2023年6月27日火曜日

間違えたけど・・・



 前回のブログを書いてしばらくしてから、「あ、間違え

た」と思った。

 何のことかというと、 “自分の心の中ののエゴをなるべく

下がらせて、心を空けておく」・・・” と、最後のほうに書

いたけれど、エゴを下がらせることなどはできない。うっか

りしていた。

 まぁ、間違ってもいいんだけどね。口から出まかせを書い

てるだけだし、そもそも “「間違い」って何?” という気もす

るし。でもまぁ、このブログでは大事な部分なので、訂正し

ておきたい。


 この前の『断・捨離』(6/22)の時にも書いたけれど、そ

れ以前にも「心のスペースを空けることはできない」という

意味の事を何度も書いている。

 わたしたちの「意識」と「無意識」は、常に思考と情動で

満たされていて、そこを空にすることはできない。けれど、

昔から「心を無にする」とか「無我の境地」とかいうことが

言われて来たので、修行などをすれば「意識」を空っぽにす

ることができるようなイメージを多くの人が持っているだろ

う。しかし、それは無い。「無」になんて死ぬまでならんわ

い(by 沢木興道)。


 「心を無にする」のではなくて「無が在ることを、心にと

どめる」と考えた方が良いだろう。

 「無我の境地になる」のではなくて、自分の中に「無我の

境地があることを知る」というのが適切だろう。


 たとえば広い草原の真ん中で、スマホに自分への悪口が

次々と届いているとする。

 目は画面に釘付けになり、心はざわついて、怒りや不安や

悲しみが沸き起こってアタマは爆発しそうになっている。苦

しい。悔しい。けれど、実は自分が居る所は青空の下のそよ

風が吹く草原なのだ。スマホを消して目を上げれば、そこに

何の苦しみも無い。

 そんな風に、わたしたちの「意識」「無意識」のまわり

は、広い穏やかな空間が広がっているのに、そこに意識が向

かないだけなのだ。


 「無」になる必要はないし「無」になんかなれない。手に

入れることもできない。「無」(我の無いスペース)はもと

から在る。もとから在るのだから「なる」ことも「手に入れ

る」こともできない。そんな必要がない。

 怒りも不安も悲しみも無いスペースの中に、わたしたちの

「意識」は浮かんでいる。それを知ればいいだけ。修行も苦

行もいらない。ちょっとした慣れが必要なだけ。


 止むことなくアタマに湧き上がる思考。胸をよぎり、揺さ

ぶる感情。その背後に空間があるでしょ?

 ちょっと視点をずらせば誰にでも見えるはず。分かるは

ず。それが分かっていれば、どんなにエゴが七転八倒してい

ようと、「ああ、エゴがパニくってるな・・」と自分の境遇

がスマホの画面の中のように他人事になるのです。たとえ、

エゴの七転八倒のせいで死んでしまっても、それすら他人事

のようになるのです。

 「無」は自分を包んでいる大きなもので、それこそ「お釈

迦様の手のひら」のようなもの。そこにこそ「安心」がある

のです。(『クリシュナムルティと孫悟空』2021/12参照)


