2020年8月26日水曜日

「常識」の外にあるもの



 こんなネットの辺境にも、時々人が訪れてくれる。そし

て、私は少しばかり心配する。

 「こんなの見てて大丈夫ですか?」


 このブログはある意味、「危ない」。うっかり読み進めれ

ば、下手をすると社会不適応者になる危険がある。《正しい

とは、そういうことにしておけば気が済むということであ

る》なんてことを書いているので、ともすれば常識的に生き

てきた人の価値観を根こそぎにしてしまいかねない。だから

心配する(「ウソつけ!」と頭の中で別の自分が笑う)。


 とはいえ、危険なだけなら何もこんなことを書きはしな

い。私はテロリストではない。

 「常識的に生きてきた人」には、危険が伴うけど、もとも

と「社会不適応者」的な人には励ましになるだろうと思って

いる。なぜかと言えば、「もともと、人の本来性からすれ

ば、“社会” の方が異常なんだから、それに “不適応” な方が

まともなんだよ」というのが、このブログ全体に通じるテー

ゼだから。このブログは「社会不適応者」にお勧めする。

(なんだ、この文章は?)


 これまで書いてきたことは、要するに「非常識」なことだ

けれど、人としてのしあわせを考えればそうならざるを得な

い。なぜなら、日本でも他の国でも、「常識」に従って生き

たり、「常識」に逆らって生きたりする人たちが苦しんでい

るのは明白だから、「常識」を一旦わきにどける必要がある

はず。


 「常識」に逆らうことは、「常識」にこだわることだか

ら、結局、裏側から「常識」に従うようなものだ。それでは

「常識」の喜びが苦しみになり、「常識」の苦しみが喜びに

なるだけの話で、「常識」の害悪からは逃れられない。だか

ら私は「非常識」になる。「常識」に逆らうのではなく、

「常識」から離れる。そうして見えてきたものをここに書い

ている。

 なんか、カッコイイことを書いてるようだけど、ようする

に私は「社会不適応者」だから、自然とそうなるだけの話な

んだけどね。


 とはいうものの、私がさっきから言っている「非常識」と

は、“社会にとっての「非常識」” であって、私自身からす

れば、いたって「常識」的なことだ。

 私の「常識」は、“自然” やわたしたちの “感性” に基づい

ている。いわば、実際的で現実的なものです。


 社会は、実際的で現実的な「常識」から乖離した、妄想の

「常識」で組み立てられているので、この世界はいつまで経

ってもゴタゴタし続ける。

 そのゴタゴタに痛めつけられ、それに付き合いきれない人

たちが「社会不適応者」になる。「社会不適応者」は、“社

会の「常識」” の異常さに目をつぶって生きて行くことので

きない人なんですよ。


 こんな話、負け犬の自己欺瞞かもしれない。“まともな人”

がこれを読んだら一笑に付すだろう。でも、そういう人がこ

れを読んでいるなら、こう尋ねてみたい。

 「あなた、こころの底からしあわせですか?」

 そして、私のような人がこれを読んでいるならこう尋ねて

みたい。

 「あなた、こころの底から不幸ですか?」


 社会の教えるしあわせって、上っ面ですよ。

 社会の教える不幸も、上っ面ですよ。

 “しあわせなつもり” も、“しあわせなフリ” も長くは続か

ないし、ちょっと敏感な人ならそのまやかしを無視できない

はず。


 こころに積み重なってる不幸を  しあわせというやつ

  わきにどけて、こころの底を覗けば、そこには不幸も

しあわせも無い。

 そこにあるのは、「自分がここにこうして在る」というサ

プライズ。

 自分を取り囲む状況がどうあろうと、こころの底を覗け

ば、常に「自分がここにこうして在る」というサプライズに

出会う。驚きと安らぎの・・・。


 「あなたは、こころの底から不幸ですか?」




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