2020年8月28日金曜日

この国の行方



 安倍総理が辞めるそうだ。


 「ああそうですか。どうもごくろうさま」というのが、私

の感想です。


 総理大臣というのは激務だろうと思う。真面目に努めよう

と思うのなら、生半可な気持ちでは務まらないものだと思

う。だから、「ごくろうさま」。

 

 故・吾妻ひでおは『不条理日記』の中でこう書いた。


 「おもしろい政治をすると、“おひねり” がもらえる」


 安倍総理の「政治」が面白かったかどうかというと、正直

なところ面白くなかった。

 非常に実務的な政治だったように思う。そういうものが求

められる時代だったのだろうが、その「実務的」が、しっか

りと「現実」に対応していたかと言うと、私の目からはそう

は見えない。社会そのものが「現実」から浮いているのだか

ら、それに対応すれば、政治も浮く。この度の新型コロナへ

の対応を見ていてもそれがよくわかる。

 「年寄りが病気になって死ぬ」ということは、あたりまえ

の「現実」だと思う。その「現実」を拒絶して政治を行うの

は、「浮いている」と言って差し支えないと思うけれど、違

うだろうか?


 別に批判するつもりは無い。政治とはそうならざるを得な

いものだからね。ごくまれな例外はあるだろうけど。


 前に書いたことがあるが、日本の政治は思想では動かな

い。現実と折り合いをつけるために動くのが、日本の政治

だ。そのためにはたとえ思想を持っていても、政権運営にお

いて自らの思想が邪魔になれば、思想を脇にどける。「思想

より現実が大事」なのが日本の政治だと、私は思っている。

 一方で、この国のマスコミや “識者” の中には「現実より

思想が大事」だと思っている者が大勢いるので、しばしば問

題を起こす。(海外にはそういう人間がもっと沢山いる)

 「わたしはオシャレがしたい!」と言って、ギャルが真冬

にミニスカートをはいて風邪を引くような事が「現実より思

想が大事」ということの一例になると思うが、政治でそれを

やると、国が風邪を引く。

 ギャルが風邪を引くのは勝手だが、国が風邪を引くのはち

ょっと困る。政治に幼稚な思想を持ち込むのは大人のするこ

とではない。


 「おもしろい政治をすると、おひねりがもらえる」の

で、“おもしろい政治” をする人間が首相になったりするこ

ともある。「社会」は「現実」から浮いている上に、“お

しろい政治” というものはさらに “浮かれている” ものな

で、そのような時には結構な割合で酷いことが起きる。


 「だから堅実に」、と言ったところで、人というものは

「現実」がどうであれ、面白いことが好きだから、社会が閉

塞しているような時こそ「おもしろい政治」をしてくれそう

な人を望む。


 その結果、酷いことが起きたとしても、それは単にその首

相が悪いからではなくて、国民の「暗黙の欲求」が国をそう

動かして行った結果だ。首相なんていうのは、たまたまその

時に正面に立っているだけで、雑誌の表紙のようなものだろ

う。


 もちろん、首相が代わって日本に明るさや穏やかさが出て

くるかもしれない。けれど、コロナの騒動を見たりしている

限り、とてもそんな風には思えないね。「人は死ぬもの」と

いう「現実」を受け入れない、“浮いた人間” 達の「暗黙の

欲求」に応えるのが、次の首相の仕事になるわけだから。


 私は国民の大多数が「唖然」とするような政治を見てみた

い。欧米のメディアが理解不能な政治を見てみたい。そのよ

うな離れ業であれば、「現実」から浮いた「社会」に血が通

う可能性を感じるから。(それで国が亡びる可能性もあるけ

どね)


 あ、安倍総理、ごくろうさまでした。お身体大切に。







2020年8月26日水曜日

「常識」の外にあるもの



 こんなネットの辺境にも、時々人が訪れてくれる。そし

て、私は少しばかり心配する。

 「こんなの見てて大丈夫ですか?」


 このブログはある意味、「危ない」。うっかり読み進めれ

ば、下手をすると社会不適応者になる危険がある。《正しい

とは、そういうことにしておけば気が済むということであ

る》なんてことを書いているので、ともすれば常識的に生き

てきた人の価値観を根こそぎにしてしまいかねない。だから

心配する(「ウソつけ!」と頭の中で別の自分が笑う)。


 とはいえ、危険なだけなら何もこんなことを書きはしな

い。私はテロリストではない。

 「常識的に生きてきた人」には、危険が伴うけど、もとも

と「社会不適応者」的な人には励ましになるだろうと思って

いる。なぜかと言えば、「もともと、人の本来性からすれ

ば、“社会” の方が異常なんだから、それに “不適応” な方が

まともなんだよ」というのが、このブログ全体に通じるテー

ゼだから。このブログは「社会不適応者」にお勧めする。

(なんだ、この文章は?)