 愚かでちっぽけなわたしたちです。

 たとえ、この世の中でどんな凄いことを成し遂げたとして

も、それはそれだけのことです。

 楽しいことは楽しめばいいし、本当に「立派だな」という

こともあります。それはそれでいいのです。けれど、それも

この世の中の “お話し” です。“お話し” の中の右往左往で

す。

 愚かでちっぽけなことも、立派で大きなことも、そのまわ

りの「無のスペース」からすれば、特に違いはないのです。

わたしたちは、愚かでちっぽけであることに安心していいの

です・・・。


 ということで、「間違ってもいいのです」というお話しで

した。



2023年6月25日日曜日

“Cool Japan” の本質



 この頃、私の生活圏でも、日本で暮らしているらしい外国

人を見かけることがかなり増えたと思う。自分の家の近所で

は白人さんをよく見かけるようにもなった。やはり日本在住

者は増えているようだね。


 欧米が移民問題でなかなか頭を悩ませているせいで、日本

の中で「日本に外国人を入れるな!」みたいな発言もよく目

にする。「移民が増えると日本の社会や文化が壊され、日本

が日本でなくなる」という発想らしい。

 外国は個人主義的な社会が多いので、そういうところの人

間が増えると、好き勝手をやりだすのでヤバイという感じな

んだろう。けれど、そうなるのだろうか? 「人口の2割が一

気に外国人になる」ような状態なら、確かに社会は大きく変

わってしまうだろうけど、少しずつ増えるのなら、そんなに

変わらないのではという気もする。そう思う理由は日本の風

土による。


 随分前に《 すべての生き物は風土に殉じ、すべての存在は

時代に殉ずる 》という言葉を載せたけれど、日本人が日本人

らしいのは、この国の風土が大きく影響しているだろう。

 地震・津波・噴火・台風・大雨・大雪・・・、国土面積に

比べて災害の発生件数は世界有数。その上、高温多湿で植物

の種類が多いので、都市部でも空き地を7~10年も放置し

ておけば、ちょっとした森になってしまう程、日本の自然は

強靭だ。そのような風土に暮らそうとすれば、コミュニティ

が協力しなければ、暮らしは立ち行かない。自分勝手で人任

せでは暮らせない。そのような人間は社会からはじき出され

てしまうだろう。日本に暮らして、日本の自然と日本人に付

き合えば、日本人になってしまう能性が高い。もちろんそ

うならない人間もいるだろう。日本人らしくない日本人もい

るんだからね。


 で、その「日本人らしさ」について、2~3年前から思っ

ていることがある。


 10年前ぐらいからだろうか、外国人の日本・日本人評を

よく耳にするようになった。

 「日本人は特殊」「街にゴミが落ちていない」「電車の中

や街が静か」「無表情で冷たくみえるけれど、助けを求めれ

ば親切に答えてくれる」「落とし物が戻って来る」「行列を

乱さない」「さまざまな場面で譲り合う」「本音を言わな

い」「しょっちゅうお辞儀をするけど、握手やハグはあまり

しない」「エレベーターで黙ってる」「恋人同士でも人前で

イチャイチャしない」などなど。(どの程度、リップサービ

スや誇張が含まれているのか知らんけど)

