどうでもいいことだ」というのが正解だろうと思います

よ。






2019年10月25日金曜日

たどり着くと、何も無い。



 最近よく浮かぶ言葉は「空(くう)」。

「空間」の「空」であると同時に、「空っぽ」という事の

「空」、「色即是空」の「空」・・・。


 「空」にまつわる言葉の中でも、最近特に意識が向くのは

「空間」のこと。

 「空間」を強く意識しだしたのはもう半年ほど前になるだ

ろうか。ある日こんなことを思ったのが始まりだった・・。


 「空間は何にも乱されることが無い。嵐が来ようが、原爆

が爆発しようが、恒星が超新星爆発を起こそうが、宇宙の始

まりのビッグバンが起きた時であろうが、空間は乱されたこ

とが無い。すべてのエネルギーとそれが起こす出来事を内包

し、それを在らしめながら、一切乱されることなく、変化す

ることが無いのだ」と・・・。そして、「すべての瞬間。宇

宙のすべてに、“空間” と “静寂” が透徹しているのだ」

と・・・。

 (ここで言う「静寂」というのは、単に「音が無い」とい

う事ではなくて、「すべての働き(動き)が無い」というこ

とです)


 物質  またはエネルギー   が存在するためには、

「空間」がなくてはならない。

 働きが存在するためには、「静寂」がなくてはならない。

 すべての物と働きが存在しているこの世界の背景には、ど

こまでも「空間」と「静寂」が透徹している。

 それは「存在が無い」という存在であり、「何でもない」

がゆえに完全である。その「空間」と「静寂」の中に、私も

あなたも在る。


 私もあなたも、ほんの些細な、それぞれの一点ではある

が、この世界の「空間」と「静寂」を分け持っている。そし

て、その「空間」と「静寂」は分けることができないがゆえ

に、“些細な一点“ でありながら、私もあなたも、この世界

の「空間」と「静寂」の全分を得ている。いや、それであ

る。

 あらゆる存在、そして人間のその本質・本体は、「空間」

と「静寂」にある。

 「空間」と「静寂」は何にも乱されることがないので、そ

れは完全な平安・安定・充足・・・、そして真の善性として

“存在” を裏打ちしている。


 「自己とは何か?」

 「世界とは何か?」

 その、人間としての根源的な問い掛けは、宗教であれ科学

であれ哲学であれ、どんな形のアプローチであろうとも、結

局のところ「空」というところに行き付かざるを得ないだろ

う。

 「在ること」を意識する為には、「無いこと」置かざるを

得ないのは論理的必然だ。

 けれど、「在ること」と「無いこと」は不可分であり、論

理の手をすり抜けてしまう。論理は「分けられないもの」を

扱えないので、結局、白旗を挙げることになる。


 世界は、最終的には論理を越える。まぁ、当たり前なんだ

けどね、「論理」の前に世界が存在しているのだから・・。

でも、その「当たり前」を無視したいのが「論理」というも

のなんですねぇ。都合の悪いことは無視するにかぎりますか

ら。

 そりゃぁ無視したいでしょう。だって、結局は「敗北」す

るのなら、すべてがムダになってしまうからね。


 ちょっと話がズレかけている。

 ズレかけて気が付いたけれど、「空」とは「論理」・「思

考」が敗北した意識状態ということですね。そして、その

「空」こそがわたしたちの意識の在る場所であり、意識その

もののようです。

 何にも乱されることが無い “それ” が、“そこ” が・・・。





2019年10月13日日曜日

点から点



 昨日、和尚(ラジニーシ)の本を読み返していて、強く印

象に残った部分があった。

 それはこんな話。


  あるファキールが一団の人々に

  マインドの否定的本性について話すよう求められた

  彼は壁に、まっ白い大きな紙を貼ると

  鉛筆で黒い点を書き入れた

  そうして、

  ひとりひとりの人にそこに何が見えるかとたずねた

  どの人も、黒い点だと答えた

  すると、ファキールはこう言った

  「そう、小さな黒い点があります

  けれども、あなたがたの誰ひとりとして

  大きな白紙のひろがりは見ませんでした

