2019年10月6日日曜日

私の胸の内



 生きていることは苦しい。その苦しさの中でわたしたちは

もがくのだが、そうやって「生きよう」ともがいているのは

 “エゴ” だ。わたしたちはその “エゴ” を「自分」と呼び、

それを必死で生かそうとするのだが、自分が本当に生きたけ

れば、逆説的だが、他者を生かさなければならない。


 他者を生かすとは、「自分」が消えること・・・。

「消える」と言うよりは、もともと「自分」は存在していな

いということに気付き、そこに立ち返り、“存在しないまま”

でいること…。そうして初めて、“この存在” は本当に「在

る」ことができる。

 「自分」が消え、「自分」が占めていた空間に他者を受け

入れる時、人は「受容性」という無限の満足の中に再生す

  いや、《 生まれ戻る 》とでも言うべきか。


 私はそのことを頭では分かっているし、感覚的にも確信し

ている。けれども、社会の中では自分のエゴの部分を開かな

ければならない。エゴと関われるのはエゴだけだからだ。


 社会はエゴで出来ているので、社会生活を続けるためには

自分もエゴの部分を開かなければしょうがない。それが苦し

い。辛い。

 エゴは「比較すること」と「否定すること」によって存在

するので、自分自身のエゴからも苦しみが生まれるし、他者

のエゴの苦しみもこちらに流れ込んでくる。


 その苦しみから自由になりたいと、“社会と関わっている

自分” が思う。そして不安になる。「社会と関わりながら、

本当に「自分」が消えた時・・・、この肉体は残れるのだろ

うか」と。


 私は、生きたい。

 本当に、生きたい。

 “社会というエゴ” に生み出された “自分というエゴ” では

なく、本当の生(なま)の自分を生きたい。


 でも、その「生きたい」という思いが最後の障害となって

しまう。


 こうして、話は振り出しに戻ってしまう。アタマが悪

い・・・。


 だれか、私に「一転語」を下さい・・・。




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