 これまで書いてきたことは、要するに「非常識」なことだ

けれど、人としてのしあわせを考えればそうならざるを得な

い。なぜなら、日本でも他の国でも、「常識」に従って生き

たり、「常識」に逆らって生きたりする人たちが苦しんでい

るのは明白だから、「常識」を一旦わきにどける必要がある

はず。


 「常識」に逆らうことは、「常識」にこだわることだか

ら、結局、裏側から「常識」に従うようなものだ。それでは

「常識」の喜びが苦しみになり、「常識」の苦しみが喜びに

なるだけの話で、「常識」の害悪からは逃れられない。だか

ら私は「非常識」になる。「常識」に逆らうのではなく、

「常識」から離れる。そうして見えてきたものをここに書い

ている。

 なんか、カッコイイことを書いてるようだけど、ようする

に私は「社会不適応者」だから、自然とそうなるだけの話な

んだけどね。


 とはいうものの、私がさっきから言っている「非常識」と

は、“社会にとっての「非常識」” であって、私自身からす

れば、いたって「常識」的なことだ。

 私の「常識」は、“自然” やわたしたちの “感性” に基づい

ている。いわば、実際的で現実的なものです。


 社会は、実際的で現実的な「常識」から乖離した、妄想の

「常識」で組み立てられているので、この世界はいつまで経

ってもゴタゴタし続ける。

 そのゴタゴタに痛めつけられ、それに付き合いきれない人

たちが「社会不適応者」になる。「社会不適応者」は、“社

会の「常識」” の異常さに目をつぶって生きて行くことので

きない人なんですよ。


 こんな話、負け犬の自己欺瞞かもしれない。“まともな人”

がこれを読んだら一笑に付すだろう。でも、そういう人がこ

れを読んでいるなら、こう尋ねてみたい。

 「あなた、こころの底からしあわせですか?」

 そして、私のような人がこれを読んでいるならこう尋ねて

みたい。

 「あなた、こころの底から不幸ですか?」


 社会の教えるしあわせって、上っ面ですよ。

 社会の教える不幸も、上っ面ですよ。

 “しあわせなつもり” も、“しあわせなフリ” も長くは続か

ないし、ちょっと敏感な人ならそのまやかしを無視できない

はず。


 こころに積み重なってる不幸を  しあわせというやつ

  わきにどけて、こころの底を覗けば、そこには不幸も

しあわせも無い。

 そこにあるのは、「自分がここにこうして在る」というサ

プライズ。

 自分を取り囲む状況がどうあろうと、こころの底を覗け

ば、常に「自分がここにこうして在る」というサプライズに

出会う。驚きと安らぎの・・・。


 「あなたは、こころの底から不幸ですか?」




2020年8月23日日曜日

手に負えない



 今日も一日、また、止むにやまれず、わけも分からず生き

る。

 なんということも無いが、なんということかとも思ったり

する。


 ホントに、私は毎日、自分が生きているということが不思

議でたまらない。さらに言えば、“生きているという不可思

議” がたまらない。まったくもてあましている。生きている

ということは、とてもじゃないが私の手に負えるものではな

い。手に負えないので、お手上げになる。

 “この存在” が止むにやまれず勝手に生きているので、ビ

ビったりソワソワしながらも、止むにやまれずついて行く。

なぜなら、そこで覚える不可思議の悲喜こもごもの後ろに、

不思議で微妙な喜びを感じるから。


 止むにやまれず、

 わけも分からず、

 なんということも無く、

 もてあまし、手に負えないお手上げ状態のまま・・・、ほ

とんどあきらめている。


 「放てば手に満てり」

 「生をあきらめ」

 「なにごともなきぞ」


 これらは、禅の逸話の中などに出てくる言葉。

 そして「なむあみだぶつ」、つまり降参。



 別に私は禅僧のように修行をしてなにかを究めたというこ

とではない。自分の無力さ、出来損ない加減が徹底的に身に

染みたので、こうなってしまったようだ。


 前に《完全な勝利と、完全な敗北は、人を同じところに連

れて行く》なんてことも書いた。私の場合は「完全な敗北」

の方だけれど、首尾よく「完全」に敗北しているわけではな

い。紙一重のところでぐずぐずしているので、単なる「敗北

者」ということになる。

 笑うしかないね。笑ってしまおう。

 でも、笑ってしまえるなら、それでいい。それで十分だろ

う。

 「生きる」ということは結局そういうことだろう。

 そういうことにしておく。



 
 

