2018年7月27日金曜日

キャプテン ストライダムと幽霊


 今日は、「幽霊が出ると、坊さんが呼ばれるのはなぜ

か?」ということについてのお話です。



 この話をするきっかけになったのは、前回、キャプテン 

ストライダムというバンドの曲のことを話のネタにしたから

なのですが、キャプテン ストライダムと言っても、大抵の

人は知らない。それどころかこのバンドはもう無い。



 キャプテン ストライダムは2003年にアルバムデビュー

し、2008年に4枚目のアルバムを出した後、活動を止めま

した。その理由は明らかではないですが、要するに「売れな

かった」からだと思われます。(ホントの事は知りませ

ん!)

 けれど、ホントにいいバンドでした。



 ギター・ベース・ドラムのスリーピースバンドで、あの

本隆が立ち上げた『風待ち』といレーベルの、最初のバンド

です。(二番目以降があるのかどうかは知らない)



 ファーストアルバム『ブッコロリー』の、 “ポップでロッ

クでイチコロリー” というキャッチコピーそのままの、“ポ

ップ” で “ロック” な詞とサウンドが転がって行く(コロリ

ー)、今までにないバンドだったのでした。



 カスだらけの Jポップにあって、ヴォーカルとギターを担

当し、詞と曲を作るメインパーソンの永友聖也は、タイプこ

そ違え、バンプオブチキンの藤原基央と並び立つ天才であ

り、Jポップから生まれた数少ない宝だと、今も思っていま

す。

 その遊び心あふれる詞と曲のセンスは、後にも先にも無

い。



 歌謡曲とアニメソングと “みんなのうた” を合わせた詞

を、ビートルズとローリングストーンズと浜口庫之助に遊ん

でもらったような曲にフィットさせ、歯切れのいいプレイに

のせて行くのだが、その「歯切れの良さ」の要となっていた

のが、菊住守代司のドラムだった。


 私はドラムにはあんまり関心が無いのだが、いままでに二

回だけ、ドラムを聴いて感動したことがある。フリートウッ

ドマックとキャプスト(キャプテンストライダム)だ。

 菊住のスティックは、他のドラマーよりも5mm深く、ド

ラムヘッドに叩き込まれる(ような気がする)。

 その圧倒的な力強さとキレは、聴く者のハートをサクサク

と刻み、思考をバラバラにしてゆくのだ。

 その強すぎるほどのドラムと、ともすればノリ過ぎてしま

う永友のヴォーカルとギターを、梅田俊介のベースが曲の中

に押し戻す・・。

 そうして、“ロックな” プレイのなかで、“ポップな” 詞と

曲が小気味よく転がって行く。あぁ~、もったいない。もっ

と聴きたいなぁ・・・。



 キャプストは一度「Mステ」に出た。

 そしてこともあろうに、『風船ガム』という松本隆作詞の

曲で、出た。失敗だった。

 『風船ガム』以外の全ての曲は永友によるもので、それで

あればこそ、“ロックでポップでイチコロリー” だったの

に・・・。



 私は、松本隆は阿久悠と双璧を成す大天才だと思ってい

る。しかし、あの「Mステ」での『風船ガム』が松本隆の意

向だったのであれば、あれは松本隆の汚点となったと思う。

 いまいちしっくり来ない曲をプレイしている、ノリ切れな

いメンバーたちの空回りが悲しかった。今も悲しい・・。

(『キミトベ』か『流星オールナイト』でもやっておけば、

メジャーになっていたことだろう)



 と、気持ちが入って、キャプストの紹介が長くなり過ぎた

けれど、これはこれでいい。ほんとにいいバンドだった。



 さて、幽霊と坊さんである・・・・・、ちょっと休憩しよ

う・・・。



 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。

 さて、幽霊と坊さんである。


 『番町皿屋敷』の “お菊” は、主人の大切にしている十枚

揃えの皿の一枚を割ってしまった為に殺される。それを恨ん

で夜な夜な幽霊となって現れ、「足りない皿」を数え続け

る・・・。

 たかが皿一枚割っただけで殺されたんだから、幽霊になる

ほど恨んでも仕方はない。気持ちは分かる。しかし、その 

“お菊” の行為(?)を、キャプストは「足りない皿を数え

続ける 真夜中二時のバカヤロー」と歌う。

 ちょっと可哀相な言い草とは思うのだけれど、やっぱり 

“お菊” は「バカヤロー」なんです。

 なぜかといえば、済んだことなどどうでもいいから、さっ

さと成仏しちゃえばいいんです。せっかく成仏できる機会に

恵まれたんだから(これも随分な言い草である)。それなの

に、“魂魄この世に留まりて・・・” 、「バカヤロー」で

す。アタマが悪いんです。ということで、坊さんが登場しま

す。



 坊さんは〈仏教〉を学んでいます。

 〈仏教〉は、「人が不幸になるのはアタマが悪さをするた

めだから、“アタマの悪さ” を取り除けばよい」という教え

です。だから、幽霊という “アタマの悪い” ものが現れる

と、「ちょっと教えてやってよ」と坊さんが呼ばれるわけで

す。

 とはいえ坊さんは、そもそも生きた人間相手に教えるもの

なんです。幽霊相手に教えを説くことが出来るのでしょう

か?



