昨日、和尚(ラジニーシ)の本を読み返していて、強く印
象に残った部分があった。
それはこんな話。
あるファキールが一団の人々に
マインドの否定的本性について話すよう求められた
彼は壁に、まっ白い大きな紙を貼ると
鉛筆で黒い点を書き入れた
そうして、
ひとりひとりの人にそこに何が見えるかとたずねた
どの人も、黒い点だと答えた
すると、ファキールはこう言った
「そう、小さな黒い点があります
けれども、あなたがたの誰ひとりとして
大きな白紙のひろがりは見ませんでした
それがわたしの話の要点です」
わたしたちが何かを意識するとき、思考するとき、それは
ある一点に向けられる。意識は同時に複数の点を意識するこ
とはできない。それは意識したある一点以外の世界の全てが
見えなくなることを意味する。
以前に『すき間を見る』(2018/8)という話を書いたこ
とがあるけども、わたしたちは自分が認識できる物と物
あるいは事と事
る。いわば、自分が認識できる点と点をジャンプしながら世
界を見ているので、その点と点の間にある空間や、自分が認
識できないものを見落とした、相当に不完全な世界像とな
る。
さらにその世界像は、それぞれの人間の持つバイアスが掛
かったものでもあるので、とてもじゃないが「世界を認識し
ている」などと言えるようなものではない。
つまり、誰もが世界を正しく見ていないのにもかかわら
ず、「これが世界だ」と思いながら生き、人や環境と関わ
る。トラブルだらけになって当然だね。
わたしたちの意識は、同時に複数の点を意識することがで
きないので仕方がないのだが、せめて自分が意識している
“ある一点” の外に、認識しきることなど到底不可能な、
〈世界〉が広がっているのだと知っておかなければならない
だろう。そしてその〈世界〉には自分も含まれているのだと
いうことも。
自分も〈世界〉の中に含まれているのだから、普段「世界
を意識する」ということが、そもそも間違っている。
わたしたちの〈意識〉は〈世界〉の中にある。
認識することを止め、思考することを止め、意識すること
を止め、自分の〈意識〉をただ〈意識〉として、〈世界〉の
中でニュートラルに開放すると、わたしたちは初めて〈世
界〉を知る・・・。もちろん言葉にはならない形でだけれど
もね。
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