 そういった「日本人らしさ」、欧米人などとの違いが生ま

れる理由に気がついたのです。それは「個人」と「社会」の

在り方にある。それはこんな感じだと、私は見ている。



                                         欧米のような個人主義の社会では、社会の中に個人がいる



 日本では社会の外に個人がいて、少しずつ社会に参加して

いる


 欧米では「社会」はその中にいる「個人」が利用するもの

で、公共の場・物は利用するものであり、その管理は「社

会」が担うという意識なのだろう。「社会」は「個人」の為

に有る。「社会の中で個人が何をしようが自由」。だから

「個人主義」。

 一方、日本では生きる為に「個人」が「社会」を維持しな

ければならないので、「個人」が協力して公共の場・物を管

理し、それぞれが必要な時に利用できるように、なるべく空

けておかなければならないという意識なのだろうと思う。日

本は「社会主義」的。


 そのように考えると、日本社会・日本人の特性が良く分か

る。

 「本音を言わない」「自己主張しない」。人間関係も一種

の公共空間なので、なるべく空けておくのです。

 「街にゴミが落ちていない」「電車や街が静か」「キチン

と並ぶ・譲り合う」。なるべく空けておくのです。

 「人前でイチャイチャしない」「握手やハグをあまりしな

い」。公共の場に「個人」持ち込まず、なるべく空けておく

のです。

 「落とし物が戻ってくる」。落とし物はゴミと一緒であ

り、かつ公共の物。取り除き、公共に処分を任せて、公共の

場を空けるようにする。


 日本人にとって、公共の場、社会は、使う時の為に空けて

おかなければならないもの、できるだけ整えておくものなの

です。多分、日本人は無意識にそう思っている。それが「日

本人らしさ」を生んでいる。その意識を生んだのは、この国

の風土でしょう。協力しなければ上手く生きられないので、

「個人」の都合は二の次になる。
 

 「“個人” は、自分の家や、余裕のある時にやってくれ」

 それが、日本人の隠されたコンセンサスなのでしょう。


 さらに「日本人らしさ」に大きな影響を与えているのは、

仏教でしょう。なにせ「空けておく」のですから、「空」で

す。

 この強靭な自然と災害に折り合いをつけながら生きて行く

ためには、己を空しくして協調しなければならない。その現

実は、仏教と親和性が高いのでしょう。だから仏教は定着

し、独自の発展をした。


 もちろん「日本人らしさ」にも弊害は有る。良いことは、

状況が違えば悪いことになる。それは必然ですから。ただ、

「空けておく」という “在り方” は、人間の根本的な態度とし

てはとても優れていると思う。

 そして、自分の心の中のエゴをなるべく下がらせて、心を

「空けておく」なら、それはやはり清々しさをもたらすはず

です。

 “Cool Japan!”  ではなく、”空、ジャパン” なのかも

しれない。(ああ、ダサい・・・。まぁ、いいか・・・)



2023年6月24日土曜日

「自尊心」という妄執



 昨日のブログを書き終えたあと、すごく気分がスッキリし

た。そして思った。「ああ、自分が望んでいたのは “自由” だ

ったんだな」と。


 “したいことができる” という「自由」ではなくて、特段何

をする必要も無いという、“囚われない” という意味での「自

由」が欲しかったらしい。


 《 何一つ支配しようとしない者が、最も自由な者だ 》


 そもそもこの世界に、支配する必要のあるものは、何一つ

存在していない。

 何かを支配しているものも存在しないし、支配されている

ものも存在しない。すべてはその時そのように在るだけ。そ

こに力関係や支配という見方を持ち込んで、さも、そういう

ものが存在しているかのように、わたしたちのアタマは思い

込む。けれどそれは妄想だ。


 現実として、独裁者が自分の都合の良いように民衆の行動

を制限したりすることはある。そして、それを「支配」と言

ったりする。その場合、行動を制限されているのは確かだけ

れど、それは「行動が制限されている」という事が起きてい

るだけで、そこに「支配」という概念を持ち込まなければ

「支配」ではない。


 土砂崩れで道がふさがれ、車が通れなくなったりすると

「行動を制限される」けれど、「土砂に支配されている」と

は言わない。そういう時には単に「そういうことが起きてい

る」と思うだけだ。わたしたちは、そこに「支配」の姿を見

ない。


 言うとおりにしないと殺される。だから言うとおりにす

る・・・。そういうことを「支配」と呼ぶ。

 山で熊を見かけて、殺されるかもしれないと思い、じっと

身をひそめている。それは「支配されている」と言わない。


 わたしたちは誰も、その時々の状況に合わせて判断し行動

しているだけのことだ。なのにそれを「支配」と呼ぶことが

あるのは、人というものが「自尊心」に異常かつ捻じれた価

値を見いだしているからだ。

 「自尊心」を強固にする為に他者を支配しようとし、「自

尊心」に圧迫を感じたら支配されていると感じる。人は「自

尊心」という妄想によって他人を苦しめ、自らも苦しむ。

「自尊心」ほど大事なものはないように思っている。「自尊

心」がこれまで自分に何をしてくれたか、周りに何をしてき

たかなど考えてみもせずに・・・。「自尊心」はそんなに良

いものか?


 「支配」は人のアタマの中だけにある。人は自分自身を支

配しようとし、周りを支配しようとし、過去と未来を支配し

ようとする。しかし、自分と周りと過去と未来を取り除いた

らそこに何が残るだろうか? そこに残る “自分” という奴は

何者か? 「自尊心」と言う時の、その “自分” はいったい何

か?


 何も無いのではなかろうか?

