2020年9月29日火曜日

しあわせは何処に?



  自殺する人は考える。自分の置かれたあまりにも苦しい状

況から、どうやって脱け出せばいいのか? どうすれば、この

状況を変えることができるのか? 考えに考え続けてそのあげ

くに答えは無い。

 変えることはできない。脱け出すこともできない。残され

た方法は自分がここから消えること・・・。だから、消え

る・・・。「死ぬ」しか生きる道は無い・・・。


 衝動的な自殺というものもあるらしい。そういう人は考え

なかったか?

 そういうことではないだろう。まわりからは一見つながり

が見えないだけで、当人は考えに考え続けていただろう。自

分で意識しているかどうかはともかく。


 考えなければ自殺することはないだろう。人間以外の生き

物が自殺しないのは考えないからだ。人も考えなければいい

のだが、残念ながら考えてしまうのが人間というものだ。

 考え過ぎの一つの極が、自殺というものだろうが、そもそ

も「考える」ということが諸悪の根源といえる。


 人は考える。どうしたらしあわせになれるか?

 しかし、どんなに考えてもしあわせにはなれない。しあわ

せは「考え」の外にある。「考え」から離れた時に人は初め

てしあわせになる。「考え」の外にはしあわせが満ちてい

る。けれど、「考え」はそれを知らない。「考え」は「考

え」の外にあるものに考えが及ばない。「考え」を介さず

に、ダイレクトに意識に繋がることが在ることなど分からな

い。

 「考え」には “実感” というものが分からない。

 「考え」に覆われてしまった意識は世界の実感を失う。命

の実感を失う。もちろんそこにはしあわせなど無い。しあわ

せとは世界を実感し、命の実感の中に在ることだからだ(ち

なみに「考え」の外では〈世界〉と〈命〉は同じものだ)。


 出来得るなら、人は「考え」の外に出る方がいい。それが

難しくても、“「考え」の外” というものがあることを意識し

ている方がいい。それだけでも「考え」から少し外れること

はできるから。


 人は考えるほどに不幸になる。

 「考えること」に唯一救いがあるとすれば、「考えない方

がしあわせなのだ」と考えることができることだけだろう。


 一つ付け加えておこう。「考え」によって取りまとめられ

ている「人生」というものの中にもしあわせは無い。しあわ

せは「人生」の外にある。

 「人生」はオマケだからね。



2020年9月27日日曜日

今日、自殺した人は何人だろうか?



  前回、今年八月の自殺者数を知ったことからブログを書い

たけど、昨日、女優の竹内結子さんが自殺したらしいという

ことを知って、また自殺について書こうとしている。

 彼女のニュースを見ると、それに関連して『いのちの電

話』などの情報が添えられている。この前の三浦春馬くんの

件でもそうだったが、有名人の自殺に刺激されて、自らも命

を絶つ人が出てくることを心配してのことだ。それはそれで

良いことだと思うし、ある程度の実効性も有ると思う。その

ような、自殺を防ぐ手立てを尽くすことは、すべきことだと

思う。けれど、どれだけ手を尽くしても、自殺を無くすこと

はできないだろう。自殺は、人の死因としてはポピュラーな

もののひとつだから、無くすことは無理だ。ただ、現代の日

本の自殺者は多すぎるのではないか? 世の中の価値観が大き

く変われば半分ぐらいには減るものだろうと思うが、現在の

自殺率を半分程度にすることができれば上出来なんだろうと

いう気がする。


 現代人を自殺へと追いやる理由の最大のものは、「理想」

とか「成功」という観念の “縛り” だろう。


 「理想」を持つということは、「現状」を否定すること

だ。

 その「理想」を実現するということが「成功」であって、

「理想」を持ち「現状」を否定した限りは、人は「成功」し

なければならない。もし「成功」しなければ、「現状否定」

がいつまでも続くことになる。「現状否定」、つまり「現状

の自分」を否定し続けることになる。そのようなことが長く

続けば、人は耐えられないだろう。そして、「否定された自

分と自分の世界」を否定するための手段として、自殺する。

「否定された自分と自分の世界」から解放される為に・・。


 多くの人は、「理想」から外れた自分から意識をそらすた

めに何かに依存する。

 アルコール、薬物、食べること、ギャンブル、ゲーム、S

EX、我が子、仕事、なんらかの思想、宗教・・・、その他

もろもろ・・・。それらは「緩慢な自殺」ではないだろう

か? あるいは「生きながら死んでいる」のではないだろう

か?