  それがわたしの話の要点です」
 

 わたしたちが何かを意識するとき、思考するとき、それは

ある一点に向けられる。意識は同時に複数の点を意識するこ

とはできない。それは意識したある一点以外の世界の全てが

見えなくなることを意味する。


 以前に『すき間を見る』(2018/8)という話を書いたこ

とがあるけども、わたしたちは自分が認識できる物と物  

あるいは事と事  を辿りながら自分の世界像を描いてい

る。いわば、自分が認識できる点と点をジャンプしながら世

界を見ているので、その点と点の間にある空間や、自分が認

識できないものを見落とした、相当に不完全な世界像とな

る。

 さらにその世界像は、それぞれの人間の持つバイアスが掛

かったものでもあるので、とてもじゃないが「世界を認識し

ている」などと言えるようなものではない。


 つまり、誰もが世界を正しく見ていないのにもかかわら

ず、「これが世界だ」と思いながら生き、人や環境と関わ

る。トラブルだらけになって当然だね。



 わたしたちの意識は、同時に複数の点を意識することがで

きないので仕方がないのだが、せめて自分が意識している 

“ある一点” の外に、認識しきることなど到底不可能な、

〈世界〉が広がっているのだと知っておかなければならない

だろう。そしてその〈世界〉には自分も含まれているのだと

いうことも。


 自分も〈世界〉の中に含まれているのだから、普段「世界

を意識する」ということが、そもそも間違っている。

 わたしたちの〈意識〉は〈世界〉の中にある。

 認識することを止め、思考することを止め、意識すること

を止め、自分の〈意識〉をただ〈意識〉として、〈世界〉の

中でニュートラルに開放すると、わたしたちは初めて〈世

界〉を知る・・・。もちろん言葉にはならない形でだけれど

もね。



 

2019年10月10日木曜日

「そこ」はどこ?



 言葉というものは、いい加減で面白いものです。

 いい加減だからこそ、人を惑わせ、狂わせ、苦しめる。

 その一方で、いい加減だからこそ面白く、人を思いもよら

ない喜びへ導くこともある。


 今日、考えてみたいのは「ここ」という言葉について。

 ホントにいい加減な言葉ですよ、「ここ」は。


 私が今居る「ここ」は神戸です。

 そして「ここ」は兵庫県です。

 さらに「ここ」は日本です。

 そして「ここ」はアジアです。

 さらにさらに「ここ」は地球です。

 言うまでもなく「ここ」は太陽系です。

 お気付きでしょうが「ここ」は “天の川銀河” です。

 も一つおまけに「ここ」はわたしたちの宇宙です。


 何か論理的・文章的に破綻しているでしょうか?

 大丈夫ですよね。


 「ここ」がわたしたちの宇宙ならば、どこもかしこも「こ

こ」だということですよ。

 あなたは今、たぶん日本でこのブログを見ている事でしょ

うが、あなたの居るところも、私が居るところも「ここ」で

す。

 もしもあなたがロシアでこのブログを見ているとしても、

そこも「ここ」です。


 今、〈 “そこ” も「ここ」〉と書いてしまいましたが、わ

たしたちがちょっと意識の持ち方を変えるだけで、「そこ」

も「ここ」になってしまうんですね。これは、言葉のトリッ

クなんでしょうか? 言葉のいたずらなんでしょうか?

 こう考えてみましょう。

 そもそも、この世界には「そこ」も「ここ」も無いのに、

わたしたちのアタマが言葉を使って勝手に世界を分割してい

るだけなんだと。

 わたしたちの意識にとって、本質的には世界のすべてが

「ここ」なのだと。


 よかったら、ちょっと外へ出て空を見上げてください。

 昼でも夜でもいい。ちょっと、空を見上げてみましょう。

 あなたが今居る所から、段階的に意識を広げてみましょ

う。

 そこはどこでしょう?


 「ここは、○○町△△丁目✕✕番地」

 「ここは、○○県」

 「ここは、日本」

 「ここは、地球」

 「ここは、太陽系」

 「ここは、天の川銀河」

 「ここは、宇宙」

 「ここは、・・・。・・・・・・・・・・・・・・」


 どんな感じがしたでしょうか?

 単なるイメージの遊びでしょうか?

