2019年10月13日日曜日

点から点



 昨日、和尚(ラジニーシ)の本を読み返していて、強く印

象に残った部分があった。

 それはこんな話。


  あるファキールが一団の人々に

  マインドの否定的本性について話すよう求められた

  彼は壁に、まっ白い大きな紙を貼ると

  鉛筆で黒い点を書き入れた

  そうして、

  ひとりひとりの人にそこに何が見えるかとたずねた

  どの人も、黒い点だと答えた

  すると、ファキールはこう言った

  「そう、小さな黒い点があります

  けれども、あなたがたの誰ひとりとして

  大きな白紙のひろがりは見ませんでした

  それがわたしの話の要点です」
 

 わたしたちが何かを意識するとき、思考するとき、それは

ある一点に向けられる。意識は同時に複数の点を意識するこ

とはできない。それは意識したある一点以外の世界の全てが

見えなくなることを意味する。


 以前に『すき間を見る』(2018/8)という話を書いたこ

とがあるけども、わたしたちは自分が認識できる物と物  

あるいは事と事  を辿りながら自分の世界像を描いてい

る。いわば、自分が認識できる点と点をジャンプしながら世

界を見ているので、その点と点の間にある空間や、自分が認

識できないものを見落とした、相当に不完全な世界像とな

る。

 さらにその世界像は、それぞれの人間の持つバイアスが掛

かったものでもあるので、とてもじゃないが「世界を認識し

ている」などと言えるようなものではない。


 つまり、誰もが世界を正しく見ていないのにもかかわら

ず、「これが世界だ」と思いながら生き、人や環境と関わ

る。トラブルだらけになって当然だね。



 わたしたちの意識は、同時に複数の点を意識することがで

きないので仕方がないのだが、せめて自分が意識している 

“ある一点” の外に、認識しきることなど到底不可能な、

〈世界〉が広がっているのだと知っておかなければならない

だろう。そしてその〈世界〉には自分も含まれているのだと

いうことも。


 自分も〈世界〉の中に含まれているのだから、普段「世界

を意識する」ということが、そもそも間違っている。

 わたしたちの〈意識〉は〈世界〉の中にある。

 認識することを止め、思考することを止め、意識すること

を止め、自分の〈意識〉をただ〈意識〉として、〈世界〉の

中でニュートラルに開放すると、わたしたちは初めて〈世

界〉を知る・・・。もちろん言葉にはならない形でだけれど

もね。



 

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