 人間の本来性からすれば根拠などない基準をいつのまにか

刷り込まれ、それに則した「理想」で知らず知らずのうちに

自分をがんじがらめにして、「生きる」ということの許容範

囲がとても狭くなってしまっている・・・。

 自殺する人は日本では年間2~3万人だが、何かに依存す

ることでなんとか生きている人は、日本人の9割以上ではな

いのだろうかという気がする(ほとんどの国でそうだろう

とは思うけどね)。その中で、自分をごまかしきれない人が

殺するのだろう。


 この世の中が、何かに依存して現実をやり過ごさなければ

ならないとか、自ら命を絶たなければならないというような

人を多く生み出す(というか、ほとんどの人がそうなんだろ

うと思うけど)のは、わたしたちの意識が、「理想」と「成

功」などという “まやかし” に汚染されてしまっているからだ

ろう。


 「人ではない “何か” 」が、人を “人ではない「何か」” に

変えようとして、人の本来の在り方を否定して、不安にし、

惑わせ、狂わせ、追い詰める・・・。


 今日、自殺した人は何人だろうか?


 人は「何か」にならなくてもいいのだが・・・。

 「何か」に追い詰められてしまっている人を思う。

  相変わらず「何か」に追われている自分自身を戒めなが

ら・・・。


**************************


 書き終えてしばらくして、「自分は竹内さんの自殺を、単

にブログを書くためのネタにしたのではなかろうか」という

思いが湧いてきた。

 どうも、今回はそういう気分が少し入っていたような気が

するのだ。


 わたしたちは、そういう自己欺瞞が得意だ。

 思いやりを表してるように装いながら、その実、他人の苦

しみを自らの自己肯定のネタにする。「自分はこんなに思い

やりがあり、人の苦しみ悲しみを理解するものの分かった人

間なのだ」と。

 そういった無神経さとズルさが知らず知らずのうちに他人

を追い詰め、気付かぬうちに自己嫌悪というかたちで自分自

身も追い詰める。


 わたしたちは、自分自身の「不完全さ」「弱さ」「悪さ」

などを意識していなくてはならないのだろう。克服すべきこ

ととしてではなく、当然のこととして受け入れて・・・。

 他人も自分自身も追い詰めないために。


 しかし、いつもながら自殺した人に掛ける言葉など無い。

 ただ、黙って、少しばかりの悲しさや怖れを感じてみるば

かり・・・。ほんの少しは、それを分け持てるだろうか。同

じ「命」として・・・。





2020年9月24日木曜日

自殺者1849人  コロナ ㉕



  8月の自殺者が1849人だったそうだ。同月前年比で240人

増で、15%増えたということになる。コロナ騒動の影響だろ

うな。

 仮に、この増加分の240人がコロナの影響だと考えた場

合、3月から7月までにも、ある程度の人数がコロナの影響

で自殺しているだろうから、これまでのコロナの影響による

自殺者は7~800人位になっているのではないか?さらに

今後、8月と同じように自殺者が増えた場合、コロナそのも

のの死者とされるのが現在1500人位だから、この年末にはコ

ロナの死亡者数を、コロナの影響による自殺者数が上回って

しまうのではないか? 当初から案じていたことが、じわじわ

と現実になってきたようだ。ほんとうに、こんなバカ騒ぎは

もうやめにしないと・・・。


 今日も夕方のニュースで「コロナウイルスで、80~90代の