 出来ません。

 坊さんは、幽霊とコンタクトをとることは出来ません。

 お経を唱えたり、真言を唱えたり、お札を貼ったりしてみ

せますが、それはただのパフォーマンスです。幽霊に対して

何の意味も持ちません。なぜかと言うと、そもそもそこに

霊はいないからです。



 ところが、これが効果を上げることがあります。「いな

い」幽霊に対して、なぜ効果があるのか?

 それは、坊さんのパフォーマンスを、 “幽霊を見る人” が

見ているからですね。


 ほんとは、幽霊が居るのは “幽霊を見る人” のアタマの中

です。それなのに、外に幽霊が居ると思っているのですね。

 幽霊は〈アタマが悪い〉けれど、幽霊を見る方はもっと

〈アタマが悪い〉。「オオバカヤロー」です。

 それゆえに、坊さんのパフォーマンスは、効果を上げる為

に複雑な経過を辿ります。



 坊さんは、幽霊に向かって「アンタはアタマが悪いよ。成

仏しなさい」という趣旨のことを伝えるふりをします。

 その姿を “幽霊を見る人” が見て、「そうだそうだ」と思

います。そして「アイツ、ほんとにアタマ悪いよな!」と幽

霊のアタマの悪さを確認することで、幽霊の方が、自分(幽

霊を見る人)より劣る存在だから、こちらに危害を加える能

力は無いと安心するのです。そして、めでたく幽霊は消えて

ゆきます。さて、一番バカは誰でしょう?



