2021年10月31日日曜日

時代は代わっても・・・



  今日、須磨海岸へ行った。阪神間唯一の海水浴場で、私の

子供の頃からの遊び場でもある。昔は簡単な道具で釣りをし

て、砂浜の流木で焚火をして魚を焼いて食べたりしていた

が、今は「焚火禁止」で、お上品な場所になっている。もち

ろん、行けば気分はイイけどね。


 たまたま、今日は神戸の農産物や小さな飲食店をアピール

するイベントをやっていて、まぁまぁ人が来ていた。

 そこを歩きながら、イベント関係者やお客さんを見ている

と、「ああ、もう時代が変わったんだな。自分は昭和の人間

だな・・」と思った。


 そこに集うのは主に20~30代の人たちで、服装などから 

“意識高い系” の人たちのように見えた。泥臭くない。ドメス

ティックな感じが薄い。オーガニックな感じのお洒落をして

いて、私にとってはとっつきにくい感じがたのだった。


 「自分は間違いなく、古い部類の人間になったのだ」

 そう思い、少しショックを受けた
 

 《 すべての存在は時代に殉じる 》とは以前に書いた。当然

ながら私もそれから自由ではない。これまで生きて来た時代

に縛られている。新しい時代に、自分のすべてで関わること

はできない。私はそれを認める。ショックではあるけれど。


 今日見かけた若い人たちも、30年後には同じ思いをする

ことだろう。

 今日生まれた子供たちも、60年後には同じ思いをするだ

ろう。

 そうして、時代から取り残される時に役に立つのは、時代

に関係ない、人間と世界の本質を知っていることだろう。


 すべての存在が、時代とも場所とも関係ない普遍性を、そ

の内に持っている。

 すべての存在が、時代とも場所とも関係ない普遍性の内

に、存在している。


 時代に取り残されようが、時代から外れようが、世の中か

らはぐれようが、のけ者にされようが、私たちはそれよりも

はるかに大きく、本質的なものによって存在させられてい

る。  

 たとえ今、時代に殺されても、自分がそれに存在させられ

たということは否定できない。

 時代に殉じるしかなくても、自分が存在している、存在し

た、ということ否定できない。


 《 すべての存在は時代に殉じる 》

 それと同時に

 《 すべての存在は時代が生み出す 》


 自分を生かしている本質に気付いた時、人の意識は時代の

手の中に在りながらも、時代を越える。


 時代に対して、こうウソぶいてもいい。


 わたしを生みださずにいられたか?

 わたしを死なせずにいられるか?

 時代自身も、時代には逆らえない。

 時代も、時代に殉ずるのである。


 口から出まかせですごい事に気付いてしまった・・・。

 これも時代の為せる業。





2021年10月30日土曜日

命を守るのだそうだ


 今日のニュースで、「アメリカでは5歳以上の子供にもコ

ロナワクチンを接種して行く方針である」と伝えていた。子

供・若い世代の重症化リスクはほとんど無いに等しいのに、

なんたることかと思う。アタマがおかしいと思うが、まぁそ

もそもアタマはおかしいものだから驚いていてはいけないの

かもしれない。


 「命を守る!」と言うけど、守ろうとしているのは、実の

ところ “エゴの命” だろう。感染症という自然の成り行きをコ

ントロールして、自分の思い通りにしたいのだ。(コントロ

ールしようとすること自体が、影響を受けてしまっていると

いうことなんだけどね)


 人の命というものも、当然ながら自然から生みだされたも

のだから、自然の成り行きの中にあるものだ。けれど、歴史

を見ても、人は「自然から自由になって思い通りにしたい」

と考え続け、活動し続けて来たのだと分かる。文化の半分以

上はそれによって作られてきたと言っていいだろう。けれど

「自然から自由になる」ことは、自然から乖離することを意

味する。はたしてそれで満足できるのだろうか?


