2020年8月17日月曜日

もう二十年・・・。



 今朝、夢の中に幼馴染みの Y が出て来た。夢自体は気分

の良いものではなくて、少し不快な気分で目が覚めてしまっ

た。

 目覚めて、しばらくボーっとしながら Y のことを考えて

いた。彼はもう二十年ほど前に亡くなっている。


 Y はイイ奴だった。よく遊んだし、僕にビートルズを勧

めてくれたのも彼だった。

 別の高校へ行ったので、あまり遊ばなくはなったが、家が

近所なので、会えばいろいろと話もしていた。その後は、僕

が地元を離れたこともあって、会うこともなくなっていた

が、二十代の後半、どこで調べたのかは知らないが、Y か

ら電話がかかってきた。


 特別な話など無く、Y は、「結婚して、今は○○市に住

んでいる」とか言い、お互いになんでもない話をして電話を

切ったのだが、それが彼との最後の会話だった。


 数年後、別の幼馴染みから電話がかかってきた。「Y が

死んだ」と。

 「葬式はもう済んでいるが、昔よく遊んだ仲間と一緒に手

を合わせに行こう」ということで、当然ながら行くことにし

た。


 いろいろな事情で、Y は親せきの所で祀られていて、彼

のお父さんがむかえてくれた。

 お父さんは「みんなで会いに来てくれて嬉しい」と言って

くれたが、その表情には、あきらかに悲痛なものがあった。

Y は、離婚し、その後からだを壊し、長い間床に臥せって

いたのだが、ある日、自ら命を絶ったのだ。


 それぞれ仏前に手を合わせ、少しばかりお父さんと話をし

て、僕たちは帰路についた。

 途中、予定があるということで仲間の二人と分かれ、残っ

た者で「お茶でもしよう」ということになった。


 コーヒーを飲みながら、話は Y の遺影のことになった。

みんなそのことを話したかったのだろう。なぜなら、Y の

遺影は、僕たちの知る Y の顔ではなかったから。

 いつ撮ったものかは知らないが、遺影の彼は、少しやつ

れ、目には生気が無く、別人のようだったから・・・。

「Y だ」と言われなければ、彼だと分かるのに少し時間が

必要なほどだったろう。


 Y はイイ奴だった。

 バランスの取れた性格で、ハンサムで、ユーモアを理解

し、結構あたまもイイ。その彼が、どういう経緯で自ら命を

絶つことになったのかは、大雑把な状況以外、知る由もな

い。ただただ「誰も自分の人生の行方を知らない」というこ

とを改めて心に刻んだ出来事だった。


 それから二十年以上が経ったのだが、本当に「あっ」とい

う間だったと思う。Y のいなくなった世界がもう二十年も

続いているけれど、そんなに時が経ったようには思えない。

自分は代わりばえのしない日々を送っているし、彼の事を思

い出すことは年に一度程のものだけど、もう二十年以上が経

った・・・。


 「人生とは何だろう」などと思う。

 「生きるとは何だろう」などとも思う。


 苦しむために人は生まれない

 しあわせになりたかった

 たったそれだけなのに


 前に、竹内まりやの曲について書いた時に、歌詞の一部を

変えて、そう書いたけれど(『苦しむために生まれて来たの

か?』2020/4)、人はまるで苦しむために生まれてくるか

のようだ。


 Y も大そう苦しんだのだろう。苦しかったのだろう。そ

して、そこから抜け出す道は見つからなかった・・・。

 彼は死に、自分は生きている。けれど、そこに何か理由が

あるわけではない。ただ、「そうなった」というだけだ。彼

が死んで、自分が生きているということが、僕は不思議でし

ようがない。「これは何なんだろう」と思う。二十数年前に

死んだのが自分で、彼が今生きていても別に不思議ではな

い。


 「あの時死んだのは、自分ではなかったか?」。そして、

「今生きているこれは、彼なのかもしれない」という感じも

する。
 

 大事な人を亡くした人が、「彼の分まで生きる」などと言

ったりするけれど、僕はそう考えない。彼の命は、その表れ

の場を物質界から意識界へと移し、そこで生死を問わず、す

べての命ととけあっていると考える。そうであればこそ、彼

のことを思い出すし、夢にも表れる。「彼は僕を生きてい

る」。彼は僕で、僕は彼だ。


 僕たちはまだ、共に生きている。苦しむためではなく。

 そしていつか、共に死ぬ。苦しむためではなく・・・。


 今夜は、あいつとビートルズを聴こうか。






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