2023年6月10日土曜日

災難ですか?


 梅雨に入り、明日も大雨になるところがあると天気予報で

言っていたけど、私の住む神戸というところは、南に四国山

地・紀伊山地が有り、北には兵庫県中北部の山地が有って、

北からの湿気も南からの湿気もそこで搾り取られて雨になっ

てしまうので、大雨が降ることは少ない。西から東へ瀬戸内

海を抜けるような線状降水帯でもできれば大雨になることが

あるだろうけど、そういうのは稀ですね。災害の少ないとこ

ろだと思うけれど、阪神淡路大震災でバランスを取られてし

まったという感じもする。誰も一生災難から逃れることはで

きない。


 災難となる出来事から逃れることはできないけれど、出来

事を災難にしてしまわないことはできる。災難はそれぞれの

人が自分で作るものだから。なので良寛さんは言った。

 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候、死ぬ時節には

死ぬがよく候、是はこれ災難を逃るる妙法にて候」


 災難というのは、要するに “自分の思惑を狂わされること” 

です。

 それが大きな自然の働きによるものならば災害と呼ばれた

りするけれど、ことの大小によらず、自然か人為かによら

ず、自分の思惑というものが無ければ、どのような出来事で

あれ、災難には成り得ない。どのような出来事も、それ自体

は単にひとつの出来事です。

 大雨が降る。低地に水が溜まる。地震が起きる。それらは

「そういうことが起きている」というだけ。本来のわたした

ちの人生を損なうものではない。


 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候」というのは、

例えば大雨で被害にあったとしても、「このたびは大雨の被

害に遭うというのが自分の人生なのだな」と受け止めればい

いということですね。自分で描いたシナリオではなく、運命

のシナリオに沿っていれば、自分の思惑(シナリオ)が狂わ

されることはないから。


 「思惑」というのは、文字通り「思いの惑い」ですけど、

私は「思枠」という字を充ててもいいんじゃないかと思う。

人間のすることも含めた、世界という大きなものの中にある

自分の人生に、自分勝手に枠をはめるから、人生の自由度を

損なって融通が利かなくなるし、枠という形があることは、

それが壊れることもあることを意味する。枠を作らなけれ

ば、壊れることも無い。


 「思惑」のせいで自分自身が生み出してしまう「思枠」と

いうものは、惑いから逃れて自分を安定させるために作った

「枠組み」「お話し」ですが、世界の在り方をちゃんと考慮

せず勝手に作ったものなので、すぐに世界と相容れなくなっ

たりする、壊れる。つまり災難です。「思枠」を作ることが

「災難」という意識を生んでしまう。


 「○○歳まで生きる」とか「健康でいなければ」とか決め

つけなければ、病気になろうといつ死のうと災難にはなりま

せん。

 「あ~そうかぁ。そう来るか。まいったなぁ。・・・でも

それならそれでしょうがないなぁ」程度のことになってしま

うでしょう。


 明日もまた大雨が降って、どこかで誰かが被害に遭って、

またテレビなんかが “気の毒な人” というイメージを強調する

のだろう。まぁ、大変なのは間違いないけど、人の運命を他

人が「災難だ」と決めつけるのは、下品なことだと思う。
 

 起こる前からこんなことを言うのは不作法なのだろう

ど、「それは災難ですか?」




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