 アタマは世界の事を完全に分かっていない。分かっていな

いどころか、考えるほどに世界は細分化され、収拾がつかな

くなっている。現代人は自ら複雑にしてしまった世界の中で

混乱してしまい、苦し紛れにそれぞれが自分の都合の中で自

己暗示にかかっている模様だ。でも、アタマは自分は分かっ

ていると考える。自分がバカだということさえ分からないの

にだ。


 「分かる」という日本語が示すように、「分かる」とは

「分ける」ことだ。アタマが世界を分けてしまうので、世界

を分かろうとする度に、意識の対象が増えて行く。元々は一

つで “全なるもの” である世界はどんどんバラバラになってゆ

く。それが便宜上のものだと気付いていればいいのだが、

けてしまってるだけなのに、分かった気になっている。大抵

は余計な面倒を増やしているだけなのに・・・。


 世界を分けて、自分の都合に合わせて繋ぎ変えて、それで

上手く行くつもりなのだろうが、これまでどれほど大きな過

ちを繰り返して来た事か。

 「今回は上手く行く・・」

 いつもそう思うのかもしれないが、私はそんなこと信用し

ない。アタマは悪さをするのだ。今回のニュースなどは合理

性も何も有ったもんじゃない。私の悪いアタマでさえ呆れて

いる。


 不必要なのが明確な注射をされることになるであろうアメ

リカの子供たちが可哀想だ。

 誰がバカなのか、悪どいのかは知らないが、「自由の国ア

メリカ」は「自由にされる国」になったのだ。

 自由(わがまま)が過ぎると、行き過ぎて、心と身体が置

いてけぼりになるということだろう。


 さて、心と身体と自然を置き去りにして宙に浮いたアタマ

(エゴ)は、生きながらえてそこで何をするのだろう? 私に

言わせれば浮遊霊のようなものだが、それで嬉しいのだろう

か・・・。



2021年10月24日日曜日

魂は意味を知らない



 前回は、このブログがいかに口から出まかせなのかをよく

表した良い内容(?)だったと思う。本当にテキトーに綴ら

れているのですよ、このブログは。


 とは言え、テキトーであるとしても、本人は誠実に努めて

いる。

 なんとなく、なりゆきで浮かんで来た想いであっても、人

として、「良い話にしよう」という姿勢で言葉をつないでい

る。内容よりも、その辺りの雰囲気が伝わる方が大事なよう

に思う。結局のところ、人というものは合理性とか社会性よ

りも、気分を優先するものだと思いますからね。

 人は、筋が通っているかどうかなんかより、自分の気分に

訴えかけてくる話に意識を向けるものです。良いことでも悪

いことでも。

 それが自分にとってなんらかの意味を持つかどうかが重要

であって、自分が意味を感じられないようなことは、宇宙の

真理であろうとムダ話に過ぎない。自分にとって意味がある

ことが重要なので、それ以外のことはどうでもいいのです。

 まぁ当然ですね。自分にとって意味が無いことに時間とエ

ネルギーを費やす必要はないですから。でも、その “自分に

とっての意味” が曲者だということは、普通は考えてみない

んですね。それが本当に自分にとって良いものであるのかど

うかなんてこと、疑い始めたら自分の足元がグラグラしてし

まって怖いですから。だから《 「正しい」とは、そういうこ

とにしておけば気が済むということ 》になって、「自分の気

分を害さないことが “正しい” 」ということで話しを閉じてし

まう。当人はそんなことしているなんて思ってもいないでし

ょうけどね。(まぁ、このブログも、私の “気が済む” ことを

書いてるだけですからね。「正しい」とは決めつけていない

だけ良心的だとは思いますが)


 人は皆、自分にとって意味があることを大事にするもので

すが、その大事なものは “意味のある世界” で価値を持つもの

であり、“意味のある世界” には当然ながら相反する意味のこ

とが存在しますから、人は苦しみます。


 「価値のあること」「良いこと」を望む意識は、同時に

「価値の無いこと」「悪いこと」を意識せざるを得ません。

「正しいこと」は、「正しくないこと」と手をたずさえて人

を取り囲むことになります。


 それは人の宿業ではありますが、人が持って生まれて来た

ものでもありません。生まれて来た時、赤ちゃんは意味など

知りませんからね。けれど、生きる為に社会から意味を教え

られます。そうしなければ生きて行けないのは事実ですか

ら。しかし、それは同時に生きることの苦しみをもたらして

しまう・・・。

 本来、魂は意味を知らないのに、“意味” という重荷を背負

わされてしまいます。


 意味を知らねば生きて行けない・・・。

 意味を知ることで生きることが苦しくなる・・・。

 それが人間の宿業です。

 いったいどうすればいいのか?