患者が4名亡くなりました」と言う・・・。単に寿命でしょ

うが。

 日本の平均寿命は84歳ですよ。普通に人が死んでゆくこ

とを異常な事の様に騒ぎ立てて、社会を混乱させ、実際のコ

ロナの死者(本当にコロナで人が死んでいるのかどうかしら

ないが)より、自殺者の方が多くなりそうだなんて・・・、

あまりにもふざけた話だ。


 人が年をとって病気になって死んでゆく。それは当たり前

で自然な事だから、私はそれを受け入れる。

 人が人生に苦しんで自殺する。それもよくあることで、当

たり前かもしれないが、自然な事ではない。ましてや、今回

のように、人間のエゴの暴走による社会の圧力によって追い

詰められて人が自殺するなんていうことは、私は受け入れら

れない。こういうことは、あるべきではない。もういい加減

にしろ。アタマが悪い。悪過ぎる。


 240人の人を死に追い込んだのは、異常に「安心安全」

求める現代人のアタマなのだ。

 『安心安全原理主義』は、とうとう明らかな犠牲者を生ん

だ。「安心安全」という言葉に対する私の嫌悪感は、これか

ら一層強くなるのだろう・・・。やりきれないね。



 (そもそも、ひと月でこれまでのコロナの死者1500人

を越える1849人の自殺者を生むこの社会の方が、コロナ

より危険だ。「安心安全」を言うなら、社会の標榜する「正

しさ」を改める方がはるかに有益だろうよ)




2020年9月16日水曜日

「ニート最強」。

 

 何日か前、前から歩いて来た二十歳ぐらいの女の子のTシャ

ツに、「ニート最強」と書いてあった。

 何が「最強」なのか知らないけれど、私は “ニンマリ” と笑

った。常識的な価値観に挑戦することは、そのことだけでも

価値がある。そこから、それまでとは違う世界が顔をのぞか

せるからね。


 で、せっかくだからニートが「最強」かどうか考えてみ

る。


 答え。「最強」ではない。


 ニートがニートとしてあることで価値が生まれるとした

ら、それは「強い」「弱い」という比較から、“外れてみせ

る” ことによる。

 「『強い・弱い』から外れたところにも、さしあたり人生

は可能だ」と。


 たとえ、「そんな人生いつまでも続けられね~じゃね~

か」などと言われたとしても、ひるんではいけない。「あん

たの人生だって、想定通り行くかどうか分かったもんじゃな

いし、いつまで続くかも分かんないだろ」ぐらいは言ってみ

よう。


 「強い」も「弱い」も「良い」も「悪い」も、ある価値基

準が前提になければ成り立たない。そこから外れれば、「強

い」からも「弱い」からも「良い」からも「悪い」からも影

響を受けることは無い。ニートにはその可能性が高い。うま

くニートをやれば、「最強」ではなく、「無敵」になれるだ

ろう。


 「無敵」という言葉は、一般的には「最強」と同じように

使われるけれど、字面からそのまま解釈すれば、「敵が無

い」ということだから、「強い」ということとは違う。


 近年、日本では鹿が増えて農業被害などを出しているけれ

ど、あれはニホンオオカミがいなくなったことに端を発して

いるのだろう。鹿が「無敵」になったのだ。

 仮に日本がまたユーラシア大陸と地続きになれば、虎など

の肉食獣と対峙することになって、「無敵」ではなくなって

しまう。現在の鹿の「無敵」は日本が島であるということで

成立している。(人間という敵は、今のところおとなしい)


