2023年6月24日土曜日

「自尊心」という妄執



 昨日のブログを書き終えたあと、すごく気分がスッキリし

た。そして思った。「ああ、自分が望んでいたのは “自由” だ

ったんだな」と。


 “したいことができる” という「自由」ではなくて、特段何

をする必要も無いという、“囚われない” という意味での「自

由」が欲しかったらしい。


 《 何一つ支配しようとしない者が、最も自由な者だ 》


 そもそもこの世界に、支配する必要のあるものは、何一つ

存在していない。

 何かを支配しているものも存在しないし、支配されている

ものも存在しない。すべてはその時そのように在るだけ。そ

こに力関係や支配という見方を持ち込んで、さも、そういう

ものが存在しているかのように、わたしたちのアタマは思い

込む。けれどそれは妄想だ。


 現実として、独裁者が自分の都合の良いように民衆の行動

を制限したりすることはある。そして、それを「支配」と言

ったりする。その場合、行動を制限されているのは確かだけ

れど、それは「行動が制限されている」という事が起きてい

るだけで、そこに「支配」という概念を持ち込まなければ

「支配」ではない。


 土砂崩れで道がふさがれ、車が通れなくなったりすると

「行動を制限される」けれど、「土砂に支配されている」と

は言わない。そういう時には単に「そういうことが起きてい

る」と思うだけだ。わたしたちは、そこに「支配」の姿を見

ない。


 言うとおりにしないと殺される。だから言うとおりにす

る・・・。そういうことを「支配」と呼ぶ。

 山で熊を見かけて、殺されるかもしれないと思い、じっと

身をひそめている。それは「支配されている」と言わない。


 わたしたちは誰も、その時々の状況に合わせて判断し行動

しているだけのことだ。なのにそれを「支配」と呼ぶことが

あるのは、人というものが「自尊心」に異常かつ捻じれた価

値を見いだしているからだ。

 「自尊心」を強固にする為に他者を支配しようとし、「自

尊心」に圧迫を感じたら支配されていると感じる。人は「自

尊心」という妄想によって他人を苦しめ、自らも苦しむ。

「自尊心」ほど大事なものはないように思っている。「自尊

心」がこれまで自分に何をしてくれたか、周りに何をしてき

たかなど考えてみもせずに・・・。「自尊心」はそんなに良

いものか?


 「支配」は人のアタマの中だけにある。人は自分自身を支

配しようとし、周りを支配しようとし、過去と未来を支配し

ようとする。しかし、自分と周りと過去と未来を取り除いた

らそこに何が残るだろうか? そこに残る “自分” という奴は

何者か? 「自尊心」と言う時の、その “自分” はいったい何

か?


 何も無いのではなかろうか?

 周りばかりに目を向け、“自分” というものがあると思って

いる場所を振り返って見たことがないので、“自分” というも

のがあると思い込んでいるだけだろう。本当はそこに何も無

い。わたしたちは “自分” という妄想に振り回されている。そ

して、しなくていいことや、しないほうがいいことをし続け

る。「自尊心」の為に、無い “自分” を守り、生かそうとし

て・・・、アタマが悪い。


 わたしたちは「自尊心」という妄想に支配されている。

 アタマの中に “自分” というセルフイメージを持っている

が、それは世の中と関わるうちに、意識の中に立ちあがった

幻影だ。


 たとえば、一人のホームレスの男がいるとする。彼はいつ

もびくびくして生きているが、ある時、大富豪がたまたま彼

を見かけ、なぜか彼を気に入り養子に迎えることにした。

 広い家と良い服を与えられ、そばには召使いが寄り添い、

いつでも好きなだけ金を使うことができるようになった。す

るとたちまち、いつもびくびくしていた彼は消え去り、居丈

高で傲慢な人間になった・・・。


 “自分” というもの、セルフイメージは状況によって変わる

幻影だ。その幻影を守る為に人は怯え、他者に圧力を加え、

満足を知ることなく、疲れ、苦しむ。幻影が満足することな

どありえないからだ。


 “自分” という幻影を守ろうとする意識、それが「自尊心」

というものの正体。

 守るべきは、幻影ではない〈自分〉であるべきだろう。さ

て、それはどこに在るのか?

 (『私はどこに?』という話は先月書いたので、そちらを

どうぞ)



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