2020年8月10日月曜日

テレビは “オワコン” ではない



 「テレビは “オワコン” だ!」などと言われる。確かにそ

うだという気がする。この度のコロナ騒動の件などを見てる

となおのことそう思う。とはいえ、じゃぁネットのニュース

サイトが、災害が起きた時にヘリを飛ばして現地の状況を伝

えたり、事件が起きた時に現場から情報を流したりできるか

というと、それは無理なはなしだ。現状では既製のマスコミ

が伝えたものをネット上にあげているだけに過ぎない。

 仮に今後、既製のマスコミとは別の、財力と実行力のある

ニュースサイトが出て来て、独自に情報を集め、それをネッ

ト上にニュースとして流せるようになったとしても、結局、

利益追求に走り、偏向し、受け手を誤らせ、騙すようになる

だろう。メディアが変わったところで、人間が変わらなけれ

ば同じことだ。


 「コンテンツ」という言葉は、「中身」という意味だそう

で、ならば「テレビは “オワコン” 」という表現は間違って

いる。「テレビというメディアは終わっている」と言いたい

のならば、「終わったコンテンツ」ではなく「終わったメデ

ィア」というのが正しい表現だろうが、テレビという「メデ

ィア」はまだ終わっていない。テレビの現状を正しく表現す

るなら、「クサコン」という方が良いだろう。「腐ったコン

テンツ」。「中身」が腐っているのだ。


 「メディア」というものは、情報を運ぶツールということ

だと思うが、そのツールに求められ、提供できるのは、情報

の量と保持力とスピードであって、「コンテンツ(中身)」

は「メディア」の種類と関係ない。「コンテンツ」が腐って

いれば、「メディア」が何であろうと、ゴミである。いや、

結構な割合で害悪である。


 「ならば、コンテンツを正せ!」と言いたいところだが、

その「コンテンツ」を作るのはわたしたち人間のアタマであ

る。あらためて言うまでもないが、アタマは悪さをする(こ

のブログ上ではそうなっている)ものであり、何が正しいか

知り得ないので、「コンテンツを正すことはできないとあき

らめることが肝要だ」と、私は思っている。


 こういう話を進めて行くと、最近では「リテラシー」とい

う言葉が登場するのが常なのだが、「リテラシー」を高めた

としても、その「リテラシー」の基盤となる見方が間違って

いれば、測量を間違えたままトンネルを掘るようなもので、

とんでもない所へ行ってしまうことになる。永遠に闇の中と

いうことになりかねない。


 「では、その基盤をしっかりしよう!」と思っても、そん

な基盤など存在しない。

 たとえば宗教だとか、思想だとかの中には、多くの人のも

のの見の基盤になっているものがあるけれど、そういった

ものがさまざまな問題を起こしてきたことは歴史が証明して

いる。


 残念ながら、「腐ったコンテンツ」を正そうとしても、

「コンテンツ」に害されないように、それをより分ける「リ

テラシー」を持とうとしても、「これで安心!」ということ

は永遠に無い。


 「メディア」も「コンテンツ」も「リテラシー」も、それ

がわたしたちのアタマの働きによるものである以上、「ま

た、面倒を起こすんだろうな・・・」と、トラブルメーカー

の身内を持っているつもりでいるしかないのだろうと思う。

もちろん、わたしたち自分自身のアタマもそう。


 誰一人、なにが「正しい」かなんて知らない。知り得な

い。

 しようがないので、自分の気が済むものを「正しい」と見

なして過ごしているだけ。
 

 「機嫌良く」「仲良く」しているにしくはない・・・。



 このブログが「クサコン」かどうかは、・・・・見る人次

第だろう。(そういうことにしておいて下さいな)



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