 幽霊はそもそも居ないのですから、関係ありません。

 坊さんは、そんな持ってまわったパフォーマンスをする必

要などないのに、商売でやってます。本分を忘れたバカ者で

すし、“幽霊を見る人” のアタマの悪さをどうにかするどこ

ろか、いっそう悪くしかねません。

 パフォーマンスを「必要悪」と考えて、「普通の人の困り

ごとだから、普通の範囲内で納めおいてやろう。バカにつけ

る薬はないし・・」というのならまぁ仕方がないところです

が、坊さんとしては褒められた事ではありませんね。それど

ころか、当の坊さんが「本気」で幽霊に引導を渡すつもりだ

ったりもします・・。あぁ~っ、馬鹿・・・。



 「真夜中二時」に幽霊を見てしまう人間はバカです。

 それまでに自分がしてきた事に、後ろめたいものを感じて

いたり、世の中の “自分が知っているストーリー” には無い

感覚を覚えたりした時に、そのことに “意味付け” しなけれ

ば気が済まなくて、お手軽な「オカルト」に手を出してしま

う・・・。



 「なんか、ヘンなの!?」って、そのまま保留にしておけ

ばいいものを、アタマは保留が嫌いなものだから、幽霊でも

UFOでも超能力でもいいからストーリーにしてしまいたいん

ですね。

 なぜなら、アタマにとって「思考に組み込めない事」は、

「思考が作り出す〈怖い話〉」より、もっと怖いんです。だ

から幽霊を見てしまう。幽霊を見ることを選択する・・・。
 

 そういう状況にある人に対して、坊さんなら「分からない

事は、分からないままにしておきなさい」って言ってあげな

きゃいけない。

 「それが本当に幽霊だとしても、幽霊も仏の世界のものだ

から、何も心配は要らない。“なんまんだぶ、なんまんだ

ぶ” ってお迎えしなさい」ぐらいのことは、言っていい。な

に、お祓いしたりして・・・。一番のバカヤローは、やっ

ぱり坊さんですね。



 と、まぁ、坊さんの商売にとって幽霊は必要なんですが、

本当は、幽霊は祟らないんです。“幽霊を見る方” が、勝手

祟られるんです。本当に祟るのは、生霊です。

 もう数千年も前から、世界中に生霊が跋扈して、おぞまし

い災厄をもたらし続けていますが、誰もそれが生霊のしわざ

と思っていない。

 生霊こそが、祓うべきもので、その為にこそ坊さんが活躍

すべきなのですが・・・・、続きはこの次に。




 と、一応終りなんですが、キャプストのファーストアルバ

ムのジャケットのことを思いだしました。

 このような、映画『リング』をモチーフにしたジャケット

なんですね。









 だから、彼らが消えてしまったのではないでしょうが、幽

霊を「バカヤロー」と言い、そういうストーリーをせせら笑

う彼らの感性は、世間の感覚には相容れなかったとは言える

のでしょう。世間は、幽霊が好きなんですよ。“魂魄この世

に留まりて・・・・。っていうのがね・・・。







2018年7月22日日曜日

破壊と創造


 シヴァ神はヒンドゥー教における、破壊と再生(創造)を

司る神である。



 「いきなり、何だ」という感じですが、べつにヒンドゥー

教の話をしようというわけではありません。「破壊と再生」

について書こうとしたら、自動的にシヴァ神の名前が浮かん

だだけの事です。

 シヴァ神のことは詳しく知りませんが、今から3~4000

年前にはその原型となる考え方が出来ていたらしいですね。

 その事は、その頃すでに、人が生きる上で「破壊と再生」

についてどう捉えるかということが重要だったことを示して

います。そしてそれは、今もって人が避けては通れない、決

着をつけるべき問題であり続けていますが、みんな避けます

ね。


 「再生・創造」はともかく、「破壊・死」については考え

たくないということで、避けるどころか無い事にしたりして

います。ことに日本では、事件や事故・災害などで死者やケ

ガ人を運ぶ時には、消防や警察がブルーシートで隠しながら

運びますね。死者はまだしも、ケガ人については「隠してる

ヒマと人手があるのなら、そんなことより早く運べ!」と思

いますが、そんなの少数意見なのでしょう。

 「死や(死を想わせる)破壊は見せてはいけない」という

ことですが、有るものは有るんですがね・・・。有るものを

無い事にしていると、あとでロクなことにならないんです

が、「無い事にする!だから、無い!」。そういうことで

す。



 そりゃぁね、「破壊」も見せますよ、見ますよ。この間の

豪雨災害の現場だって、ニュースで何度となく見せられる。

 でもそれは、そこにヒューマニスティックなストーリーを

観ようとしたり、たんにカタルシスを感じているのであっ

て、自分自身や自分の大切にしているものが、破壊されるこ

とをダイレクトに思わせるものであれば、大抵の人は避けま

す。

「恐い」「気持ちが悪い」「残酷だ」「気の毒で見ていられ

ない」・・・。自分の身にも起こり得ることなのにね。違う

形であったとしても、必ず起こることなのにね。



 見たくないから、見ない。

 見てない事は、存在していない。

 そして、それは「無い事」として生きてゆく。

 自分と自分の世界が破壊されるのなんて、考えたくない。


 実のところ、わたしたちが「破壊」と呼ぶものは、たんに

「変化」であって、それを見る者の都合で「破壊」とみなす

だけですね。立場が違えば、それは「再生」や「創造」であ

るかもしれない。


 自然環境を大切に考える者にとって、山の中に道路を作る

ことは「破壊」ですが、利便性を考える地元の人間と土建屋

にとっては「創造」です。

 この世には「破壊」も「再生(創造)」も無い。

 ただ、変化して行くだけだし、その都度今までに存在しな

かった姿になって行くのですから、むしろ「創造」とみなし

た方が良いかもしれない。


 世界は創造され続けている。


 ただし、その「創造」は人の都合とは関係が無い。

 世界の都合で「創造」されて行く。


 人は、世界の都合に合わせて「創造」されるものを受け止

めて行かざるを得ないのだけれど・・・、いやなんだね。

〈アタマ〉は自分の都合こそが、優先されるべきだと思って

いるから。


 自分の都合の妨げになるものや、自分の都合が妨げられる

可能性を想起させるものは「破壊」と見て、無視したり排除

しようとする。無い事とする。


 でも、そうしたところで、世界が変化して行くことを止め

ることは出来ないし、自分の都合の良いように変化してくれ

るわけでもない。


 そりゃぁね、誰だって自分の都合の良いように行って欲し

いですよ。そりゃぁそうです。でも、そうはいかない事は誰

だって知っている。幼いうちはともかく、十代にもなれば分

かっている。なのに、分かっているのに、受け入れたくない

んですね。〈アタマ〉はあきらめが悪い。
 

 「自分の都合」は一旦棚上げにして、世界の都合を受け入

れる。「主導権は世界の方にあるんだ」と認める。


 「破壊と再生」・・・。

 シヴァ神が動かして行くままに従って行く・・・。


 実のところ、「動く」ということは「変化すること」と同

義ですから、「変化」の無い世界、つまり「破壊と再生」の

無い世界は「死んでいる世界」なわけです。

 わたしたちは、どんなに気に入らなくても、どんなに理不

尽でも、起きてしまった変化は受け入れざるを得ません。

 受け入れることが出来なければ、「死んでいる世界」に生

きることになります。つまり、亡霊になってしまいます。



 ここまで書いて来て、今回のブログを書いている理由が分

かりました。昨日、“キャプテン ストライダム” の『帰れや

しないぜ』を聴いたからのようです。

 歌詞の中に《足りない皿を数え続ける 真夜中二時のバカ

ヤロウ》というフレーズがあって(もちろん『番町皿屋敷』

の亡霊 “お菊” のことですが)、「皿を割っただけで殺され

る」というのは理不尽この上ないのは確かだけれど、だから

といって “亡霊” になって「足りない皿を数え続ける」のは

〈アタマが悪い〉。

 逆に言えば、〈アタマが悪い〉から “亡霊” になってしま

ったのですね。(幽霊が出ると坊さんが呼ばれるのは、

「〈アタマの悪さ〉には仏教が効く!」ということです

ね・・。この件は次回にふれることにしましょう)


 起きてしまった「破壊」に対して、あきらめる(受け入れ

る)ことが出来ず、執着し続けると、人は亡霊になってしま

う・・・。


 「変化」を止めることは何者にも出来ない・・・。

 それを止めようとすると・・、それを受け入れない

と・・、自分自身が壊れてしまう。それと共に「破壊」され

たものが、「再生」することを妨げることになる。


 世界を動かして行く  変化させて行く  シヴァ神にす

べてを任せる・・・。任せるしかない。だって、相手は

〈神〉ですよ・・・。


 自分の都合が良ければ、大喜びで「変化」を受け入れ、都

合が悪ければ、泣いて怒って悔やんで恨み続ける・・・。

 わたしたちは、何が正しいかも知らないのに・・・。


 シヴァ神に任せましょう。


 「おまかせします。ごちゃごちゃ言いません。ナムアミダ

ブツ、ナムアミダブツ・・・・」・・・・?