2020年8月22日土曜日

なりゆきで・・・



 また今日もブログを書こうとしている。この衝動というか

欲求はどこから来るのだろう?

 このブログを書いたところで、ほとんど誰の目にも触れな

いし、仮にフォロワーが百万人いたとしても、この世は “諸

行無常” なので、「それがどうした」という話だ。

 そういうことを意識しているのにも関わらず、書き続ける

というのは、私のアタマの悪さ故だとも言えるだろうけれ

ど、「そう在らざるを得ない因縁だからそうなっている」と

いうのが本当のところだろう。


 世界では、日々様々な事が起こる。

 平凡なこと、驚くこと、奇跡のような事、そのどれもがそ

うなるべくして起こる。

 それは自然現象に留まらず、人のやることもそうなるべく

して起こる。世界のすべての出来事(素粒子レベルの事さ

え)はそうなるべくして起こる。ようするに「なりゆき」

だ。

 人も、虫も、細菌も、ウイルスも、 自身の目的によって

動くのではない。そうせざるを得ないのでそうするだ

け・・。「なりゆき」だ。


 私がそういう意識を持ちながら生きるようになって、もう

三十年程になる。そのはじまりは、こうだった。


 ある日、ふとこう思った。

 「自分で望んで生まれてきたわけじゃない。もし、自分で

望んで生まれて来たとしても、そんなこと憶えていない。生

まれてきた後で、自分の生きる目的や生きる意味を持ったと

しても、そんなことすべて後付けだ。そもそものスタートが

自分の意志ではないのだから、自分に、人間に、 “自由意

思” などない。すべては “なりゆき” だ」。

 そこから私の人生は、「自分が何かをしてゆく」ものでは

なくて、「自分が何かをさせられてゆく」ものになった。


 それは「なりゆきまかせ」ではない。

 「なりゆきまかせ」なら、「なりゆき」に任せるという意

思が存在するけれど、その意志さえ「なりゆき」で生まれる

ものだから、「なりゆき」を見守るという “なりゆき” を見

守るという〈なりゆき〉を見守る・・・・(以下省略)、と

いうものになった。

 というわけで、《世界は惰性で動いている》などと言う。


 そして今日もこうして「なりゆき」でブログを書くことに

なっているのだが、突き詰めて考えれば、そこには何の意味

も価値も無い。ただ、そうなるべくしてそうなっていること

がそのようになっていると言う他ない。どうにもこうにも身

も蓋も無いので恐縮するぐらいだね。


 そう、この世界というのは、その本質は「身も蓋も無い」

のだ。


 「この世界の本質は、身も蓋も無い」などというと、なに

やら虚しくなりそうだが、「身も蓋も無い」というのは「入

れ物が無い」とうことなので、世界を「身も蓋も無い」と捉

えることは、世界を区切る「自分」という「入れ物」が無く

なり、自分と世界が一つになることを意味する。「身も蓋も

無い」ことは、進んで求めるべき事なのだろうと思う。

 あらゆる事が身も蓋も無くなって、あからさまになると、

すべてが明らかになる。人の条件付けから解き放たれて、世

界に解き放たれる。


 とはいえ、そうなるかどうかはやっぱり「なりゆき」で、

そうなってからどうなるかもやはり「なりゆき」だから、こ

うしてくどくど話を続けても「それがどうした」というとこ

ろに戻ってしまう。・・・というのもやはり「なりゆき」

で・・・。こういうのを無限訴求というけれど、ここで笑っ

てしまえるならば、それはありがたい「なりゆき」だ。


 つまるところ、“自分ごっこ” とでもいうようなものを楽

しめれば、それはラッキーだと思うね。

 「なりゆき」って、面白いよ。





2020年8月21日金曜日

ほら、もっと回れ!