 周りばかりに目を向け、“自分” というものがあると思って

いる場所を振り返って見たことがないので、“自分” というも

のがあると思い込んでいるだけだろう。本当はそこに何も無

い。わたしたちは “自分” という妄想に振り回されている。そ

して、しなくていいことや、しないほうがいいことをし続け

る。「自尊心」の為に、無い “自分” を守り、生かそうとし

て・・・、アタマが悪い。


 わたしたちは「自尊心」という妄想に支配されている。

 アタマの中に “自分” というセルフイメージを持っている

が、それは世の中と関わるうちに、意識の中に立ちあがった

幻影だ。


 たとえば、一人のホームレスの男がいるとする。彼はいつ

もびくびくして生きているが、ある時、大富豪がたまたま彼

を見かけ、なぜか彼を気に入り養子に迎えることにした。

 広い家と良い服を与えられ、そばには召使いが寄り添い、

いつでも好きなだけ金を使うことができるようになった。す

るとたちまち、いつもびくびくしていた彼は消え去り、居丈

高で傲慢な人間になった・・・。


 “自分” というもの、セルフイメージは状況によって変わる

幻影だ。その幻影を守る為に人は怯え、他者に圧力を加え、

満足を知ることなく、疲れ、苦しむ。幻影が満足することな

どありえないからだ。


 “自分” という幻影を守ろうとする意識、それが「自尊心」

というものの正体。

 守るべきは、幻影ではない〈自分〉であるべきだろう。さ

て、それはどこに在るのか?

 (『私はどこに?』という話は先月書いたので、そちらを

どうぞ)



