2023年6月12日月曜日

理解して



 いまパソコンを使ってる机の横には窓があって、外にはバ

ラが植えてある。一昨日、バラの手入れをしようと思って窓

を開けて外へ出たら、すぐ横の軒下に長さ15cmぐらいの

オオスズメバチの巣ができていた。まだ女王バチが一匹で巣

作りをしている状況らしかった。

 いくら普段スズメバチが目の前を飛んでも気にしない私と

はいえ、ここに巣を作られてはかなわない。アリ用殺虫剤を

取り出して(アリ用はハチにもよく効く)、巣の中にノズル

を差し込み「ブシュー」・・・。即座に大きな女王バチが出

て来て、飛んで行った。すぐに死んだだろう・・・。ゴメン

ヨ🙏


 私は花好きだけど、虫も好きだ。奴らは面白い。けれど、

今の日本では虫嫌いの方が多いだろう。虫嫌いというより、

虫が怖いという人が沢山いて、私の周りにも多い。なぜ彼ら

は虫が怖いのか?


 虫を怖がるのは、それが「理解できない」から。

 虫というものは、人間とは大きく形態が違い、その生き方

のロジック、手法も人間とはかけ離れているので理解しづら

い。その上、都市のような人工環境からは、虫のようなもの

は極力排除してあるので人々は虫になじみがなくなってい

る。なおさら理解のチャンスが無い。

 排除の対象は、排除すれば済む話なので、そんなものをわ

ざわざ理解しようという奇特な人は少ないから、虫を理解し

ていなくて虫が怖い人は、そのまま「虫が怖い、嫌い」であ

り続けている。けど、自分の生活圏に存在しているものは、

理解に努めた方がいいと思うけどね。嫌いなもの、怖いもの

が減った方が暮らしやすいだろうに。


 虫だけに限らず、人が何かを怖がるのはそれが「理解でき

ない」から。

 感染症もガンも有害物質も幽霊も異常な人間も、人がそう

いったものを怖がるのは「理解できない」から。最も怖がら

れてるのは「死」だけど、それは「死」が「最も理解できな

いもの」だから。


 人は「死」を理解していないけれど、「生」も理解してい

るとは言えない。それにも関わらず「生」を怖れる人がいな

いのは、いまその只中にあるので理解する必要を感じていな

いから。「理解なんかしなくても、実際生きているのだから

問題ない」と心のどこかで思っているのだろう・・・。けれ

ど、本当は誰もが「生」を怖れているのではないかと、私は

疑ってみる。なぜなら、人は暇を嫌がるから。


 わたしたちのアタマが常に “お話し” で満たされていて、わ

たしたちの生活が常に何らかの行為で繋がれているのは、“お

話し” と行為が止んで、意識が「生」と直面してしまうのを

避けるためだろう。

 「“生” なんてわけの分からないものは、怖いから無視しよ

う」

 わたしたちの深層心理は、そういう方針で活動するようア

タマに要請しているので、わたしたちは常に “お話し” の中で

ウロチョロし続けることになる。




 「我々はどこから来たのか 我々は何者か 我々はどこへ

行くのか」


 「生」に直面すると、そんな問いが立ち現れてしまう。そ

してその答えは誰も知らない。理解できる可能性は無い。わ

けが分からなくて怖い・・・。答えがわからないのでゴーギ

ャンは絵を描いてみたのだろう。自身の感覚に答えさせる道

を選んだのだ。


 わたしたちは誰も「生」の只中にある。只中にあるのでわ

ざわざ「生」を理解しようとする必要は無いというのが本当

だろう。けれど、わたしたちは只中にありながら「生」を怖

れるために、「生」を “お話し” で覆い隠してしまい「生」を

見ない。


 「生」は “お話し” ではない。

 “お話し” とは関係ない。

 「答え」という “お話し” も無い。

 “お話し” が止んだとき、「答え」を知ろうとする意識も絶

えたとき、自分が「答え」そのものになっている。それは

「理解」ではない。「理解」すべき対象はもう無い。「怖

れ」も「怖れの克服」も見失われている。「問い」も無い。


 「我々はここにいる 我々はどこにも行かない 我々は命

そのものである」


 ゴーギャンはキャンバスを脇へどけて、タヒチにとけ込む

べきだっただろう。



 話がとんでもない方へ転がってしまった。
 
 スズメバチの話だったのだ。世の中何が起こるか分からな

い。自分が何をするかも分からない・・・。次回は、私がス

ズメバチをどう理解しているかのお話しをしよう。



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