 CM を見てると、「未来を創る」なんて言葉がよく出て

くる。

 「笑わせるんじゃねぇ」などと思う。

 わたしたちがしているのは、過去の後始末だけだ。


 もしも、わたしたちが “記憶” を持つことができないとす

れば、なにか目的を持ち、行動を起こすことができるだろう

か? ムリでしょ?

 未来なんて無い。少なくとも、人の世にあるのは未来と呼

べるような代物では無い。

 やって来るのは、アレンジされ、お色直しをした過去だ。

だから、人は同じ過ちを繰り返す。道具立てが違うから一見

違ってみえたりするけれど。


 その姿は、自分のしっぽを追いかけてグルグル回り続ける

犬のようだ。

 人は、犬のそんな姿を笑うけれど、自分たちが同じような

ことをしているとは思っていない。ちょっと仕組みが複雑だ

から気付いていないだけの話。


 犬のしっぽは、単に “しっぽ” だが、人間のしっぽの先に

は「金」やら「名誉」やら「SEX」やら「夢」やら「支配

欲」やらその他モロモロがつながっている。なので見えない

けれど、追いかけているのはやっぱり “しっぽ” なのだ。

“しっぽ” 、つまり「過去」ですね。


 捕まえられなかった「過去」を追いかけて、誰も彼もがグ

ルグルグルグル回り続けている。当人も周りも、進んでいる

ように思っているけれど、本当はどこにも進んでいない。

色々と飾って、理由を付けて、「未来」というステージに立

っているように思い込もうとするけれど、衣装や舞台装置が

変わるだけで、立っているのは同じ場所。

 世の中でひとかどの事を成し遂げたとしても、年老いて、

そろそろお迎えが近くなって、もう何年も世の中に出なくな

って、世間から忘れられてきたら、「過去の人」と呼ばれる

のはそういうことだ。


 こういうことを言うと嫌がられるけど、もういいかげんに

「こういうこと」を人類全体で考える時が来てるんじゃない

だろうか? グルグル回ってエネルギーを無駄にして、命を

浪費して、待っているのは墓穴なんだから、動くのは最低限

にして、気楽にのんびりと、この世界でちょっとの間過ごさ

せてもらうのが、上等な生き方だと私は思う。


 こんなことを言う奴は、「まともな人」にバカにされて笑

われてコケにされるのが落ちだね。でもまぁ、そういう人は

好きなだけ回り続ければいい、それもご縁だろうから。


 ほら、もっと回れ!


