2018年4月29日日曜日

あなたと私の必要性


 書いておいて何だけれど、見た方は、少しケンカを売られ

てるような感じがするかも知れないタイトルだなぁ。


 あなたは、この世に必要でしょうか?

 それとともに、私はこの世に必要でしょうか?


 別に必要ないでしょうね。


 「そんな身も蓋もないこと、言うなよなっ!」


 そんな反応も有りそうですが、“「あなたや私」に必要性

があるかどうか” という事ではなく、“あなたや私を「必要

性」という見方で捉えていいのか?” 、 という方向から考え

てみようという話です。


 世の中では、あらゆるものが「要・不要」で判断されま

す。もちろん人間も例外ではない。

 「役立たず」とか、「能無し」とか、「でくのぼう」とか

思われたり、思ったりする。

 最終的に「必要ない!」、「ジャマ!」というジャッジを

されてしまったりする・・・。ああ、辛い・・。

 だから、みんなそうならないように必死です。

 「人にどう見られるか?」

 「自分で自分をどう見るか?」

 わたしたちの関心事の大部分がそれで占められています。

 やだね~。


 けれど、人間を「必要性」で見ていいのでしょうか?

 そりゃあ、そういう見方が必要な局面が、世の中では多い

でしょうが、人間というものを見る時に “はじめに「必要

性」ありき” というのも、もうそろそろいい加減にしましょ

うよ。

 だってね、「必要性」という考えは、前提として “ある条

件” が設定されて、初めて意味を持つものであって、その 

“条件” 自体が不必要になったら、求められていた「必要

性」なんて何の価値も無い。“ある時と場所” でだけ価値を

持つものです。

 そんな ”ある時と場所” の為に、うっかりすれば自身の、

あるいは誰かの全人格まで、「取るに足りないもの」とする

のが、この社会。

 “ある時と場所” という、時間と空間を固定された中で、

人間(だけに限った事ではないが)を観ることは、“違う時

と場所” からの反作用をもたらす事になるでしょう。



 人間は、「必要」だから存在しているのではない。

 「要・不要」という事を超えて、〈存在している〉という

“リアル” に想いを致さないから、世界が駆け引きの場所に

なってしまう。



 あなたも私も、この世界に必要ありません。


 あなたが居ない世界は、《あなたが居ない世界》です。

 私が居ない世界は、《私が居ない世界》です。

 それぞれに何の問題もありません。

 また《あなたが居る世界》も《私が居る世界》も、それぞ

れに何の問題もありません。

 何が欠けようと、何が加えられようと、世界は《その世

界》として成立する。そして《あなたと私が居る世界》は、

今、確かに成立している。


 「要・不要」なんてことは、不要です。無意味です。

 居るものは、居るのです。

 存在するものは、存在するのです。

 そこに「要・不要」などという “ジャッジ” を持ち込むの

は、“その時と場所” に有利な立場に立っているエゴの駆け

引きに過ぎない。「要・不要」などという事を、ことさらに

言い立てるのは、卑怯者のすることです。



 「卑怯」はダメですよ。

 「卑しく」て「怯えてる」わけですからね。

 表面上 “有利な立場” に立っているようで、その実、不安

定さを感じているので、「自分に分がある」と見るやいな

や、他人を評価することで自分の立ち位置を固めようとす

る・・・。

 逆に「高貴」で「安心している」人は、自分の尊厳を疑わ

ないので、「自分に分があるか」とか「他人がどうあるか」

とか気にもならない。

 「自分がどんな評価をされようが、自分は今・ここに在

る」

 そのことに落ち着いている。



 あなたも私も「必要」ではありません。
 

 あなたも私も、今・ここに在る。

 「要・不要」などという世の中のペテンに、自分を見失わ

ない様に・・。「不要」なのは、わたしたちを利用して自分

の立場を固めようとする、世の中の〈エゴ〉の方ですから

ね。




2018年4月22日日曜日

空中元素固定装置


 《「空中元素固定装置」とは、キューティーハニーに内蔵

されたメカニズムで、空気中や周辺の物質を一端原子レベル

に分解して、あらゆる物に再構成させることが出来るもので

ある。》

 であるのだが、ここではキューティーハニーの話はしな

い。お話しするのは、実在する「空中元素固定装置」のこと

である。何のことはない。植物のことなんですが・・。


 今日、我が家のクレマチスを見ていて、「明日には花が咲

きそうだな」と思いながら、「しかし、空気中の二酸化炭素

や、地中の水や窒素なんかが凝集してこれになるんだものな

ぁ・・」と、あらためて自然の不思議というものを感じてい

たのでした。

 本当に、人の目には見えないレベルの物質が集められてき

て、葉や花や茎になってゆくのだから、考える程に不思議で

す。

 種が成長してそうなるというのが、当たり前の捉え方です

が、実質的には、〈種〉はそれぞれの種(しゅ)を形にする

ためのプログラムが入ったファイルであって、プログラムを

実行できる条件下に置かれると、自動的に始動して、必要な

原子を組み立てて行く「空中元素固定プログラム」なんです

ね。

 わたしたちは、植物に限らず「成長」というと、風船が膨

らんで大きくなるようなイメージを描くと思うんですが、実

際の〈成長〉は、「個体が、置かれた環境にあるものを自身

に取り込んで再構成することなんだ」と今さらながら思いま

した。

 〈成長〉とは、同じものが拡大されてゆく事ではなくて、

個体の可能性の範囲内で、付加的に変化して行くことだと。


 わたしは、わたしを保ち続けることは出来ない・・・。

 “今のわたし” が〈成長〉するのではない。

 次の “今のわたし” に変わって行くのだ。


 まわりの状況によって、何かが付加され、何かが取り去ら

れ、“今のわたし” が “別のわたし” に変わって行く・・・、

一見 “わたし” が続いて行く様に見えるけれど、それを “わ

たし” と呼んでよいのか? 