 それとも、そこに感じられるのは、意識の本質的な感覚で

しょうか?


 脳科学者のジルボルト・テイラーさんによれば、左脳の機

能を遮断してやれば、脳は「分割的認識機能」を失って、

〈「ここ」が宇宙全体〉という意識状態になるそうです。

 それは普通に言えば脳の機能不全ですが、〈「そこ」も

「ここ」〉という意識が生命の本質だと見做せば、「そこ」

と「ここ」がある状態が脳の機能不全だということになりま

す。

 私は、〈「そこ」も「ここ」〉という意識状態を経験した

ことがあるので言いますが、「そこ」と「ここ」があること

の方が、脳が機能不全を起こしている状態だと思います。過

剰な認識機能です。決して良いことではありません。


 わたしたちは、仕方がないので「そこ」と「ここ」を分け

て暮らしていますが、本当は分けない方がしあわせなので

す。それは体験上断言できます。

 「そこは “ここ”」

 「どこもかしこもすべてが “ここ”」

 その意識は、この上ない安心感と肯定感を生み出します。


 毎日、忙しく「そこ」と「ここ」をうろつき回っているわ

たしたちは、できるだけ多くの時間、〈「そこ」も「こ

こ」〉という意識を持つよう心掛けた方がいいだろうと思い

ます。


 「どこだろうと “ここ” なんだ」

 そう意識していれば、人生で迷子になりようがありませ

ん。

 安心でしょ?






 

2019年10月8日火曜日

『頭がない方法』のはなし



 私がダグラス・ハーディングを知ったのは、二か月ほど前

だろうか。

 You Tube の「おすすめ」で観た動画からだった。


 ユーモアのある語り口や、ユニークな「指さし実験」

などに強い印象を持った。

 その語られている事の本質は特に目新しいことではない

が、それを伝える為のアプローチがユニークで、実際的で、

体感的だし、これまでにある程度スピリチュアルな探求を続

けてきた人であれば、その〈実験〉をすれば、大きなジャン

プをしたように思うのではないだろうか。映画のカットが変

わった瞬間に、場面が地球から宇宙空間に変わるように。


 前回のブログで書いてしまったことは、ダグラス・ハーデ

ィングの動画を見直した直後に発作的に書いたものだった。

 なにせ、動画チャンネルのタイトルが『頭がない方法』

だ。〈アタマが悪い〉と言い続けている私にとって、「頭が

ない方法」はあまりにもハマり過ぎる。

 悪さをするアタマを止めることや、悪さをするアタマを排

除することを望む者にとって、「頭がない」ことを体感させ

ようというハーディングのアプローチは、とっても嬉しい驚

きだった!


 「こんな手があったんだ!」

 そう思い、「おすすめ」のご縁に感謝もしたが(「おすす

め」も時々いい仕事をする)、だからといって「永遠の平安

へ・・」ということになるわけでもない。でも、「ヤバい」

と思ったら、いつでも “ここ” にシフトできる。永く “ここ”