2020年8月17日月曜日

もう二十年・・・。



 今朝、夢の中に幼馴染みの Y が出て来た。夢自体は気分

の良いものではなくて、少し不快な気分で目が覚めてしまっ

た。

 目覚めて、しばらくボーっとしながら Y のことを考えて

いた。彼はもう二十年ほど前に亡くなっている。


 Y はイイ奴だった。よく遊んだし、僕にビートルズを勧

めてくれたのも彼だった。

 別の高校へ行ったので、あまり遊ばなくはなったが、家が

近所なので、会えばいろいろと話もしていた。その後は、僕

が地元を離れたこともあって、会うこともなくなっていた

が、二十代の後半、どこで調べたのかは知らないが、Y か

ら電話がかかってきた。


 特別な話など無く、Y は、「結婚して、今は○○市に住

んでいる」とか言い、お互いになんでもない話をして電話を

切ったのだが、それが彼との最後の会話だった。


 数年後、別の幼馴染みから電話がかかってきた。「Y が

死んだ」と。

 「葬式はもう済んでいるが、昔よく遊んだ仲間と一緒に手

を合わせに行こう」ということで、当然ながら行くことにし

た。


 いろいろな事情で、Y は親せきの所で祀られていて、彼

のお父さんがむかえてくれた。

 お父さんは「みんなで会いに来てくれて嬉しい」と言って

くれたが、その表情には、あきらかに悲痛なものがあった。

Y は、離婚し、その後からだを壊し、長い間床に臥せって

いたのだが、ある日、自ら命を絶ったのだ。


 それぞれ仏前に手を合わせ、少しばかりお父さんと話をし

て、僕たちは帰路についた。

 途中、予定があるということで仲間の二人と分かれ、残っ

た者で「お茶でもしよう」ということになった。


 コーヒーを飲みながら、話は Y の遺影のことになった。

みんなそのことを話したかったのだろう。なぜなら、Y の

遺影は、僕たちの知る Y の顔ではなかったから。

 いつ撮ったものかは知らないが、遺影の彼は、少しやつ

れ、目には生気が無く、別人のようだったから・・・。

「Y だ」と言われなければ、彼だと分かるのに少し時間が

必要なほどだったろう。


 Y はイイ奴だった。

 バランスの取れた性格で、ハンサムで、ユーモアを理解

し、結構あたまもイイ。その彼が、どういう経緯で自ら命を

絶つことになったのかは、大雑把な状況以外、知る由もな

い。ただただ「誰も自分の人生の行方を知らない」というこ

とを改めて心に刻んだ出来事だった。


 それから二十年以上が経ったのだが、本当に「あっ」とい

う間だったと思う。Y のいなくなった世界がもう二十年も

続いているけれど、そんなに時が経ったようには思えない。

自分は代わりばえのしない日々を送っているし、彼の事を思

い出すことは年に一度程のものだけど、もう二十年以上が経

った・・・。


 「人生とは何だろう」などと思う。

 「生きるとは何だろう」などとも思う。


 苦しむために人は生まれない

 しあわせになりたかった

 たったそれだけなのに


 前に、竹内まりやの曲について書いた時に、歌詞の一部を

変えて、そう書いたけれど(『苦しむために生まれて来たの

か?』2020/4)、人はまるで苦しむために生まれてくるか

のようだ。


 Y も大そう苦しんだのだろう。苦しかったのだろう。そ

して、そこから抜け出す道は見つからなかった・・・。

 彼は死に、自分は生きている。けれど、そこに何か理由が

あるわけではない。ただ、「そうなった」というだけだ。彼

が死んで、自分が生きているということが、僕は不思議でし

ようがない。「これは何なんだろう」と思う。二十数年前に

死んだのが自分で、彼が今生きていても別に不思議ではな

い。


 「あの時死んだのは、自分ではなかったか?」。そして、

「今生きているこれは、彼なのかもしれない」という感じも

する。
 

 大事な人を亡くした人が、「彼の分まで生きる」などと言

ったりするけれど、僕はそう考えない。彼の命は、その表れ

の場を物質界から意識界へと移し、そこで生死を問わず、す

べての命ととけあっていると考える。そうであればこそ、彼

のことを思い出すし、夢にも表れる。「彼は僕を生きてい

る」。彼は僕で、僕は彼だ。


 僕たちはまだ、共に生きている。苦しむためではなく。

 そしていつか、共に死ぬ。苦しむためではなく・・・。


 今夜は、あいつとビートルズを聴こうか。






2020年8月12日水曜日

お盆です



 いま、外でツクツクボウシが鳴き出した。ということは 

“お盆” になったということだね。コロナでゴタゴタしてい

るうちに、もう今年も三分の二ほどが過ぎてしまった。この

まま今年は終わりそうで、なんだかもったいないなぁ。


 個人的には、コロナのせいで「生死」についてより深く考

えることになったので、その面では良かったのかもしれな

い。

 この度のことで、生きること・死ぬことを真摯に捉え直し

た人もそこそこはいるのだろう。けれど、ほとんどの人はた

だただ「死ぬのが怖い」「死ぬのはダメだ」と思うだけにと

どまり、かえって今までより「死」を恐れるようになった人

も多いんじゃないだろうか。



 そう、夕べ面白いことがあった。

 八時ごろ、インターホンが鳴った。内の奥さんが外に出て

みたが誰もいない。すると、またインターホンが鳴りだして

止まらなくなった。

 スイッチの具合が悪いのかなと、外のボタンをいじってみ

ても音が止まらない。なので、部屋の中の本体の電池を一度

抜き、戻してみたら、もう音は鳴らなくなり、それで異常は

収まったのだが、そこでふと気が付いた。

 「ああ、お盆だからな」(ちょっと早いけど)

