2019年10月7日月曜日

ダグラス・ハーディングに寄せて



 わたしたちは「拒絶すること」よりは「受け入れること」

の方が良いと考える。



 色々な事情があって拒絶するときでも、できるなら受け

れられる方が良いと思うものだ  例えば、難民問題でも、

国に裕があれば「受け入れよう」という意思を示す人が多

い事ろう。

 何かをひとに求める時でも、求めなくても事が済むならそ

れが良いと思う。


 「拒絶する」

 「受け入れる」

 「求める」

 「求めない」


 世界中のありとあらゆる場所で、人や事との関係のバラン

スゲームが、その駆け引きで繰り返される。

 それぞれの “自分” が、それぞれを守ろうとし、有利に立

とうとしているのだが、掴んでも手放しても、いずれにせよ

シーソーは揺れ続ける。

 手放して軽くなれば楽になると考える者もいる。

 掴んで掴んでその重みで自分の安定感を強めようとする者

もいる。

 けれども、それが「比較」という意識の中で行われる限

り、終わりは無い。安らぎも平和も無い。


 そもそも本当は、「拒絶する」にしても拒絶する主体が無

い。

 「受け入れる」にしても、受け入れる主体が無い。

 「求める」にしても、求める主体が無い。

 「求めない」にしても、求めない主体が無い。

 主体は無い。


 “無いもの” は、乱されようがない。

 “無いもの” ほど、安定していて、平和なものもない。

 「主体が無い」ことほど素晴らしいことはない。その素晴

らしいことが、そもそもの、 ”存在するもの” の本質である

のだから、なんとしあわせなことか。

 ところが、その本質にわたしたちは気付けない。


 主体の無いこの空間を、「拒絶」も「受け入れ」も「求め

る」も「求めない」も・・、あらゆることが通過して行く。

 人が、その本質に在る時。自身の在り方も、他者の在り方

も、世界のあらゆる動き・出来事が、この空間を通過して行

く。そして人はただそれを「見る」。


 仏教の言葉に「遊戯(ゆげ)する」という表現があるが、

それはこのことを指すのだろう。

 わたしたちが、“「無い」という主体” に在る時。ゆった

りと穏やかに、この世界に遊ぶことができるのだろう。


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