2020年8月12日水曜日

お盆です



 いま、外でツクツクボウシが鳴き出した。ということは 

“お盆” になったということだね。コロナでゴタゴタしてい

るうちに、もう今年も三分の二ほどが過ぎてしまった。この

まま今年は終わりそうで、なんだかもったいないなぁ。


 個人的には、コロナのせいで「生死」についてより深く考

えることになったので、その面では良かったのかもしれな

い。

 この度のことで、生きること・死ぬことを真摯に捉え直し

た人もそこそこはいるのだろう。けれど、ほとんどの人はた

だただ「死ぬのが怖い」「死ぬのはダメだ」と思うだけにと

どまり、かえって今までより「死」を恐れるようになった人

も多いんじゃないだろうか。



 そう、夕べ面白いことがあった。

 八時ごろ、インターホンが鳴った。内の奥さんが外に出て

みたが誰もいない。すると、またインターホンが鳴りだして

止まらなくなった。

 スイッチの具合が悪いのかなと、外のボタンをいじってみ

ても音が止まらない。なので、部屋の中の本体の電池を一度

抜き、戻してみたら、もう音は鳴らなくなり、それで異常は

収まったのだが、そこでふと気が付いた。

 「ああ、お盆だからな」(ちょっと早いけど)

 そう言って、二人で笑ったあと、仏壇にロウソクと線香を

上げ、手を合わせた。

 「いらっしゃい。ごゆっくり」



 もちろん、私は霊魂だとか幽霊だとかには関係ない。

 信じるとか信じないとかではなく、関係がない。

 なのに、お盆にお参りをしたり、毎日仏壇に手を合わせた

りするのは、いま自分が生きていることは、過去からのご縁

によるものだから、自分に直接の縁がある親と、その後ろに

無限に広がっている人々との縁に対して、敬意を払うため

だ。


 前に『「死」から生まれてきた 』(2019/2)という話を

書いたけど、私は「死」という状態がこの世界の本質だと考

える。個体の「生」は、「死」の働きによって起こる「死」

の一面なのだと。

 わたしたちのアタマが、“個” を見たがるから、個人の霊

などというものを生み出すだけで、「死」の中に “個” は無

い。“個” が無いのだから、“個” を振り分けるための「天

国」も「地獄」も無い。「冥福」など祈らなくても、「あの

世」には苦しみなど無い。先祖が見守ってくれていたりしな

い。なぜなら、先祖はこの世界の本質である「死」に溶け込

み、「死」の働きである私やあなたと一体となって在るか

ら。言い換えれば、いっしょに「生きている」から。


 お盆のようなものは、いま自分が「生」の存在としてある

ことの不思議さをあらたにし、いま自分を「生」の存在とし

て在らしめている縁に敬意を持つためにあるのだろう。


 不思議のまま生きて、不思議のままに死ぬわたした

ち・・・。

 その不思議を愛おしみながら、手を合わす・・・。

 “お盆” というものはいいものだなと思う。



 それにしても、夕べ、来たのは・・・・?







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