生きていることは苦しい。その苦しさの中でわたしたちは
もがくのだが、そうやって「生きよう」ともがいているのは
“エゴ” だ。わたしたちはその “エゴ” を「自分」と呼び、
それを必死で生かそうとするのだが、自分が本当に生きたけ
れば、逆説的だが、他者を生かさなければならない。
他者を生かすとは、「自分」が消えること・・・。
「消える」と言うよりは、もともと「自分」は存在していな
いということに気付き、そこに立ち返り、“存在しないまま”
でいること…。そうして初めて、“この存在” は本当に「在
る」ことができる。
「自分」が消え、「自分」が占めていた空間に他者を受け
入れる時、人は「受容性」という無限の満足の中に再生す
る
私はそのことを頭では分かっているし、感覚的にも確信し
ている。けれども、社会の中では自分のエゴの部分を開かな
ければならない。エゴと関われるのはエゴだけだからだ。
社会はエゴで出来ているので、社会生活を続けるためには
自分もエゴの部分を開かなければしょうがない。それが苦し
い。辛い。
エゴは「比較すること」と「否定すること」によって存在
するので、自分自身のエゴからも苦しみが生まれるし、他者
のエゴの苦しみもこちらに流れ込んでくる。
その苦しみから自由になりたいと、“社会と関わっている
自分” が思う。そして不安になる。「社会と関わりながら、
本当に「自分」が消えた時・・・、この肉体は残れるのだろ
うか」と。
私は、生きたい。
本当に、生きたい。
“社会というエゴ” に生み出された “自分というエゴ” では
なく、本当の生(なま)の自分を生きたい。
でも、その「生きたい」という思いが最後の障害となって
しまう。
こうして、話は振り出しに戻ってしまう。アタマが悪
い・・・。
だれか、私に「一転語」を下さい・・・。
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