2023年6月23日金曜日

「支配」と「自由」



 前回は、書こうと思った事と全然違う方へ話が転がってし

まったので、あらためてこの言葉から始めましょう。


〈 より少なく所有する者は、より少なく支配される 〉
                      ニーチェ


 「所有する」ということは「関係を持つ」ということです

が、物であれ事であれ、何かと関係を持てばその分だけ自由

度が減りますから、その減った分だけ「支配される」とみな

すことができるので、ニーチェは上のような言葉を発したと

いうことでしょう。そこには、多く所有したがる者の愚かさ

と、所有することが決して幸福ではないということに気付か

ない人々を揶揄する狙いが有るのでしょう。

 「所有することで、それを自由にできる」、人は通常そう

考える。確かに一面ではそう言えるけれど、ことはそんなに

単純ではない。あらゆる事は、見方を変えれば別の面が浮か

び上がるものです。なのでこんなことも言えるでしょう。


 〈 支配する者は、「支配」に支配される 〉yamasho


 私はこういう表現は好きなんですけど分かりにくいでしょ

うね。

 ということで、こんな言葉も合わせて読んでもらえば、言

いたいことを分かってもらえるんじゃないでしょうか。


 〈 王は「王位」の僕(しもべ)となる 〉 yamasho


 最も分かりやすい例で言えば、「冷酷な独裁者は、権力を

失うと政敵に殺されると考えるので、権力を維持することに

命を費やすことになる」とかですね。自分が権力を使ってい

るのではなく、自分が権力に乗っ取られてしまうわけです。

当人はそうは思わないのでしょうけどね。

 企業の経営者なんかも大抵そうですね。事業に成功し、規

模が大きくなればなるほど、事業からさまざまな要求が出て

くることになり、それに応えなければならなくなります。自

分よりも経営者という肩書き(役割)の方が大きくなり、自

分ではなく「肩書き」を生きることになります。自分は「肩

書き」に使われる立場になるのです。けれど、当人はそんな

こと気付かない。

 気付いて、世のため人の為に、百も承知でその立場を背負

い続ける人も、中にはいることでしょう。そういう人は立派

だし尊敬しますけど、ごく稀ですね。


 エゴの要求に従って何かを得た者は、それに支配されてし

まう。度が過ぎれば自分の生を失うことになる。実際に命を

失うこともある。そのような目に合わないためには、こうい

う言葉が役に立つでしょう。


 〈「自分」を支配することさえあきらめた者は

        なにものにも支配されない 〉yamasho


 すべての「支配」をあきらめ、自ら何かを得ようとするの

をやめた時、そこには生身の自分がある。正味の自分に気付

く。


 世の中に揺さぶられ、惑わされることから、わたしたちは

逃れられない。けれど、そのような自分であることに抵抗せ

ず、追従せずに、時おり生身の自分に立ち返るのならば、そ

こに自由があることを感じられる。生きていることは、単純

で、軽くなる。

 ということで、今回の結論の言葉を。


〈 何一つ支配しようとしない者が、最も自由な者だ 〉
                
                      yamasho



 なかなか良くできたと思うけど、自分でそう思うだけかも

しれない。まぁどっちでもいい。ああ、自由だなぁ💚




2023年6月22日木曜日

断・捨離



 〈 より少なく所有する者は、より少なく支配される 〉

                       ニーチェ


 断捨離が流行るのは、「支配されている」という感覚を無

意識に感じている人が多いからかもしれない。金に支配さ

れ、仕事に支配され、人間関係に支配され・・・、要するに

社会に支配されていると。


 一つの物を捨てれば、それに付随する社会のしがらみか

ら、一つ分自由になれる。「しがらみ」というのは、その物

に関わる一つの物語。

 自分のアタマの中にあるその物語を、物ともども放棄する

ことで、心のスペースもその分だけ広くなる。

 一つ捨て、二つ捨て、さらにさらに捨てて行けば、心のス

ペースはどんどん広がって行く・・・という風には、残念な

がらならないだろう。


 心の中には、常に思考と感情と衝動が満ちていて、そこか

ら何かを取り除いても、すぐに別の思考や情動がその場所を

埋めてしまう。その心の働きを止めることはできないだろ

う。断捨離をすれば物質的なスペースはもちろん広がるけれ