 意味を組み合わせて、意味の世界から自由になるしかあり

ません。“意味” を使って “意味” を消すのです。そのような

思考の働きを、私は「智慧」と呼びます。


 「知恵」は意味の中で働き、人を意味の中に留めるもので

すが、「智慧」はわたしたちを意味の外へと導く働きです。

そして、人に本当の安らぎを知らせてくれます。
 

 魂は意味を知らない。

 そのことに立ち戻ることができた時。人は “意味” の束縛か

ら解放され、自由を実感して「はぁ~・・・」と心から安堵

のため息をつくことができます。


 魂は意味を知らない。

 それは誰にでも納得できる事実ですし、自分の意識の底に

目を向ければ、誰でも実感できることです。そして、そこに

は乱されることのない安らぎがあります。


 魂は意味を知らない。

 と同時に、魂に意味は必要ないのです。







2021年10月22日金曜日

しあわせになろう



 パソコンを前にして何かが出てくるのを待ってい

る・・・。


 という一文をいま打ち込んだということは、何かが出てき

かけているということなのだろう。ブログを書くかどうか、

書けるかどうかもご縁なのだ。私の意志でも能力でもない。

書けるときは三日ぐらい立て続けに書くこともあるし、ニ三

週間何も出てこないこともあるけど、私の関知するところで

はない。仕事でもないんだし。でも、今回は何が出てくるの

だろう?出まかせにお任せしながら進めてみたい。


 一昨日、阿蘇の中岳で噴火が起きた。噴火といっても、あ

の程度は一つ咳をした程度のことで、火山の活動としては

「日常」レベルのことだ。阿蘇が本気を出したら日本は滅び

てしまう。この前本気を出したのは3万年ほど前だっただろ

うか?うろ覚えだが、それぐらいだっただろうと思う(私が

3万年以上生きているわけではない)。それから一万年以上

経ってからわたしたちのご先祖様が日本に入ってきたので、

なんとか生き延びているけどね。ちなみに、6千年前の鹿児

島の鬼界カルデラの噴火では九州の縄文人は滅んでしまった

のだ。


 そんなことが起こるのは勘弁してほしいと思うけど、どう

せいずれは死ぬ身なのだから、そういう自然の大イベントを

見てみたいという気もする。


 もしも、百万年ぐらい前に火山の活動が止まり、地震によ

る造山活動(地面の隆起)も止まっていたら、風雨と海によ

る浸食だけが進み、日本列島はまるで魚の骨のように貧弱な

島になってしまっていたことだろう。とても人が住むことは

出来ない。天変地異有ればこそのわたしたちの暮らしなの

だ。・・・なのだが、ほんとうに阿蘇がカルデラ噴火を起こ

せば、わたしたちは本当に滅びる。わたしたちのこの暮らし

は、自然の大事件と大事件のはざまの、ほんのひとときの夢

物語のようなものなのだ。そう考えると「もうちょっと、仲

良く機嫌よく暮らせないものか?」と思う。


 この夢物語の中、わたしたちはロクなことをしてこなかっ

た。けれど、ここにはチャンスも与えられている。人が本当

にしあわせになる可能性が与えられている。

 この数千年の間に、その為の智慧をもたらす人が何人も現

れ、そしてその智慧は受け継がれて来た。私のようななんで

もない人間がこんなブログを書くことができるほどに。


 せっかくの夢物語の時代なのだ。本当にしあわせになって

みようじゃないかと思う。人類に目的があるとするならば、

そういうことではないだろうか。


 人類の夢物語の中の、さらにわずかなひとりひとりの夢物

語。

 「いい夢見ろよ!」は柳沢慎吾の決め台詞だけど、いい夢

を見る為には、夢を夢と知っていることと、自分が夢を見て

いることを面白がってしまう智慧が求められるだろう。

 「自分は夢の外で、それ(夢)を見ている」と。

 そして、その場所が、夢の中の右往左往に無関係の完全に

平穏なところであり、その平穏こそが本当のしあわせなのだ

と気付き、その気付いている者こそが、本当の自分だと知

る。これ以外、これ以上のしあわせは無いと。


 たぶん、ほんのわずかであろう人類の時代。そんなに長く

は残されていないかもしれない。ましてや、ひとりひとりの

時間はごくわずか。せっかくだからしあわせになってしまお

うじゃないか。


 久しぶりに書こう。

 《 しあわせになるのに理由はいらない 》



  

2021年10月7日木曜日

亡霊たちの世界



 亡霊、あるいは幽霊というものは、死んだのに個人の魂が

成仏できずに現世に留まっている状態ということになってま

す。「なってます」と言うのは、私は自分の世界観にはそう

いうものを採用していないので、他人事だからです。


 亡霊、幽霊、それから霊能力といったようなものの存在

を、信じる人と信じない人がいますが、私の場合は信じない

というより「関係が無い」という感じです。ですから他人事

ということになるのですが、その他人事をなぜここに引っ張

り出して来たかというと、世間一般で使われる意味とは違う

形で「この世界には亡霊がいっぱいいるな」と思うので、そ

れを書こうと思ったからです。


 私の考える亡霊とは何か?