 そう言って、二人で笑ったあと、仏壇にロウソクと線香を

上げ、手を合わせた。

 「いらっしゃい。ごゆっくり」



 もちろん、私は霊魂だとか幽霊だとかには関係ない。

 信じるとか信じないとかではなく、関係がない。

 なのに、お盆にお参りをしたり、毎日仏壇に手を合わせた

りするのは、いま自分が生きていることは、過去からのご縁

によるものだから、自分に直接の縁がある親と、その後ろに

無限に広がっている人々との縁に対して、敬意を払うため

だ。


 前に『「死」から生まれてきた 』(2019/2)という話を

書いたけど、私は「死」という状態がこの世界の本質だと考

える。個体の「生」は、「死」の働きによって起こる「死」

の一面なのだと。

 わたしたちのアタマが、“個” を見たがるから、個人の霊

などというものを生み出すだけで、「死」の中に “個” は無

い。“個” が無いのだから、“個” を振り分けるための「天

国」も「地獄」も無い。「冥福」など祈らなくても、「あの

世」には苦しみなど無い。先祖が見守ってくれていたりしな

い。なぜなら、先祖はこの世界の本質である「死」に溶け込

み、「死」の働きである私やあなたと一体となって在るか

ら。言い換えれば、いっしょに「生きている」から。


 お盆のようなものは、いま自分が「生」の存在としてある

ことの不思議さをあらたにし、いま自分を「生」の存在とし

て在らしめている縁に敬意を持つためにあるのだろう。


 不思議のまま生きて、不思議のままに死ぬわたした

ち・・・。

 その不思議を愛おしみながら、手を合わす・・・。

 “お盆” というものはいいものだなと思う。



 それにしても、夕べ、来たのは・・・・?







2020年8月10日月曜日

テレビは “オワコン” ではない



 「テレビは “オワコン” だ!」などと言われる。確かにそ

うだという気がする。この度のコロナ騒動の件などを見てる

となおのことそう思う。とはいえ、じゃぁネットのニュース

サイトが、災害が起きた時にヘリを飛ばして現地の状況を伝

えたり、事件が起きた時に現場から情報を流したりできるか

というと、それは無理なはなしだ。現状では既製のマスコミ

が伝えたものをネット上にあげているだけに過ぎない。

 仮に今後、既製のマスコミとは別の、財力と実行力のある

ニュースサイトが出て来て、独自に情報を集め、それをネッ

ト上にニュースとして流せるようになったとしても、結局、

利益追求に走り、偏向し、受け手を誤らせ、騙すようになる

だろう。メディアが変わったところで、人間が変わらなけれ

ば同じことだ。


 「コンテンツ」という言葉は、「中身」という意味だそう

で、ならば「テレビは “オワコン” 」という表現は間違って

いる。「テレビというメディアは終わっている」と言いたい

のならば、「終わったコンテンツ」ではなく「終わったメデ

ィア」というのが正しい表現だろうが、テレビという「メデ

ィア」はまだ終わっていない。テレビの現状を正しく表現す

るなら、「クサコン」という方が良いだろう。「腐ったコン

テンツ」。「中身」が腐っているのだ。


 「メディア」というものは、情報を運ぶツールということ

だと思うが、そのツールに求められ、提供できるのは、情報

の量と保持力とスピードであって、「コンテンツ(中身)」

は「メディア」の種類と関係ない。「コンテンツ」が腐って

いれば、「メディア」が何であろうと、ゴミである。いや、

結構な割合で害悪である。


 「ならば、コンテンツを正せ!」と言いたいところだが、

その「コンテンツ」を作るのはわたしたち人間のアタマであ

る。あらためて言うまでもないが、アタマは悪さをする(こ

のブログ上ではそうなっている)ものであり、何が正しいか

知り得ないので、「コンテンツを正すことはできないとあき

らめることが肝要だ」と、私は思っている。


 こういう話を進めて行くと、最近では「リテラシー」とい

う言葉が登場するのが常なのだが、「リテラシー」を高めた

としても、その「リテラシー」の基盤となる見方が間違って

いれば、測量を間違えたままトンネルを掘るようなもので、

とんでもない所へ行ってしまうことになる。永遠に闇の中と

いうことになりかねない。


 「では、その基盤をしっかりしよう!」と思っても、そん

な基盤など存在しない。

 たとえば宗教だとか、思想だとかの中には、多くの人のも

のの見の基盤になっているものがあるけれど、そういった

ものがさまざまな問題を起こしてきたことは歴史が証明して

いる。


 残念ながら、「腐ったコンテンツ」を正そうとしても、

「コンテンツ」に害されないように、それをより分ける「リ

テラシー」を持とうとしても、「これで安心!」ということ

は永遠に無い。


 「メディア」も「コンテンツ」も「リテラシー」も、それ

がわたしたちのアタマの働きによるものである以上、「ま

た、面倒を起こすんだろうな・・・」と、トラブルメーカー

の身内を持っているつもりでいるしかないのだろうと思う。

もちろん、わたしたち自分自身のアタマもそう。


 誰一人、なにが「正しい」かなんて知らない。知り得な

い。

 しようがないので、自分の気が済むものを「正しい」と見

なして過ごしているだけ。
 

 「機嫌良く」「仲良く」しているにしくはない・・・。



 このブログが「クサコン」かどうかは、・・・・見る人次

第だろう。(そういうことにしておいて下さいな)



