2020年8月8日土曜日

世間虚仮 唯仏是真



 少し前、NHK で法隆寺の特集番組があって録画しておい

たので、それを先日やっと観た。

 法隆寺は聖徳太子ゆかりの寺で、現在のものは聖徳太子を

祀る為に建てられたとされる。本尊の釈迦如来像は、聖徳太

子の姿を写したものだと像の光背に記されている。明治まで

秘仏であった救世観音像も太子がモデルだといわれる。そう

いう寺なので、番組を観ていたら、画面にこの言葉が出て来

た。


 「和を以て貴しと為す」 


 日本人なら誰でも知っている言葉だけど、今回この言葉を

見た瞬間に、「ああ、そうだった」と思ったのだった。

 何のことかといえば、このブログで何度か「正しいことが

あるとすれば、それは仲良くすることだろう」と私は書いて

いるけど、それは要するに「“和を以て貴しと為す” ではな

いか」と思い。「なぁ~んだ」とひとりで笑ったのだった。

さしずめ、私は現代の聖徳太子だな(冗談ですよ)。


 聖徳太子と言えば、こんな言葉も遺されている。


 「世間虚仮唯仏是真」(せけんこけゆいぶつぜしん)


 “世の中は作り物。仏だけが真実だ” という意味でいいの

だろう。しかし、こういうことを言いながら、太子は摂政と

して国の実務をこなしていた。

 一方、私は「世の中はお話しに過ぎない」「世の中なんて

たしなむ程度にしておきなさい」などとも言っている。やっ

ぱり私は現代の聖徳太子だな(冗談ですよ)。


 冗談はさておき、私が太子と同じようなことを言っている

のは、仏教に深入りするとそうなるということであって、そ

れは当然の結果だね。

 この世界は「諸行無常」。

 世間は妄想の約束事で出来たもの。

 仏教では繰り返し繰り返しそのように説かれる。そういう

教えを長く学んでいると、「世間虚仮」という感覚が当たり

前になってしまう。「どう見たって “虚仮” だわなぁ」とい

うことになる。

 その “虚仮” の世間で右往左往するのはバカらしいと思う

ようになるし、走り回っている者が立てる騒音や振動やホコ

リなんかがはた迷惑に感じて、「少しおとなしくできない

か」なんてことも思う。結局 “お話し” なんだから。


 人は誰も、その “お話し” の中に産み落とされて、その 

“お話し” に条件付けられて育つので、“お話し” の中で生き

るほかない。しかし、人は “お話し” を存続させるために生

まれてくるわけでもない。むしろ、“お話し” を笑ってしま

うために生まれてくるように思う。それが健全で、それが生

きているということだと思うのだが、そんなことを考えてい

るのは、私のような哀れなマイノリティなんだろう。


 世間は「虚仮」である。それも出来の悪い「虚仮」だ。

 聖徳太子の時代から、今に至るまで、人はまったく進歩し

ていない。

 それどころか、道具立てが複雑で大袈裟になった分だけ、

世間の「虚仮」度合いは増しているように思う。「なに用あ

って、月世界へ」と、山本夏彦氏が呆れたように。


 人が “作り事” に注ぐ分のエネルギーを、 “真実” を求

め、確かめることに注いだなら、人は今よりはるかに幸福に

暮らせることだろう。「死」さえも、悲しみではあっても不

幸ではなくなるだろう。


 世間が「虚仮」ならば、人も「虚仮」だ。“作り事” の中

で “作り事” を追いかけ、“作り事” に浸っている限り、その

生は “作り事” のままで、“真実” の生は生きられないままに

なる。

 何が嬉しいのか知らないが、この頃は「人生100年時代」

などと言う。

 100年生きようが200年生きようが、それが “作り事” な

ら何ほどの事も無い。長生きが良いのなら、ゾウガメの方が

人間より偉い。

 「どれだけ生きられるか」

 「何を成せるか」

 そんなことはオマケでしかない。


 「世間虚仮」


 「虚仮」の世間の中で生きているわたしたちは、その “作

り事” に付き合わざるを得ないけれど、そんな世間に彷徨い

出てしまわないよう、少なくとも片足だけは、“真” の側に

置いて、そこに重心を持ちたいものだ。「虚仮」の世間と、

「真」の仏(仏の世)とが重なって在るこの世界なのだか

ら。



 
 

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