 ヒンドゥー教も仏教も関係ありません。

 わたしたちが、この世の “亡霊” になって闇に囚われるこ

とを逃れるには、「『破壊』など無いのだ」と気付いて、

「変化」を受け入れて行くしかないのです。

 シヴァ神の力は《絶対》です。そもそも逆らえないので

す。〈アタマが悪い〉から逆らおうとするのです。


 「起ってしまったこと」

 「今まさに、起きていること」

 それを受け入れて、それに合わせて自分も変化して行く。

 せざるを得ない・・・。


 「拒むことによって起る変化」と「受け入れることによっ

て起る変化」には、大きな違いがあります。

 どうせ、自分の世界は変わってしまったのです。

 もう、元には戻らないのです。

 自分も変わってしまうのです。

 “お菊” はダダをこねてるだけなのです(そりゃぁ、気持

ちはわかるけど・・・)。


 シヴァ神は、世界は、何も破壊しない。

 すべては動いて行くだけ。

 だって、世界は生きているのだから。

 動かない世界は、死の世界だから。


 「死」を止めれば、「破壊」を止めれば、「創造」も止ま

る・・・。世界は死んでしまう。


 「死」は、「破壊」は、「生」の全体像のある一点に対す

る執着の名前でしかない

 そして「創造」とは、この世界の動きそのもの。

 世界は連綿たる「創造」の営みでできている・・・。


 「じゃぁ、テロリストの破壊や残虐行為も、金儲けの為の

環境破壊も、“そういうもんだから放っておけ” と言うの

か」


 放っておきたくはないけれど、そういう行為を起こすの

は、自分の世界(自分の理想とする世界)が変化することを

拒む〈アタマの悪さ〉のせいだから、本当にそういうことを

無くすのであれば、人間が皆、自身の〈アタマの悪さ〉に気

いて、それを意識し続けるしかないでしょう。

 ほとんど望みはないけれどね・・・。

 それも、シヴァ神が司ることだろうからね。



2018年7月16日月曜日

暑くて、寝苦しい時は・・・


 今夜も熱帯夜になるそうだ。最低気温は25℃以上で朝を

迎えるそうだが、本当の熱帯の夜はそんなに暑くはないらし

い。

 以前読んだ、生物学者の日高敏隆先生の本にあったけれ

ど、先生がボルネオにフィールドワークに出かけていたある

夜、現地のラジオを聴いていると、たまたま東京の熱帯夜の

ニュースが流れて、それを聞いた現地の人間が「お前らはそ

んなに暑い所でよく平気だな!」と驚いたという。

 実際に、ボルネオでは昼間の気温こそ高いけれど、夜は温

度が下がって東京のように暑くはないそうだ。

 「『熱帯夜』という言葉は考え直さなければいけないかも

しれない」と、日高先生は書いておられたと思う。


 地球温暖化かヒートアイランドかしらないけれど、私が子

供の頃にくらべると確かに暑い。

 今はエアコンがなければ、寝苦しくてたまらないけれど、

子供の頃は扇風機だけでなんとかなっていた(ウインドファ

ンなどという物もあったね)。それと、『熱帯夜』というイ

メージを持たされた事も、心理的にプレッシャーになって、

寝苦しくさせているのかもしれない。


 「寝苦しさ」ということで、ひとつふたつ思っていること

があるんですが、真夏の昼間、30℃以上ある時にエアコン

など点けずに昼寝をしてしまうことがあります。

 眠たくてたまらないこともあれば、畳の上などにゴロンと

横になっていていつの間にか寝てしまうこともあるけれど、

何にせよ気温は30℃以上で、『熱帯夜』より遥かに高い。

それなのに気持ち良く寝てしまう・・・。夜は25℃でも、

エアコンを点けなければ寝られないというのに・・・。


 「これは、“明るさ” がカギだな」

 そう思ったのです。


 夜、電気を消して目を閉じると、目からの刺激はほとんど

無くなりますが、その分、別の感覚に意識が向けられるので

しょう。その結果、暑さに意識が向き過ぎてしまい、脳が興

奮状態になるのではないか? しかし、昼間の明るい時に

は、目を閉じてもある程度の刺激は目に入るので、暑さに意

識が集中する事がなく、脳の平静が保たれて、眠ることが出

来るのではないか?

 人間は、ある程度 “雑多な刺激(情報)” にさらされてい

る方が、平静を保てるのでしょう。何かに意識が集中し過ぎ

るとリラックス出来ない・・・。それは誰しも経験する事だ

と思います。


 テレビが点きっぱなしで、「ギャーギャー」とお笑い番組

をやっているのに、うたた寝してしまう。そうかと思えば、

水道の蛇口から「ポタン、ポタン」と落ちる水の音が耳につ

いて眠れなかったりする。

 何かに意識を向けさせられる事は、大きなストレスとなる

ようです。“昼に上司の言った一言が腹立たしくて忘れら

れない” とか。


 上司のことはともかく、暑くて寝られない時は、少し部屋

を明るくして(ほのかに明るく)やれば、少し眠りやすいだ

ろうと思いますよ。


 それともうひとつ、「明かり」に関してですが、蛍光灯や

LEDの “白い灯り” の下では、お酒が美味しくありません。

 ちょっと思いだしてもらえばわかりますが、お酒を飲む店

は、必ず電球(または電球色)です。そうじゃないのは立ち

飲み屋ぐらいのものだというのは、わたしたちが無意識に

「明かり」によって酒の味が変わる事を知っているからでし

ょう。(以前、近所に焼き鳥屋が開店しましたが、その店の

照明が普通の蛍光灯で、「これは、客が来ないだろうなぁ」

と思っていると、案の定まったく客が入らず、半年ほどで閉

店しました。感受性の鈍さって怖いです)