 それと同じように、ニートは家庭という島の中にいる限り

「無敵」でいられる(家族が敵になってるかもしれないけど

ね)。だからこう言いかえるべきだろう。


 「ニート無敵」
 

 「それって、ただ安全地帯に逃げ込んでるだけでしょう」

 そう思われるかもしれないが・・、その通りです。社会と

いう危険な場所へ出ないようにして身を守っているんです

ね。だからこう言うべきなのでしょう。


 「ニート無敵。そして最弱」


 あらら、ニートが「最弱」になってしまいましたね。


 こういう展開になると、私がニートをバカにしてからかっ

ているように思うかもしれませんが、決してそうではありま

せん。もう少しすれば真相があきらかになると思うので、辛

抱してください。


 ニートは社会の中では「最弱」なのです。だから、社会に

出られない。でもそれは、“社会の価値観” の中で「最弱」で

あるだけのことです。

 “価値観” というものは、ひとつではない。ひとつではない

というよりも、無数にある。その無数の価値観の中のほんの

ひとつかふたつの価値観を、社会が個人に押し付けてくるの

で、その価値観においては「最弱」の存在である人は、社会

からの価値観の圧力に抗えずに、外に押し出されてしまう。

それがニートになる(引きこもりもね。そう、自殺もね)。

 けれど、先に書いたようにそれは “社会の価値観” の中での

「最弱」なので、ちがう場所、局面ではまったく違う可能性

がある。

 「ニートそこそこ」かもしれないし、「ニートなかなか」

かもしれない。社会から離れてしまって、価値基準の違うと

ころに立てば、それこそ「最強」にもなれるだろう。


 などと言うと、「自分の力を発揮できる場所を見つけまし

ょう」みたいな話になってしまうのだけど、それでは芸がな

いね。やっぱり、私的には「ニート無敵」の線で行きたい。


 「“価値観” というものは無数にある」

 なぜ無数にあるかというと、絶対的な価値というものが存

在しないから。

 絶対的な価値が存在しないからこそ、それぞれが、よすが

としてそれぞれの事情に合わせて価値を設定するので、無数

の “価値観” が世の中に生み出されることになる。そういった

事情だから、それぞれの “価値観” はそれぞれの中で完結させ

ておかなければならない。それを他人に認めさせようとか、

押し付けようとかすることから、敵対関係が生まれてしま

い、世の中がゴタゴタする。

 自分の “価値観” に自分で満足し、他人の承認とか理解を必

要としなければ、それは「無敵」ということだろう。


 ニートであっても、社会との関係が悪いことに対して問題

意識が無いのなら、そのニートは「無敵」だといえる。た

だ、残念ながら、そのようなニートはほとんど存在しては居

ないだろうと思う。なぜなら、「社会との関係が悪いことに

対して問題意識が無い」のなら、社会に出て行くことは苦に

ならないはずだから。

 そのような人は平気でニートもできるし、平気で社会の中

にも入ることができる。ニートでいるしかないということは

ないので、ちょっとしたキッカケがあれば、すんなりと社会

に入り込むだろう。

 ニートでいようと、社会にいようと、大した違いは無いと

いう人は「無敵」だ。周りのどんな “価値観” も、彼を揺るが

さない。


 ニートは、社会の “価値観” によって社会から押し出されて

せっかくニートになったんだから、“社会の価値観” の外で、

“価値観” というものの「無価値性」をしっかりとハートに刻

み込んで「無敵」になって欲しいものだ。

 ニートは「最弱」だが、それゆえに、とてもとても「無

敵」に近いところにいるのだ。



2020年9月11日金曜日

『安心安全原理主義』が蔓延する



 この前のブログで「うるせー、バカ」と書いた。わたしは

そもそも育ちが悪いので、それぐらいのことは日常的に思

う。けれども、このブログの中では、これまでそういう言葉

を使ったことは無い。イヤミや皮肉はしょっちゅうだけど。

 なのになぜ、前回そういう言葉を使ったのだろうか? なに

がそれほど不愉快なのだろうか?