に留まることが容易になる。それはこれまでに無かった感覚

だった。


 『頭がない方法』

 それは頭を無くすことではなく、頭が無い事に気付く方

法。


 そういえば、沢木興道老師の弟子だった内山興正師の著書

の中に、〈あたま劇場〉という表現があった。

 わたしたちは、からだを切り捨て、社会という〈あたま劇

場〉にあたまを突っ込んで、妄想の中に生きている

と・・・。


 その本を読んだ頃、私は「あたまを、妄想から自分のから

だに引き戻さなければならない」と考えたが、ハーディング

は違った。

 「頭は、妄想の中に置いてくればいい。頭自体が妄想なん

から・・・」

 どうやらそう言っているらしい。


 「アタマ」は、妄想の中に置いてけぼりにされると、から

だというエネルギー源を失って、すぐに雲散霧消してしま

う。その結果、「頭がない」ということになる。

 その結果、アタマに注入されていたエネルギーは、自由に

フローして行ける状態になる。どこに流れる目的も持たず

に・・・。

 その、生命力の満ちたままのニュートラルな状態が、わた

したちの本質であり、世界の本質であり、本当の幸福なん

だ。

 ダグラス・ハーディングに感謝。



2019年10月7日月曜日

ダグラス・ハーディングに寄せて



 わたしたちは「拒絶すること」よりは「受け入れること」

の方が良いと考える。



 色々な事情があって拒絶するときでも、できるなら受け

れられる方が良いと思うものだ  例えば、難民問題でも、

国に裕があれば「受け入れよう」という意思を示す人が多

い事ろう。

 何かをひとに求める時でも、求めなくても事が済むならそ

れが良いと思う。


 「拒絶する」

 「受け入れる」

 「求める」

 「求めない」


 世界中のありとあらゆる場所で、人や事との関係のバラン

スゲームが、その駆け引きで繰り返される。

 それぞれの “自分” が、それぞれを守ろうとし、有利に立

とうとしているのだが、掴んでも手放しても、いずれにせよ

シーソーは揺れ続ける。

 手放して軽くなれば楽になると考える者もいる。

 掴んで掴んでその重みで自分の安定感を強めようとする者

もいる。

 けれども、それが「比較」という意識の中で行われる限

り、終わりは無い。安らぎも平和も無い。


 そもそも本当は、「拒絶する」にしても拒絶する主体が無

い。

 「受け入れる」にしても、受け入れる主体が無い。

 「求める」にしても、求める主体が無い。

 「求めない」にしても、求めない主体が無い。

 主体は無い。


 “無いもの” は、乱されようがない。

 “無いもの” ほど、安定していて、平和なものもない。

 「主体が無い」ことほど素晴らしいことはない。その素晴

らしいことが、そもそもの、 ”存在するもの” の本質である

のだから、なんとしあわせなことか。

 ところが、その本質にわたしたちは気付けない。


 主体の無いこの空間を、「拒絶」も「受け入れ」も「求め

る」も「求めない」も・・、あらゆることが通過して行く。

 人が、その本質に在る時。自身の在り方も、他者の在り方

も、世界のあらゆる動き・出来事が、この空間を通過して行

く。そして人はただそれを「見る」。


 仏教の言葉に「遊戯(ゆげ)する」という表現があるが、

それはこのことを指すのだろう。

 わたしたちが、“「無い」という主体” に在る時。ゆった

りと穏やかに、この世界に遊ぶことができるのだろう。


2019年10月6日日曜日

私の胸の内



 生きていることは苦しい。その苦しさの中でわたしたちは

もがくのだが、そうやって「生きよう」ともがいているのは

 “エゴ” だ。わたしたちはその “エゴ” を「自分」と呼び、

それを必死で生かそうとするのだが、自分が本当に生きたけ

れば、逆説的だが、他者を生かさなければならない。


 他者を生かすとは、「自分」が消えること・・・。

「消える」と言うよりは、もともと「自分」は存在していな

いということに気付き、そこに立ち返り、“存在しないまま”

でいること…。そうして初めて、“この存在” は本当に「在

る」ことができる。

 「自分」が消え、「自分」が占めていた空間に他者を受け

入れる時、人は「受容性」という無限の満足の中に再生す

  いや、《 生まれ戻る 》とでも言うべきか。


 私はそのことを頭では分かっているし、感覚的にも確信し

ている。けれども、社会の中では自分のエゴの部分を開かな

ければならない。エゴと関われるのはエゴだけだからだ。


 社会はエゴで出来ているので、社会生活を続けるためには

自分もエゴの部分を開かなければしょうがない。それが苦し

い。辛い。

 エゴは「比較すること」と「否定すること」によって存在

するので、自分自身のエゴからも苦しみが生まれるし、他者

のエゴの苦しみもこちらに流れ込んでくる。


 その苦しみから自由になりたいと、“社会と関わっている

自分” が思う。そして不安になる。「社会と関わりながら、

本当に「自分」が消えた時・・・、この肉体は残れるのだろ

うか」と。


 私は、生きたい。

 本当に、生きたい。

 “社会というエゴ” に生み出された “自分というエゴ” では

なく、本当の生(なま)の自分を生きたい。


 でも、その「生きたい」という思いが最後の障害となって

しまう。


 こうして、話は振り出しに戻ってしまう。アタマが悪

い・・・。


 だれか、私に「一転語」を下さい・・・。