 「明かり」について私が思っていることを少し書いたので

すが、「明かり」に限らず、わたしたちは気付かないうちに

いろんな事に影響を受け、行動を左右されたり、コントロー

ルを失ったりしています。

 別に、「“暗くて暑い” と眠れない」なんてことを言わず

とも、「暑いとエアコンを点けたくなる」ということ自体

が、まわりからの影響を受けた為に生まれる想いです。

 わたしたちは、「環境」  というよりは「状況」に動か

されている存在なのです。


 もしも、わたしたちが自分を自分でコントロールして生き

られるのならば、38℃ の炎天下の中、日向で何時間でもじ

っとしていられるはずですが、そんなこと出来ませんね。下

手をすると、永久に「じっとしている」ことになりま

す・・・。


 わたしたちは、絶えず何かに動かされています。

 物理的にも、生物的にも、心理的にも・・。

 〈わたし〉とは何なのか?

 川を流れてゆく木の枝と代わりがないのではないか?

 ただ「ごちゃごちゃと何かを考えて、ごそごそと何かをし

ているだけではないのか? 流されながら・・・」

 とてもじゃないけど、「自分で動いている」なんて思えま

せん。


 そんな風に日々を送りながらも、「“熱帯夜” に、少し明

かりを灯してみる」ように、少しの “気付き” が生きること

を楽にするかもしれません。


 何かに囚われ、苦しくてたまらない時には、雑多な事に身

をまかせて、意識の世界から自分をずらす・・・(気を紛ら

わせるのとは、ちょっと違うのですが)。

 一つの事に囚われず、ある意味「ぼ~っ」とした状態にな

る事で、「状況」からの圧力をやり過ごしてしまう・・。


 20Lの水が入ったポリ袋を押しのけることは大変です

が、20Lの水が入ったポリタンクを押しのけるのは、そう

でもありません。

 形を保とうとして、何かに囚われるほど、まわりの「状

況」からの影響を強く受けることになります。

 雑多な想いに身を置き、「ぼ~っ」として自分を保とうと

せず、“「状況」を自然に受け止める” 方が、わたしたちは

苦しい思いをせずに済むように思いますね。


 暑さに、少し「ぼ~っ」としながら書き始めたら、思いが

けない展開のブログとなりました。
 

 今夜は『熱帯夜』(日高先生が「違うよ」と言ってます

が)、寝苦しければ少し明かりを点けてみてください。

 そして「ぼ~っ」と、自分に安らいでみてください・・。

いろんなものを受け入れて・・・。『熱帯夜』に身をあずけ

て・・・。








2018年7月15日日曜日

完璧な社会は無い~再び “オウム的なもの” について


 浅原彰晃たちの死刑が執行され、浅原の遺骨を誰に引き渡

すのかなどということが取り沙汰されているけれど、誰の手

に渡ろうがあまり違いは無いように思う。どうするのが最善

かなんて、誰にも分からないし。


 今までにも〈オウム〉については何度か書いたのだけれ

ど、〈オウム〉や〈アレフ〉が存在することが社会の脅威と

なるのではなくて、社会の中に “オウム的なもの” があるこ

とを見ないことが、問題を生み出すのです。

 〈アレフ〉の信者が増えないように、さまざまな手段を講

じて管理し切れたとしても、行き場を失った “オウム的” な

人間が、全然違うところに集まって反社会的な活動を始める

ことは十分有り得ます。

 どのような社会であっても、社会の中には、ある割合で 

“オウム的なもの” が生まれます。〈すべての人にとって完

な社会〉は存在しないからです。


 この世界は、自然の秩序によって成り立っていますが、人

間の作る社会は、その社会の多数派か、大きな権力を持つ少

数の人間によって秩序がつくられます。

 その秩序は、自然の秩序とは違うものなので、必ずその社

会の中に秩序から外れる者を生みます。例え秩序から外れる

者をすべて社会から排除しても、社会自体が変わって行くの

で、その過程でまた秩序から外れる者が出て来ます。

 社会というものは、 “オウム的なもの” に代表されるよう

な、秩序に取り込めないものをどうしても内包するのです。


 「そういう存在を社会から失くそう」とする考え自体が、

秩序をさらに強固にし、狭める結果となり、却って秩序に取

り込めないものを増やしかねません。

 やぶへびになる可能性が大きい。


 完璧な社会は無い。

 完璧な社会は作り得ない。


 当たり前です。人間はそれぞれ違う。多様ですし、一人の

人間さえ変わって行きます。

 その上、人間は満足する事が下手です。“完璧” など求め

出したが最期、理想から外れるものを次々と排除して、「役

に立たないもの」「危険なもの」「理解しにくいもの」な

ど、要するに「気に入らないもの」を社会の隅や社会の外に

追いやります。

 それらの “もの” がある限界を超え、寄り集まることで力

を得ると、「自分たちを排除したもの」に対して反撃に出ま

す。“反社会的行動” ですね。


 それが、〈オウム〉の様なカルト教団のテロになることも

あれば、イスラム過激派の活動だったりもするし、革命や戦

