2020年8月22日土曜日

なりゆきで・・・



 また今日もブログを書こうとしている。この衝動というか

欲求はどこから来るのだろう?

 このブログを書いたところで、ほとんど誰の目にも触れな

いし、仮にフォロワーが百万人いたとしても、この世は “諸

行無常” なので、「それがどうした」という話だ。

 そういうことを意識しているのにも関わらず、書き続ける

というのは、私のアタマの悪さ故だとも言えるだろうけれ

ど、「そう在らざるを得ない因縁だからそうなっている」と

いうのが本当のところだろう。


 世界では、日々様々な事が起こる。

 平凡なこと、驚くこと、奇跡のような事、そのどれもがそ

うなるべくして起こる。

 それは自然現象に留まらず、人のやることもそうなるべく

して起こる。世界のすべての出来事(素粒子レベルの事さ

え)はそうなるべくして起こる。ようするに「なりゆき」

だ。

 人も、虫も、細菌も、ウイルスも、 自身の目的によって

動くのではない。そうせざるを得ないのでそうするだ

け・・。「なりゆき」だ。


 私がそういう意識を持ちながら生きるようになって、もう

三十年程になる。そのはじまりは、こうだった。


 ある日、ふとこう思った。

 「自分で望んで生まれてきたわけじゃない。もし、自分で

望んで生まれて来たとしても、そんなこと憶えていない。生

まれてきた後で、自分の生きる目的や生きる意味を持ったと

しても、そんなことすべて後付けだ。そもそものスタートが

自分の意志ではないのだから、自分に、人間に、 “自由意

思” などない。すべては “なりゆき” だ」。

 そこから私の人生は、「自分が何かをしてゆく」ものでは

なくて、「自分が何かをさせられてゆく」ものになった。


 それは「なりゆきまかせ」ではない。

 「なりゆきまかせ」なら、「なりゆき」に任せるという意

思が存在するけれど、その意志さえ「なりゆき」で生まれる

ものだから、「なりゆき」を見守るという “なりゆき” を見

守るという〈なりゆき〉を見守る・・・・(以下省略)、と

いうものになった。

 というわけで、《世界は惰性で動いている》などと言う。


 そして今日もこうして「なりゆき」でブログを書くことに

なっているのだが、突き詰めて考えれば、そこには何の意味

も価値も無い。ただ、そうなるべくしてそうなっていること

がそのようになっていると言う他ない。どうにもこうにも身

も蓋も無いので恐縮するぐらいだね。


 そう、この世界というのは、その本質は「身も蓋も無い」

のだ。


 「この世界の本質は、身も蓋も無い」などというと、なに

やら虚しくなりそうだが、「身も蓋も無い」というのは「入

れ物が無い」とうことなので、世界を「身も蓋も無い」と捉

えることは、世界を区切る「自分」という「入れ物」が無く

なり、自分と世界が一つになることを意味する。「身も蓋も

無い」ことは、進んで求めるべき事なのだろうと思う。

 あらゆる事が身も蓋も無くなって、あからさまになると、

すべてが明らかになる。人の条件付けから解き放たれて、世

界に解き放たれる。


 とはいえ、そうなるかどうかはやっぱり「なりゆき」で、

そうなってからどうなるかもやはり「なりゆき」だから、こ

うしてくどくど話を続けても「それがどうした」というとこ

ろに戻ってしまう。・・・というのもやはり「なりゆき」

で・・・。こういうのを無限訴求というけれど、ここで笑っ

てしまえるならば、それはありがたい「なりゆき」だ。


 つまるところ、“自分ごっこ” とでもいうようなものを楽

しめれば、それはラッキーだと思うね。

 「なりゆき」って、面白いよ。





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