2020年8月9日日曜日

クマゼミとゴキブリが教えてくれた



 季節柄、道端でセミがよく死んでいる。踏んづけると申し

訳ない気がして、除けて歩いているが、昨日は気付かずにク

マゼミを蹴っ飛ばしてしまい、「ゴメン、ゴメン」と謝っ

た。


 なぜ謝ったか?


 生きているから。


 もちろん、死骸だから死んでいる。けど、生きていると感

じる。だから、敬意を払う。でも、なぜ死骸なのに生きてい

ると感じるのか?


 「生きている」とは、“存在の純粋性をまとっている” 、

とでもいうようなことかなと思う。

 セミがセミとして生まれて、その活動は終わっても、その

姿はまだセミとして生まれた純粋性を持っている。だから、

「生きている」と感じさせ、敬意を払わせる。


 こんなことを書くと、随分と優しい人間のようだけど、ゴ

キブリが出てきたら叩き潰したりする。けれど、不思議なこ

とに、ゴキブリの死骸を叩き潰したりはしない。

 生きているゴキブリは踏み潰すくせに、ゴキブリの死骸を

踏んづけたら、私はやはり「ゴメン、ゴメン」と言う。

 「これはいったいどうしたことか?」と考える。


 「動くからだな」と思った。


 動くものは、そこに、“進行中のストーリー” を感じさせ

る。けれど、ゴキブリの動きが感じさせるストーリーは理解

しづらい。理解できないストーリーは人をパニックにさせ

る。けれど、死んだゴキブリは動かないので、そこには、こ

ちらの意識を邪魔する “進行中のストーリー” という要素が

無い。だから、その “存在の純粋性” が見て取れ、敬意が湧

いてくるのだろうな。と・・・。


 一週間ほど前に、玄関先でゴキブリが死んでいた。

 溝にでも捨てようと思ってゴミばさみでつまもうとした

ら、物陰へ逃げた。

 「生きてたのか」と驚いたのだけど、すぐに明るいところ

へ出て来てじっとしている。死にかけているのだ。

 そのじっとしている姿を見ていると、なんだかいじらしく

なってしまった。ゴキブリに対してそんな気持ちが湧いたこ

とは、今まで無い。


 そのゴキブリと、蹴飛ばしたクマゼミの死骸が、いまここ

で繋がった。そして、大事な事を私に伝えてくれているよう

に思う。

 わたしたちが “ストーリー” をいだいてしまうことがなけ

れば、そこに、そのものの “存在の純粋性” があらわにな

り、わたしたちはそれに敬意(畏敬といってもいい)を持つ

のではないだろうかと。


 人が人を憎んだり、差別したりするのも、相手の背景にス

トーリーを見るからだ。

 子供が可愛いのは、そこにはまだあまりストーリーが感じ

られないからだ。

 生まれたばかりの赤ん坊が、なにやら厳粛なものを感じさ

せるのは、そこにはまだストーリーが無いからだ。
 

 普通に亡くなり、安置されている死者が厳粛な気持ちにさ

せるのは、そこではもうストーリーが終わっているからだ。

 むごい死に方をした遺体が、恐れや苦しみを感じさせるの

は、そこに怖ろしいストーリーを見てしまうからだ。


 わたしたちのアタマがストーリーを生みださなければ、わ

たしたちは、この世界のすべてに対して、敬意を持って生き

られるのではなかろうか?

 そして、それは、この上なくしあわせなことではないのだ

ろうか?