争になる場合もある。ヤクザの抗争だってそうでしょうし、

企業や政治の組織の中の派閥争いだってそうです。


 人が(その人間たちにとっての)理想を掲げ、秩序を作ろ

うとすると、必ず排除する働きが生まれて、“オウム的なも

の” に象徴される 〈反社会的な人間〉を作り出してしまうの

です。

 その「程度」は社会によって違いますが、避けることは不

可能に思われます。


 私が言った、「完璧な社会」とは、「完璧に秩序立って安

定している社会」という意味ですが、もしもその様な社会が

出来たとしたら、その社会は「変化することの無い〈死んだ

社会〉」でしょう。何も新しいものを生み出せず、人が活き

活きとすることの無い世界。

 日本の刑務所の中は、たいへん秩序立った所だと思います

が、「完璧な社会」は、刑務所の中より冷たく秩序立ってい

る事になるでしょうね。


 “オウム的なもの” の暴走を怖れるのならば、社会の本流

とは違う考えや感じ方を持って生きている人を、肯定まで出

来なくとも、許容することが必要です。

 人間は多様である事、人間は変わって行くということ、そ

して社会さえも変わって行くということ、何もかもが気にい

る様には行かない  というより、気に入らない事の方が多

  ということを認める必要があります。

 そうすれば “オウム的なもの” の暴走を防ぎ、戦争さえ無

くすことも出来るでしょう。ただし、さまざまな「小さな気

に入らない事」を上手に受け止める〈智慧〉が要ります。

 それは、《 “完璧ではないように見えるもの” が存在した

ままで、社会(世界)は完璧なんだ》というものですけど。


 普通、人々が求める「完璧な社会」は、気に入らないもの

が存在しない社会だと思いますが、ほんとうに『完璧な社

会』は、気に入らないものも受け入れることが出来る社会で

しょう・・・。有り得ませんね・・・。残念ながら。


 やはり、「完璧な社会は無い」。

 でも、少人数なら作れると思います。それでお互いを認め

合って、気分よく過ごせばいい・・・・。

 ただし、その外を取り囲んでる “社会” が放っとかないで

しょうね。


 「あいつら、怪しいぞ・・・」


 ・・・・どうしようもないね。

 社会というものは、「アタマが悪い」のです。

2018年7月14日土曜日

キレイごとを言う


 世の中には “キレイごと” を言う人が居る。その一方で

「キレイごとを言うな!」と言う人が居る。私は “キレイご

と” を言いたい方です。



 「キレイごとを言うな!」という人に対しては、「じゃ

あ、あなたは “汚いごと” が好きなのか?」と言いたくな

る。だれだってキレイな方が好きだろうと思うから。



 「キレイごとを言うな!」と言う人は、“キレイごと” に

関わるのが面倒くさいか(“キレイごと” を維持するには、

かなりエネルギーが要るように思えますからね)、自分がい

ままで “キレイごと” に出会えなかったり、自分の発した 

“キレイごと” を踏みにじられたという経験があるのでしょ

う。で、「“キレイごと” は絵空事だ」と思っているんでし

ょうね。

 でもね、“キレイごと” は言うべきだと思うし、出来るだ

け実現すべきだと思います。だってキレイな方がいいでし

ょ?

  “キレイごと” を言いましょう。そして、出来るだけ実

現させましょう。ただし、〈事実〉を踏まえた上でですけ

ど・・・。


 こんな言い方をするということは、「事実を踏まえていな

い “キレイごと” が多い」と、私が思っているということで

すね。

 実のところ「事実を踏まえていない “キレイごと” 」を言

う人間が多いことが、「キレイごとを言うな!」という人間

を生み出す、大きな原因になっているんですね。


 「事実を踏まえていない “キレイごと”」は “絵空事” で

す。そんなものに関わり合ってしまった人が、 “キレイご

と” に嫌悪感を抱くようになったとしてもしょうがない部分

があります。そして世の中には 、“絵空事” でしかない「事

実をふまえていない “キレイごと”」が多すぎるんですね。

 そして、そういった「事実を踏まえていない “キレイご

と”」のほとんどは、〈ヒューマニズム〉の上に発生して来

ます。そして多くの場合、『人の命は地球より重い』という

常套句を免罪符にして発せられ、〈違う意見・考え方〉を封

殺します。「じゃあ、人が死んでもいいのか!」と言われれ

ば、非常に物が言い難いですからね  近年は『地球環境を

守れ!』と、〈エコ〉を立てて来ることも多いですね。

 そうして、〈ヒューマニズム〉に立脚した “キレイごと” 

は、有無を言わせぬ正当性を持って世の中を通って行く事に

なります。その陰でどんな問題を引き起こそうとも・・。


 私は《ヒューマニズムが人類を滅ぼす》と思っているんで

す。

 なぜなら〈ヒューマニズム〉というものは、“個人” とい

うものの価値を極限まで重要視した〈エゴイズム〉だからで

す。『人の命は地球より重い』  個人を極限まで重要視し

ているでしょ?