 それを考えていると、昔のCMを思い出した。


 もうずいぶん昔のCMだ。西田敏行の出ていた住居用洗剤

のCMだったと思う。

 西田敏行がリビングでテレビを見て笑っていると、となり

の部屋から妻が催促する。

 「あなた、○○の掃除はしてくれたの!」

 その言葉に西田がむくれながらこう言う。

 「いま、やろうと思ってたのに言うんだものなあ~😞」


 誰にでも憶えがあるだろう。

 本当に真剣に思っていたわけではなくとも、心のどこかに

留め置いていることを、先回りして他人から催促されると、

なんだか、“ものを考えていないバカ” のように扱われた気が

してハラが立ってしまうのだ。


 「命を守る行動をとって下さい」などと、たかがテレビに

言われると、私はそれに似た不快感を覚えてしまうようだ。

「そんなこと、言われなくてもわかってる。おまえは何様の

つもりだ」という具合で。


 だれの言葉かは忘れたけど、こんな言葉がある。

 《場違いの善行は悪行である》

 場違いのこともあれば、タイミングの違いもあるだろう

が、「命を守る行動をとって下さい!」という言葉の裏に

は、「命より大切なものがあるか? こう言うことに何の問題

がある?」というような傲慢さなり思考停止なりが窺がえる

(それはアンタの被害妄想だよと言われるだろうなぁ)。そ

して、私の中のどこかにある “受けて側の放送コード” に引っ

かかるのだ。「こういう言葉はテレビが使うものではない」

と。


 台風が来ると、「海へは絶対に近付かないで下さい」とか

テレビが言う。それを聞くと、なにやらムカムカとハラが立

ってしまう。「うるせーなぁ・・・」。


 レイチェル カーソンの『センス オブ ワンダー』の中に、

子供と嵐の海を見に行く話がある(あったと思う)が、カー

ソンはその時のことを「素晴らしい体験だった」と綴る。

 人智を遥かに越える自然の力とその姿を目の当たりにし

て、畏怖と共に、生きている実感とでもいうようなことを感

じたのだと思われる。「嵐の海ぐらい見に行かせろよ」と私

は思う。どこまでなら大丈夫かは、こちらが考える。

 「安心安全」が何より大事なら、富士山や日本アルプスに

登ったりするのは危険この上ないので、止めるように呼びか

けたらどうか?


 「登山と災害は違う」?


 確かに、災害とレクリエーションを一緒にするのは間違い

かもしれない。けれど、「安心安全」という “価値観のひと

つ” に人を押し込めておこうとすることは、嵐の海に感動す

るような、人としての大きな喜びを剥ぎ取ることではない

か?


 「『安心安全』と言っておけば文句はないだろう」という

思考停止と傲慢さの裏で、かけがえのない人の喜びと安ら

ぎ、“生きていることそのもの” の感動なんかが失われてい

る。私はそう感じる。私はね。私だけでもないはずだけど

ね。




 

2020年9月9日水曜日

命を守る行動を・・・、で、その後は?



 台風10号は、予想の様には発達せず、まぁ普通の台風と

して通過していった。海水表面温からすると意外な展開だっ

たので、気象庁は悩んでいるだろう。もっと考えようね。


 台風が迫って来たりすると、テレビが「命を守る行動

を・・・」と、やたらに言う。こんな風になったのはいつ頃

からだろう。ごく最近のように思う。せいぜい五年ほど前か

らだろうな。


 「命を守る行動を・・・」

 で、守った命で何をするのだろう?

 “命を守る行動のとり方” を考えるのだろうな。しかし、

生きることって「命を守ること」なの?


 命を守る為に生きて、生きる為に命を守って、守った命を

守る為に生きて、守った命を守る為に生きる為に命を守っ

て・・・・。


 生きるってそういうことなの? でも、どんなにがんばっ

てもいずれは命は終わるんだけどね。命を守ることが生きる

目的なら、最後にはみんな挫折し、敗北するんだけどね。


 「命はどうでもいい」なんて言ってるんじゃない。

 命を大切にするのは、生きているものとしてのたしなみ

だ。生きていることに対する “誠意” と言ってもいい。で

も、「命を守る行動を・・・」という言葉を吐かせるのは、

薄っぺらなヒューマニズムではないだろうか?


 命は「生かすもの」ではなく、「活かす」ものではないだ

ろうか?

 命は「守るもの」ではなく、「尽くすもの」ではないだろ

うか?


 「命を守らなくていい」なんて言ってるんじゃない。

 けれど、「命を守ること」が目的になってしまっては、

“命” に嘲笑われるだろう。「何のために生きてるんだよ」

と。


 誰も、生きている目的なり理由なりを知らない。けれど、

生きているのなら、ひとかけらでも、一瞬でも、この世界に

美しいもの、喜ばしいもの、楽しいものを生みだすように努

めることが、生きる醍醐味のようなものではないか?

 命はその為に、「活かし」「尽くす」ものではないか?