 以前、「この国には日本兵の亡霊がまだウロウロしてる」

というようなことを書いたことがある(ような気がする)。

 戦後、この国で学校や職場で子供や部下の教育をする立場

に立った男たちのほとんどは、軍隊経験者だったと考えられ

ます。彼らは無意識に軍隊式の教育を学校や職場に、さらに

は家庭に持ち込んでしまったはずなのです。そしてその軍隊

式の教育はかなり薄まったとはいえ、世代ごとに引き継がれ

て、現代でも人に苦しみをもたらしている。なぜなら、それ

は「教育」の体裁をした「支配」だから。

 そのような「日本兵の意識が現代人の中に受け継がれ、問

題を起こしている」という状況は、私なりに言えば「日本兵

の亡霊がウロウロして祟ってる」ということになるのです。

 そして、ことは「日本兵の亡霊」にとどまりません。


 たとえば、過去に虐待やイジメに遭い、それがトラウマと

なって現在も苦しんでいるような人は、虐待やイジメをした

人間の「悪意」に憑依されているようなものです。つまり

「悪霊」に憑りつかれているのです。また、完璧主義の親に

育てられたりすると、ちょっとした失敗をする事さえ怖くな

り、いつも他人の目を気にして緊張するようになったりする

ことがあります。そういうのは「地縛霊」ならぬ「事縛霊」

の憑依です。過去の出来事に縛られて心が安らげないので

す。


 実のところ、わたしたちは誰でも、程度の差こそあれ、い

くつもの「事縛霊」に憑りつかれ、振り回され、自由に動け

なくなり、苦しんでいるのです。

 病気やケガは身体を苦しめますが、わたしたちの心を苦し

めるのは、すべて「事縛霊」のしわざです。意識に憑りつい

た、実体の無い “出来事の亡霊” に苦しめられるのです。


 職場で性格の悪い上司に不愉快な扱いを受け、家に帰って

からもそのことで気分が沈んでしまうことなどよくあります

が、家にはもう性格の悪い上司はいませんし、不愉快な扱い

ももう済んでしまっています。なのに気分が沈み、心が安ら

がないのは、済んでしまった出来事に憑依されてしまってい

るのです。

 そして、そのような「事縛霊」にたくさん憑依されたり、

とても強力な「事縛霊」に憑りつかれると、自分を見失い、

今度は他の誰かに「事縛霊」を憑依させる側になる。

 そのようにして、この世界は、出来事に憑りつかれて苦し

む人間たちがひしめき合うことになるのです。


 さんざん「霊」という言葉を使いましたが、その意味をハ

ッキリさせておいたほうがいいでしょう。

 私がここで言っている「霊」というのは、 「想念」のこと

す。それは、まったくオカルト的なことではありません。

「事縛霊」と私が書いたのは「事に縛られた想念」というこ

とです。

 わたしたちのアタマの、悪いクセのおかげで、刺激の強い

事が、不安・怖れ・怒りといった想念となって意識に憑り

きます。その「強い想念」がわたしたちを苦しめるので

す。
 

 この「霊(強い想念)」を祓わなければ、わたしたちは安

らぐことはできません。いったいどうすればいいのか?
 

 それを生みだし、エネルギーを与え続けているのは、自分

自身のアタマだとまず気付くことです。それには実体は無い

し、何のエネルギーも持っていません。自分のアタマの中以

外、どこにそれが存在しますか?それは、自分の出来の悪い

アタマが意識に投影している幻影でしかありません。それは

まぼろしです。過去の出来事の残渣です。本当は無力な、記

憶の断片でしかありません。たとえ、それが起きたのが10

秒前でも、今、ここには存在していません。もう済んでいま

す。自分自身が、それにエネルギーを注ぎ続けない限り

は・・・。

 
 わたしたちのアタマは悪い。ほんとうに悪いのです。まる

で自分を苦しめるのが役目のようです。アタマは、わたした

ちの意識の中に不要な想念を作り出すことを得意としていま

す。そして、意識が想念から想念へとうろつき続けること

で、命のエネルギーを奪い取ってしまいます。そして本来の

自分に向けられるはずだった命のエネルギーを想念に奪い取

られ、亡くしてしまったら、人は想念だけで実体の無い存

在、「亡霊」になります。


 何かに憑りつかれて彷徨い、何かに縛られてかたくなにな

り、命というおおらかさを見失って苦しみ続ける・・・。

 けっして他人事ではないのです。

 いま、こうしてパソコンのキーを叩いてる人間も、この画

面を見ているあなたもね。