ど、心のスペースを広げることはできない。けれど、同じ大

きさの風船とボーリングの球では、占める空間は同じでも重

さはまったく違う。その意味で、重たい物語や強硬な物語を

まとった物を捨て、軽い物語や柔らかな物語に関する物に取

り換えるのは、心の健康に良いだろう。


 と、そんなことを書いてはみるが、私は断捨離について詳

しく知らない。その手の本を読んだりしたことがないので、

なんとなく「こういうことだろう」と思っているだけです

が、現代人にとっては良いことだろうと思っている。その断

捨離に対する私の立ち位置を踏まえてもらった上で、今回の

タイトル『断・捨離』の解説を始めましょう。


 『断・捨離』。「捨離」を「断つ」という意味合いです。

「“捨て、離れる” という意識も断ってしまえばどうでしょう

か?」 と・・・。


 断捨離は心の健康に良い。それは間違いないと思う。けれ

ど「断捨離しよう」という意識は、断捨離が進まない場合に

自己嫌悪や焦燥感を生みかねない。断捨離に囚われてしまっ

ては、断捨離自体が重くなってしまう。なので「捨離」を

「断つ」。「捨離」にこだわってしまわないようにする。

「できればいいけど、できなくても、まぁいいじゃん」とい

うスタンスでいること(断捨離関係の本を読んだら、たぶん

そういうことも書いてあるような気がする。知らんけど)。

 人は手段と目的を取り違えることが得意なので、きっと、

世の中には「断捨離信仰」みたいな意識になっている人が結

構いるだろうね。そういう人は、物や、それにまつわる物語

を捨てながら、断捨離という義務を背負いこんでしまってい

るだろう。それじゃぁつまらない。


 捨てても捨てられなくても、それはそういう “なりゆき” が

現われているのであって、自分のせいではない。捨てる自分

を楽しみ、捨てられない自分を愛おしむ。

 執着からも、執着からの解放も意に介さない。そういう場

所が自分の中にあることに気付いていること。


 心のスペースを広げることはできない。けれど、普通意識

している心のスペースの外には、無限の意識の空間が広がっ

ている。それに気付けば、その瞬間、意識の中心はそこにあ

る。そこは何も無いので、なんの重さも圧迫も無い。たとえ

表面上の意識がどこかに閉じ込められ、何かに押しつぶされ

そうになっていても。


 断捨離は良いことだ。けれど、それにこだわって囚われて

しまえば、骨折り損だろう。

 アタマは物事を複雑にするのが大好きだ。おかげで人はい

らぬ苦労をする羽目になる。命というものは単純なものなの

にね。だって、基本的には生きてるだけなんだから。


 〈 より少なく所有する者は、より少なく支配される 〉とい

う言葉をちょっと作り変えてみようと思ってたんだけど、話

が長くなったので、この次に・・・




2023年6月17日土曜日

無完成



 「次回はスズメバチのお話しをしよう」などと前回の最後

に書いてしまったので、今回は行きがかり上、スズメバチの

話を始めよう。さて、どんな話になるのやら・・・。



左の写真が今回取ったスズメバ

チの巣。出て来たハチがオオス

ズメバチに見えたので、オオス

ズメバチの巣だと思ったけれ

ど、考えてみればオオスズメバ

チは地中に巣を作る。あらため

て調べると、形状と営巣場所か

ら、これはコガタスズメバチの

ものらしい。長さは15cm程度。

細い管状のところが入口で、

下向きになっている。雨やゴミが入

らないためにだろう。



こちらは中身を取り出したも

の。ハニカム構造の育房ができ

ていて、数個の卵が産みつけて

あった。「さあこれから」とい

う時に申し訳なかったね。







 スズメバチたちは、こういう見事な造形物を本能的に作り

上げる。このような自然の造形物を見るたびに「不思議だな

ぁ」と思い、畏敬の念さえ覚える。さらに、そのからだ自体

がまたよく出来てる。出来過ぎている。

 以前、家のそばでオオスズメバチの死骸を見つけたので、

持ち帰って虫眼鏡でしげしげと眺めたことがあったけど、一

言で言って「怪物」。強靭な外骨格、ニッパーのようなア

ゴ、デカい複眼に加えて、額のところに明るさを感知するた

めの三つの単眼があって、その面構えを引き立てている。そ

して長い毒針・・・、カッコイイ。見ていると、生物進化の

一つの完成形のように思えた。(オオスズメバチは世界最大

級で最強のハチと言われているけれど、もし体長が30cmも

あったとしたら、人間もエサにされてしまうだろう)