 「とにかく命を守って、とにかく死なないようにする」な

んていうのは、なんだか通帳の数字が減らないようにだけ考

えて生活しているようで、ケチ臭い話だと思う。

 「守銭奴」という言葉があるけど、それと本質的には同じ

だろう。「守命奴」だね(語感がよくないけど)。


 繰り返して言うけど、「命はどうでもいい」とか「命を守

らなくていい」なんて言ってるわけじゃない。「命を大切に

すること」「命を守ること」は、単に「死なないようにす

る」ことではないだろう。

 「生きること」が、単に「死なないようにすること」だな

んて、そんなの “命” に対する冒涜だろう。


 台風のニュースを見る。

 キャスターが「命を守る行動をとって下さい!」と、くど

ど言う。

 私は心の中で毒づく。


 「うるせー、バカ」


 人の生き死にに、一般論や公式見解を持ち込むんじゃねー

よ。

 みんなそれぞれにそれぞれなりの命なんだから。



2020年9月5日土曜日

共に死ねる社会を。コロナ ㉔



 このタイトルを見る限り、「なにか、あざといことを考え

てる」と思われるかもしれないけど、・・・まぁ、そうかも

ね。


 それはさておき、「共に生きる」という言葉は、公の場で

結構使われる言葉だろう。

 弱い立場の人たちや違う宗教の人たちなど、多様な人々が

共に生きられる社会を目指すといったことや、生物の多様性

を守るというような話にからめて、この言葉はよく使われる

ように思う。


 それはそれでいい。そういう考えに私も賛成だ。ただし、

条件が有る。「共に生きる」ということの中に、「共に死ね

る」ということを含んでいなければならないのではないかと

思うのだ。ところが、「共に生きる」という言葉には、普

通、「共に死ねる」ということは含まれていない。


 「共に死ねる」などと言うと、戦争で、戦友と、お国の為

に「共に死ねる」というようなことや、あるいは心中のよう

なことと思われるかもしれないけれど、そういうことではな

い。

 普通に生きている中で、それぞれが、それぞれの死を、

「共に受け入れる」という覚悟なり受容なりを持って生きる

というような意味です。

 人と人とが「生かし合う」だけでは、その社会は命の半分

の面を失ってしまう。

 人と人とが「死なせ合う」ことが出来てこそ、それぞれの

命は満たされると思うのです。(「殺し合う」んじゃない

よ)


 わたしたちのアタマの暴走の根本の原因は、死を忌み嫌い

恐れることにあると考えて差し支えないと思う。

 もちろん、すべての生物は死を避けようとする。けれど、

人間以外の生物が死を避けるのは具体的なものであって、そ

こには抽象性はないだろう。

 過去の「死」も、未来の「死」も、人間以外の生物を脅か

すことは無い。人間以外の生物が恐れるのは、いまこの時

に、自身に起ころうとしている「死」だけだろうし、その

「死」をもたらすのが、捕食者やなんらかの事故のようなも

のの場合だけであって、病気による「死」を恐れることはな

いだろうと思う。


 人のアタマの中で、「抽象的な死」が「具体的な死」を覆

い隠して、人は穏当に死ぬことができなくなっている。

 「生きているものは死ぬ」という当たり前の事が、極限ま

で異常な事になってしまったのが、現代というものだろう。


 昭和の前半は「人生50年」だったが、この頃は「人生

100年」などと言っている。その差の「50年」はいったい

何か? そして、その差に価値はあるか?


 単に、人生の濃さが半分に薄まっただけではないのか?

 そもそも 50年だろうが100年だろうが、年数を人生の価

値の目安にするような感覚は妥当なものだろうか?
 

 生きとし生けるものには必ず死が訪れる。

 その当たり前のことを「当たり前だ」と言ってはいけない

世の中になってしまった。「当たり前」が当たり前でなくな

った世の中は、当然、異常な世の中だ。もちろん、時代と共

に世の中の「当たり前」は変わる。けれど、“生きとしける

もの” すべてにとっての「当たり前」が、人にとって当たり

前でなくなったのであれば、人はもう “生きとし生けるも

の” から外れてしまったのだろう。日本や他の先進国に暮ら

す大多数の人間は、もう「生きていない」のだろう。


 世界中でうごめいている人間たち・・・、それはいったい

何なんだろう?