 わたしたち人というものは、ストーリーを追いかけたり築

いたりすることが「生きること」のように思っているけれ

ど、それはとんでもない間違いなのだろう。

 わたしたちは、ストーリーから自由になってこそ、本当に

「生きている」のではないだろうか。


 クマゼミの死骸と死にかけのゴキブリが教えてくれた。

 縁は異なもの味なもの。


 

2020年8月8日土曜日

世間虚仮 唯仏是真



 少し前、NHK で法隆寺の特集番組があって録画しておい

たので、それを先日やっと観た。

 法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺で、現在のものは聖徳太子を

祀る為に建てられたとされる。本尊の釈迦如来像は、聖徳太

子の姿を写したものだと像の光背に記されている。明治まで

秘仏であった救世観音像も太子がモデルだといわれる。そう

いう寺なので、番組を観ていたら、画面にこの言葉が出て来

た。


 「和を以て貴しと為す」 


 日本人なら誰でも知っている言葉だけど、今回この言葉を

見た瞬間に、「ああ、そうだった」と思ったのだった。

 何のことかといえば、このブログで何度か「正しいことが

あるとすれば、それは仲良くすることだろう」と私は書いて

いるけど、それは要するに「“和を以て貴しと為す” ではな

いか」と思い。「なぁ~んだ」とひとりで笑ったのだった。

さしずめ、私は現代の聖徳太子だな(冗談ですよ)。


 聖徳太子と言えば、こんな言葉も遺されている。


 「世間虚仮唯仏是真」(せけんこけゆいぶつぜしん)


 “世の中は作り物。仏だけが真実だ” という意味でいいの

だろう。しかし、こういうことを言いながら、太子は摂政と

して国の実務をこなしていた。

 一方、私は「世の中はお話しに過ぎない」「世の中なんて

たしなむ程度にしておきなさい」などとも言っている。やっ

ぱり私は現代の聖徳太子だな(冗談ですよ)。


 冗談はさておき、私が太子と同じようなことを言っている

のは、仏教に深入りするとそうなるということであって、そ

れは当然の結果だね。

 この世界は「諸行無常」。

 世間は妄想の約束事で出来たもの。

 仏教では繰り返し繰り返しそのように説かれる。そういう

教えを長く学んでいると、「世間虚仮」という感覚が当たり

前になってしまう。「どう見たって “虚仮” だわなぁ」とい

うことになる。

 その “虚仮” の世間で右往左往するのはバカらしいと思う

ようになるし、走り回っている者が立てる騒音や振動やホコ

リなんかがはた迷惑に感じて、「少しおとなしくできない

か」なんてことも思う。結局 “お話し” なんだから。


 人は誰も、その “お話し” の中に産み落とされて、その 

“お話し” に条件付けられて育つので、“お話し” の中で生き

るほかない。しかし、人は “お話し” を存続させるために生

まれてくるわけでもない。むしろ、“お話し” を笑ってしま

うために生まれてくるように思う。それが健全で、それが生

きているということだと思うのだが、そんなことを考えてい

るのは、私のような哀れなマイノリティなんだろう。


 世間は「虚仮」である。それも出来の悪い「虚仮」だ。

 聖徳太子の時代から、今に至るまで、人はまったく進歩し

ていない。

 それどころか、道具立てが複雑で大袈裟になった分だけ、

世間の「虚仮」度合いは増しているように思う。「なに用あ

って、月世界へ」と、山本夏彦氏が呆れたように。


 人が “作り事” に注ぐ分のエネルギーを、 “真実” を求

め、確かめることに注いだなら、人は今よりはるかに幸福に

暮らせることだろう。「死」さえも、悲しみではあっても不

幸ではなくなるだろう。


 世間が「虚仮」ならば、人も「虚仮」だ。“作り事” の中

で “作り事” を追いかけ、“作り事” に浸っている限り、その

生は “作り事” のままで、“真実” の生は生きられないままに

なる。

 何が嬉しいのか知らないが、この頃は「人生100年時代」

などと言う。

 100年生きようが200年生きようが、それが “作り事” な

ら何ほどの事も無い。長生きが良いのなら、ゾウガメの方が

人間より偉い。

 「どれだけ生きられるか」

 「何を成せるか」

 そんなことはオマケでしかない。


 「世間虚仮」


 「虚仮」の世間の中で生きているわたしたちは、その “作

り事” に付き合わざるを得ないけれど、そんな世間に彷徨い

出てしまわないよう、少なくとも片足だけは、“真” の側に

置いて、そこに重心を持ちたいものだ。「虚仮」の世間と、

「真」の仏(仏の世)とが重なって在るこの世界なのだか

ら。