 そして「地球環境が悪化すれば、人間も死んでしまう」と

か、「ホッキョクグマもクジラも人間の仲間だ!」とかいう

のも、〈ヒューマニズム〉のアレンジなんですね。「人間の

仲間」とみなしたものには、〈ヒューマニズム〉を適用する

んです。

 その一方では、蚊やゴキブリやヒアリなんかは「絶滅して

くれればいい」と思っているのでしょう。同じ生き物なのに

ね。


 結局、人間の都合でものを言っているだけなんですよね。

 「気に入らない奴は消えて無くなればいい」

 「気にいることは大事にしなければならない。そのために

は、そこにどんな問題があろうと関係ない。

 それが、〈ヒューマニズム〉における “キレイごと” の本

質でしょうが、言う方は「人類の為、地球の為」だと思って

る・・・、無意識レベルでは自分のウソに気付いていそうで

すが。


 と、このような事を書くと、「じゃあ、お前は人が死んで

も、ホッキョクグマが滅んでもいいんだな!」と言われるこ

とになるんですが、私はそんなことは言ってませんね。今の

ところは。


 実のところ、私は「人が死んでも、ホッキョクグマが滅ん

でもいい」とは思っています。ただし、「それが人間の〈エ

ゴ〉によるものでなければ」ということが前提です。

 さらに、こうも思っています。「〈エゴ〉の価値を担保す

る為に、“人の命” や “他の生き物の命” や “地球環境” をダ

シにするんじゃない!」と。


 『人の命は地球より重い』と言う人は、当然ながら「わた

しの命も地球より重い」と思っています。それとともに「わ

たしは人の命を何よりも大切にする良い人間だ」という自己

肯定に酔うのです。

 「わたしは『人の命は地球より重い』と知っている良い人

間であり、地球より大事にされてしかるべき、価値のある人

間である」

 それがヒューマニストの本音だろうと私は思っています。

 自分の価値(エゴ)を自分で確認し、社会にも認めさせる

為に、『人の命』や『地球環境』という “黄門様の印籠” の

ようなものを振りかざすのであって、ほんとに大事なのは、

彼ら自身でしかないのです。


 そしてその様な人間の言うことに対して、根拠のある  

検討してみるべき理由の有る  反論をすると、非常に怒り

ます。自分(エゴ)の正当性を担保したいが為の言い分です

から、もともと事実に即していない所があって、そこを突か

れると、考えてみようとはせずただ感情的になります。

 ほんとうに「人の為」や「環境の為」であれば、違う意見

が有れば検討してみるのが筋と言うものなのにね。


 〈ヒューマニスト〉やそれが形を変えた〈エコロジスト〉

は信用しませんね。


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 そもそもこの話のきっかけは、『スターバックスがプラス

ティックストローの使用を辞める』というニュースを知った

ことです。

 「割り箸バッシングみたいだなぁ」と思い。

 「日本でも、同じことを言い出す輩がいるんだろうなぁ」

と思いました。

 しかし、私が不思議なのは、「なぜ、ストローが大量に海

へ出てしまうんだ?」ということです。

 「ストローを規制するより前に、ゴミの始末をちゃんと出

来る社会にすべきじゃないの?」


 使ったストローなんかを何処へでもポイポイ捨てるから、

そんなことが問題になるのだとしか思えません。ですから、

この件は日本では問題にならない事だと思いますが、「プラ

スティックストローを使うのをやめよう!」と言い出す幼稚

で短絡的な〈エコロジスト〉が出て来るんだろうなぁ・・。

その時は、笑っちゃおう。

 「プラスティックストローが与える環境負荷よりも、紙製

ストローを製造・流通させる環境負荷の方が大きいかもしれ

ない」ということを誰も検討しないまま(検討する事を許さ

ないまま)、“プラスティックストローバッシング” は熱を

帯びて行くのでしょう・・・。ああ、気持ち悪い・・・。

 “キレイごと” は事実を踏まえて言いましょう・・・。


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 私の言いたい、私にとっての “キレイごと” は、『キレイ

に生きて、キレイに死のうよ!』ということなんです。言い

かえれば『ワガママを言うな』ということですね。
 

 世界は人間の為にあるんじゃない。

 世界は人間の都合に合わせて動くものではない。


 その事を踏まえた上で、謙虚にものを観て、その上で “キ

レイなこと” を言おうと。


 『人の命は地球より重い』

 地球が聞いたら吹き出して笑うでしょう。

 「おいおい、お前何様のつもりなんだ? お前はわたしの

一部に過ぎないんだよ!」そう言いそうです。


 『人の命は地球より軽い』

 それが事実でしょ?


 カッコイイことを言うのもいいけど、カッコつけることに

のぼせてると、話が浮いてしまって物事の本質がなおざりに

なってしまう。

 なにも、死ぬことだけに限っているのではなくて、『人の

思い通りにならないことはいくらでも有る。それらの事を、

個人としても、社会としても、キレイに受け止めて行こう

よ』ということなんです。


 「キレイに受け止める」とはどういうことか?


