2020年8月9日日曜日

クマゼミとゴキブリが教えてくれた



 季節柄、道端でセミがよく死んでいる。踏んづけると申し

訳ない気がして、除けて歩いているが、昨日は気付かずにク

マゼミを蹴っ飛ばしてしまい、「ゴメン、ゴメン」と謝っ

た。


 なぜ謝ったか?


 生きているから。


 もちろん、死骸だから死んでいる。けど、生きていると感

じる。だから、敬意を払う。でも、なぜ死骸なのに生きてい

ると感じるのか?


 「生きている」とは、“存在の純粋性をまとっている” 、

とでもいうようなことかなと思う。

 セミがセミとして生まれて、その活動は終わっても、その

姿はまだセミとして生まれた純粋性を持っている。だから、

「生きている」と感じさせ、敬意を払わせる。


 こんなことを書くと、随分と優しい人間のようだけど、ゴ

キブリが出てきたら叩き潰したりする。けれど、不思議なこ

とに、ゴキブリの死骸を叩き潰したりはしない。

 生きているゴキブリは踏み潰すくせに、ゴキブリの死骸を

踏んづけたら、私はやはり「ゴメン、ゴメン」と言う。

 「これはいったいどうしたことか?」と考える。


 「動くからだな」と思った。


 動くものは、そこに、“進行中のストーリー” を感じさせ

る。けれど、ゴキブリの動きが感じさせるストーリーは理解

しづらい。理解できないストーリーは人をパニックにさせ

る。けれど、死んだゴキブリは動かないので、そこには、こ

ちらの意識を邪魔する “進行中のストーリー” という要素が

無い。だから、その “存在の純粋性” が見て取れ、敬意が湧

いてくるのだろうな。と・・・。


 一週間ほど前に、玄関先でゴキブリが死んでいた。

 溝にでも捨てようと思ってゴミばさみでつまもうとした

ら、物陰へ逃げた。

 「生きてたのか」と驚いたのだけど、すぐに明るいところ

へ出て来てじっとしている。死にかけているのだ。

 そのじっとしている姿を見ていると、なんだかいじらしく

なってしまった。ゴキブリに対してそんな気持ちが湧いたこ

とは、今まで無い。


 そのゴキブリと、蹴飛ばしたクマゼミの死骸が、いまここ

で繋がった。そして、大事な事を私に伝えてくれているよう

に思う。

 わたしたちが “ストーリー” をいだいてしまうことがなけ

れば、そこに、そのものの “存在の純粋性” があらわにな

り、わたしたちはそれに敬意(畏敬といってもいい)を持つ

のではないだろうかと。


 人が人を憎んだり、差別したりするのも、相手の背景にス

トーリーを見るからだ。

 子供が可愛いのは、そこにはまだあまりストーリーが感じ

られないからだ。

 生まれたばかりの赤ん坊が、なにやら厳粛なものを感じさ

せるのは、そこにはまだストーリーが無いからだ。
 

 普通に亡くなり、安置されている死者が厳粛な気持ちにさ

せるのは、そこではもうストーリーが終わっているからだ。

 むごい死に方をした遺体が、恐れや苦しみを感じさせるの

は、そこに怖ろしいストーリーを見てしまうからだ。


 わたしたちのアタマがストーリーを生みださなければ、わ

たしたちは、この世界のすべてに対して、敬意を持って生き

られるのではなかろうか?

 そして、それは、この上なくしあわせなことではないのだ

ろうか?


 わたしたち人というものは、ストーリーを追いかけたり築

いたりすることが「生きること」のように思っているけれ

ど、それはとんでもない間違いなのだろう。

 わたしたちは、ストーリーから自由になってこそ、本当に

「生きている」のではないだろうか。


 クマゼミの死骸と死にかけのゴキブリが教えてくれた。

 縁は異なもの味なもの。


 

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