 とはいえ、実のところ生物の進化には完成形は無い。地球

環境は変化し続けるので、それに合わせて生物も変化し続け

る。生物自身が環境を変えてしまい、それによって自らも姿

や生態を変えることもある。生物は常に進化の途上にある。

わたしたち人間も例外じゃない。

 滅亡せずに生き延びられれば、いつの日か、わたしたち人

間も次の形態や生態へと変わる時が来る。その時には現生人

類は淘汰されて滅びるか、生息域を大きく狭めることだろ

う。本当の意味で “新人類” の時代が来る。その新人類が、現

代人の望むようなストーリーを具現化したものになるか? 私

は「違うだろうな」と思う。

 進化するのなら、人間はこの「悪さ」をするアタマを切り

捨てるだろう。こんなものを載っけたままで苦しみ続けるの

なら、それは進化と呼べないだろうと思うから。そして、新

たに身に付けた本能に従って、環境に適応してゆく存在にな

るだろう。スズメバチがそうしているように。

 それができなければ、人間はこのまま消え去るだけだろ

う。アタマが生み出し、動かす世界を、今以上拡張すること

はできないだろうと思うから。


 これまで何度も書いたけど、わたしたちの文化はもう行き

詰まっているというのが、私の見立てです。しかも、本来あ

るべき生き方とはズレた、無用な方向へ発展した末の行き詰

まりだから、いずれ破綻する。そして大きく縮小した文化の

中で、本来あるべき生き方への道を模索することになるだろ

う。ただ、それは「運が良ければ」ということだけど・・。


 いずれにせよ、アタマに惑わされ、右往左往して自ら苦し

んでいる現生人類はいずれはいなくなる。

 この世界に存在できている内に、いまのわたしたちなりの

「完成形」を経験しておきたいものだ。からだは変えられな

いけどね。






2023年6月12日月曜日

理解して



 いまパソコンを使ってる机の横には窓があって、外にはバ

ラが植えてある。一昨日、バラの手入れをしようと思って窓

を開けて外へ出たら、すぐ横の軒下に長さ15cmぐらいの

オオスズメバチの巣ができていた。まだ女王バチが一匹で巣

作りをしている状況らしかった。

 いくら普段スズメバチが目の前を飛んでも気にしない私と

はいえ、ここに巣を作られてはかなわない。アリ用殺虫剤を

取り出して(アリ用はハチにもよく効く)、巣の中にノズル

を差し込み「ブシュー」・・・。即座に大きな女王バチが出

て来て、飛んで行った。すぐに死んだだろう・・・。ゴメン

ヨ🙏


 私は花好きだけど、虫も好きだ。奴らは面白い。けれど、

今の日本では虫嫌いの方が多いだろう。虫嫌いというより、

虫が怖いという人が沢山いて、私の周りにも多い。なぜ彼ら

は虫が怖いのか?


 虫を怖がるのは、それが「理解できない」から。

 虫というものは、人間とは大きく形態が違い、その生き方

のロジック、手法も人間とはかけ離れているので理解しづら

い。その上、都市のような人工環境からは、虫のようなもの

は極力排除してあるので人々は虫になじみがなくなってい

る。なおさら理解のチャンスが無い。

 排除の対象は、排除すれば済む話なので、そんなものをわ

ざわざ理解しようという奇特な人は少ないから、虫を理解し

ていなくて虫が怖い人は、そのまま「虫が怖い、嫌い」であ

り続けている。けど、自分の生活圏に存在しているものは、

理解に努めた方がいいと思うけどね。嫌いなもの、怖いもの

が減った方が暮らしやすいだろうに。


 虫だけに限らず、人が何かを怖がるのはそれが「理解でき

ない」から。

 感染症もガンも有害物質も幽霊も異常な人間も、人がそう

いったものを怖がるのは「理解できない」から。最も怖がら

れてるのは「死」だけど、それは「死」が「最も理解できな

いもの」だから。


 人は「死」を理解していないけれど、「生」も理解してい

るとは言えない。それにも関わらず「生」を怖れる人がいな

いのは、いまその只中にあるので理解する必要を感じていな

いから。「理解なんかしなくても、実際生きているのだから

問題ない」と心のどこかで思っているのだろう・・・。けれ

ど、本当は誰もが「生」を怖れているのではないかと、私は

疑ってみる。なぜなら、人は暇を嫌がるから。


 わたしたちのアタマが常に “お話し” で満たされていて、わ

たしたちの生活が常に何らかの行為で繋がれているのは、“お

話し” と行為が止んで、意識が「生」と直面してしまうのを

避けるためだろう。

 「“生” なんてわけの分からないものは、怖いから無視しよ

う」

 わたしたちの深層心理は、そういう方針で活動するようア

タマに要請しているので、わたしたちは常に “お話し” の中で

ウロチョロし続けることになる。




 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ

行くのか」


 「生」に直面すると、そんな問いが立ち現れてしまう。そ

してその答えは誰も知らない。理解できる可能性は無い。わ

けが分からなくて怖い・・・。答えがわからないのでゴーギ

ャンは絵を描いてみたのだろう。自身の感覚に答えさせる道

を選んだのだ。


 わたしたちは誰も「生」の只中にある。只中にあるのでわ

ざわざ「生」を理解しようとする必要は無いというのが本当

だろう。けれど、わたしたちは只中にありながら「生」を怖

れるために、「生」を “お話し” で覆い隠してしまい「生」を

見ない。


 「生」は “お話し” ではない。

 “お話し” とは関係ない。

 「答え」という “お話し” も無い。

 “お話し” が止んだとき、「答え」を知ろうとする意識も絶

えたとき、自分が「答え」そのものになっている。それは

「理解」ではない。「理解」すべき対象はもう無い。「怖

れ」も「怖れの克服」も見失われている。「問い」も無い。


 「我々はここにいる 我々はどこにも行かない 我々は命

そのものである」


 ゴーギャンはキャンバスを脇へどけて、タヒチにとけ込む

べきだっただろう。



 話がとんでもない方へ転がってしまった。
 
 スズメバチの話だったのだ。世の中何が起こるか分からな

い。自分が何をするかも分からない・・・。次回は、私がス

ズメバチをどう理解しているかのお話しをしよう。