 自分(人間)の都合に合わせて世界の方を変えようとする

のではなくて、「自分の方が上手に変わろう」「自分が合わ

せてゆこう」ということですね。

 だから、私の言う “キレイごと” には、力強さはありませ

ん。 「あの~、できればなんですけど・・・」といった文

脈で発せられることになります。

 「できれば、命を助けてあげるようにしたいね」とか、

「できれば、仲良く生きてゆきたいね」といった感じです

ね。

 そして「思い通りにならなくても、そういうもんだから仕

方ないよね」というあきらめをベースにして、「できれば、

自分の事は後回しにして生きよう」という態度になります。


 “キレイごと” というのは、要するに「自分の事は後回

し」ということなんですけど、『命』というような事柄を免

罪符にして強く迫って来るような “キレイごと” は、「自分

の事を後回し」にしているように見えて、実は “偽装された

エゴ” と見て間違いはないでしょうね。ほんとは全然キレイ

じゃない・・。


 本当に実のある “キレイごと” は、前に出て来て何かをし

ようとするものではなくて、何かを生かす為に自らは後ろに

引こうとするもんだろうと思います。

 (アグレッシブな言動というものは、すべてエゴによるも

のです)


 『環境』の為には、何かをするのではなくて、何かを辞め

るだろうし、『命』を活かす為には、「生きてるものは必ず

死ぬ」ということを受け入れる・・・。

 そうしないと、『命』を守れなかったときに〈恨み〉が生

まれてしまう。〈恨み〉が生まれる事は、世界にとって決し

て良いものではありません。

 〈恨み〉とは、「自分の望み通りにならなかった事への怒

り」であり、エゴの作る “毒” です。

 その毒は自分を損ない、世界にも悪影響を与えます。


 人は、やはり他の生き物とは違います。その特質として 

“キレイごと” が言える  自分の事を後回しに出来る  

ということは特筆すべきことです。

 人であるならば、“キレイごと” が言えるべきです。それ

は人としての喜びともなります。けれど、そこにはエゴの罠

が張られています。
 

 “キレイごと” を言いましょう。

 ただし、細心の注意を払って、アタマに悪さをさせないよ

うに・・・、エゴの手口に乗らないように・・・。

 人として生まれた喜びを持つ為に。



 とか、何とか、長々と語りましたが、読み返してみると、

話の筋道がグチャグチャですね。でも、これは論文ではあり

ませんし、居酒屋でのヨタ話のようなものですから、それで

もいいんです。気分が伝わるなら、それで OK !

 気分が伝わらなくても、それはそれで OK !

 「『正論』の “正しさ” も、人の都合次第なんだ」という

疑いを抱かせたら、充分でしょう。








 

2018年7月10日火曜日

「それだけのこと」の奇跡


 夕方。家の前でアブラゼミが鳴いていた。

 ・・・それだけのことですが・・・。

 夏が来た。大阪湾の向こうに入道雲が湧き立っている。

 ・・・それだけのことですが・・・。


 それだけのこと。なにもかも、「それだけのこと」。

 「それ、だけ」。


 「それだけ」というと、〈取るに足りない〉ことですが、

「それ、だけ」とは、〈唯一無二〉という意味もある。

 どんなに取るに足りないような事でも、それは唯一無二の

事。


 一匹のアブラゼミが鳴く。唯一無二。

 ひとつの入道雲が湧く。空前絶後。

 電線で一羽のスズメが鳴く。それは、もう二度と無い。


 わたしたちは、もう二度と訪れない、もう二度と出会わな

い出来事に出会い続けて生きているけれど、そのほとんどを

「それだけのこと」と思い、取るに足りない見飽きた事とと

して見過ごして行く・・・。


 今日の自分は、昨日と違う “もう二度と無い自分” 。

 今の自分は、さっきとは違う “もう二度と無い自分” 。

 その自分を、“いつもと変わらぬ取るに足りない自分” だ

と思っている・・・。


 「それだけのこと」の、“唯一無二” 性に想いを致せば、

「それだけのこと」がとても愛しいものになってくる。だっ

て「それ、だけ」なんだから。

 なにもかも「特別」なんだから。

 なにもかも「絶対」なんだから。

 すべてが “それ” として「完全」なんだ。


 一枚のティッシュペーパーが、ここに在る・・・。

 それは、もう二度と無い・・・。実は、恐るべきことなん

です。

 ましてや、あなたが今そこにいる・・・。

 言葉を失うほど、感動に震えてもいい事です。

 それが、「良い」か「悪い」かじゃない。

 どんな評価とも関係なく、すべてはそこに在る。あなたは

そこにいる。


 「そこに在る」

 「ここに在る」


 その絶対性に想いを致す・・・。

 それは人間の価値判断など、一切ちからを及ぼせない事で

あるのを知る・・・。


 普段わたしたちは、何かを「評価する」ことが、何かを

「取るに足りない事」とみなすことでもあると意識していな

い。

 あるものを「良い」とみなした時、その数十倍、数千倍の

ものを「取るに足りない」と捨て去っている。

 それはわたしたちの〈業〉として、仕方がないことではあ

るけれど、そのことがわたしたちを幸福から遠ざけている。


 毎日々々、無数の「それだけのこと」に出会うわたした

ち。

 いつ、どんな瞬間でも、「それだけ」が「それ、だけ」で

あることを想えば、生きてる事は、無限に続く奇跡の連続

だ。

 わたしたちは奇跡に取り巻かれて生きている。


 目の前で、アジアンタムの葉が風に揺れている。


 「世界は、やっぱり美しいんだ・・・」


 私がここにいる・・・。

 あなたがそこにいる・・・。

 奇跡なんだね・・・。

 ・・なんだけどね・・・。