 「死」を完全な「悪」とする価値観に立って生きるなら

ば、「死」をまったく受け入れないのならば、人は「命」か

らはぐれてしまうだろう。たとえ何百年生きることができよ

うと・・・。




2020年9月4日金曜日

電気をよこせ~・・・・



 昨夜、インターネットの電力消費量はどれぐらいなんだろ

うかと思って検索したら、こんなレポートを目にした。


   情報化社会の進展に伴って、従来の予想を超える膨大

なデータが取り扱われるようになり、こ の傾向は今後も拡

大すると考えられる。これに伴い、エネルギー消費がどのよ

うな影響を受ける かを 2050 年までを視野に入れ、調査、

ヒアリングなどにより検討した。その結果、世界の情報量 

(IP トラフィック)は 2030 年には現在の 30 倍以上、

2050 年には 4,000 倍に達すると予想され、 現在の技術の

まま、まったく省エネルギー対策がなされないと仮定する

と、情報関連だけで 2030 年には年間 42PWh、2050 年

には 5,000PWh と、現在の世界の消費電力の約 24PWh 

を大きく上回 る予測となった。すなわち、技術進歩がなけ

れば情報関連だけで世界の全てのエネルギーを消費 しても

まだ不足するという事態になりうる。   


 「情報化社会の進展がエネルギー消費に与える影響

(Vol.1)」 平成 31 年 3 月

  国立研究開発法人科学技術振興機構(JST) 低炭素社会

戦略センター

 (「PWh」というのは「ペタワットアワー」で、「P」

は 「1000兆」ということのようだ)



 計算してみると、2019年の時点で、消費電力の 6%を情

報関連が占めていることになるのだが、この予測なら、

2030年にはそれが 180%になる。10 年後には世界の電力

生産を 2 倍にしなければ情報処理できないということになる

が、当然ながら、10 年で世界の発電量を 2 倍にすることな

どできるはずがない。それ以前に、対数的に考えると2025

年頃には、情報関連の消費電力が現在の全消費電力と同等に

る。これは、今後5年以内に、情報関連の進展が頭打ちに

ることを意味する。


 物理学の常識をひっくり返すようなブレークスルーが、情

報処理か発電技術の面で起こらない限り、情報化社会は行き

詰まることになる。

 仮に発電技術のブレイクスルーが起きて、情報システムが

順調に発展したとしても、発電された電気のほとんどは、最

終的には熱となって環境中に放たれることになる。2030年

には現在の 2 倍。2050年には200倍の熱が・・・。地球は

熱くなるだろう。CO2を抑制したって、とてもじゃないが

間に合わないだろうね。


 そうなると、電力消費を桁違いに抑えられる情報処理技術

のブレイクスルーが必須となるけれど、可能なんだろうか?

 このごろ話題の「5G」というものがどういうものか私に

は分からないが、このレポートは2019年のものなので、当

然ながら「5G」も踏まえた上でのものだろうと思う。たぶ

ん「5G」は情報処理のエネルギーコストを下げるファクタ

ーではなく、上げる方なのだろうね。

 ということで、「AIとロボットが人にとって代わる」こ

とや、「さまざまな事を予測・統御して、安心安全な社会を

作り上げる」なんて夢は、5年後にはしぼんでしまうことに

なりそうだ。


 インターネットが普及し始めた頃、「人や物が動かずに、

情報だけを動かすことが増えれば、省エネルギーになって良

さそうだ」などと私も考えたのだが、「情報」というもの

は、とんでもなくエネルギーを喰う “化け物” だったのだと

いうことがあきらかになってしまった。そして、このパソコ

ンの後ろで、あなたのスマホの陰で、「情報」という “化け

物” が呟き続けているのだ。

 「電気をよこせ・・・、電気をよこせ~・・・・」


 ・・・・世界はもうすでに、「情報」という “化け物” に

覆いつくされ、人類はその “化け物" にエネルギーを提供す

るために活動しているというのが、今日只今の現状らし

い・・・。


 いつの世も “化け物” を創り出すのはわたしたちのアタマ

だが、今度の “化け物” は世界規模だ。そして求めるエネル

ギーを得られなくなった「情報」は、人間そのもののエネル

ギーを内側から吸い取り始めているようだ・・・。


 「電気をよこせ~・・・、命をよこせ~・・・・」


 (計算を少し間違えていたので、訂正しました。

  2020/10/17)