 “今日のわたし” と “明日のわたし” を続きのものと見るの

は、人間の便宜上のことと考えておくべきだろうね。(そう

しないと、世の中が成立しなくなっちゃうものね)


 わたしたちは、過去の行きがかりの中で生きることを余儀

なくされるけれども、それは便宜上の事であって、本質的に

は違うんだと思っていれば、ちょっと気楽に生きられるんじ

ゃないかな? 「過去は過去、それはそれ」と思えれば。


 キューティーハニーの様に、自由自在に姿を変えることは

出来ないけれど、わたしたちも常に姿を変えている。


 クレマチスが冬には枯れ、春には芽を伸ばし、そして美し

い花を咲かせるけれど、「枯れる」のも「芽を伸ばす」のも

「花を咲かす」のも、その時その時のそれぞれの在るべき

姿・・・。どれが良い悪いではなく、それぞれにその時に応

じたクレマチスの姿です。 


 人も、それぞれにその時に応じた姿を見せるだけ・・。

 「枯れる」ときには枯れているだけ、「花が咲く」ときに

は花が咲いているだけ・・。


 〈成長〉という話をしたけれど、〈成長〉という概念がそ

もそも間違いの元なのかも知れない。

 その時その時、「そう成る」だけ・・・。


 〈如是〉(にょぜ)という言葉がありますけどね、「かく

(是)の如し」という意味だそうですけど、「今在るそのま

んま」ということで、「今は今・・、だから今」、そんな感

じでしょうか。


 明日は、クレマチスの花の姿と会うのでしょう。

 花の時は、花を愛でる。

 そして私は、“花を愛でる私” の姿に成る。
 

 明日は、どんな私に出会うのだろうか。


 (今置かれた状況が、こんなブログとして固定されまし

  た。結局「成るように成る」というお話しでしたね。)








 

2018年4月21日土曜日

「わび・さび」で、ブラタモリ!


 さっき、『ブラタモリ』を観ていた。今日は〈銀閣寺〉が

お題で、「わび・さび」の原点という様な話だったんだけ

ど、なんだって日本は「わび・さび」なのか?

 やっぱり、湿気が多くて木造建築が長く持たなかったり、

災害が多くて人工物が残り難いなんていうことからきている

のかなぁ。「手の込んだことをしたって残らないよ」と。

 それと、やはり〈禅〉の影響は大きんだろうけど、〈禅〉

の影響を大きく受けやすい風土というものが、そもそも日本

にあったので、〈禅〉が深く根付いたとも言えるだろう。



 「わび・さび」を正確に説明するのは無理なんだろうとは

う。すごく微妙なイメージだから、「雰囲気で分かれよ」

言うしかないでしょう。でもまあ、話の前提として言葉に

なくちゃしょうがないという事もある。

 普通「質素」ということが、まず言われるけれど、「質

素」って「“質” の “素”」ですよね。「物事の本質」という

ほどの意味でしょうね。

 「質素の中の美」などという事が言われるけれど、「わ

び・さび」って、「物事の本質が持つ美を観じて、畏敬の念

を持つ」ということであろうと思うわけです。
 

 でも「物事の本質」とは言うものの、松の木が一本生えて

たら、それはそのまま松の木であって、「本質」もへったく

れもないだろう。見たまんま。「松の木!」、以上終り。

 なのに「本質」なんてことを言い出してしまうのは、わた

したちが常日頃から、物を見る時に脚色してしまうクセがあ

るからでしょう。

 見えてるまんまを観ていない。

 思考のフィルターが掛かり、それぞれの価値感のバイアス

が掛かる・・・。「わび・さび」の感覚は、その思考のフィ

ルター、価値感のバイアスから抜け出すことで、感じられる

ものでしょう。



 しかし「わび・さび」を語る時、ミイラ取りがミイラにな

るといった具合に、困ったことが起きる。例えば、《古池や

蛙飛び込む水の音》という句を、「良い句だ」と言った時に

は、そこには「良い句」という評価が入り込んでいる。

 「古池に、蛙が “ポチャン” と飛び込んだ音で、その後に

静寂が際立ち、世界の無限の広がりを観じた」のであれば、

それは人間の評価の枠を超えていて言葉にならない。

 言葉にならないからこそ、芭蕉は《古池や蛙飛び込む水の

音》という情景だけを詠んで、それ以外は口をつぐむしかな

かった。

 「良い句だ」と言ってしまったら、その途端に、この句の

持つ世界の外へ出てしまっている。とはいえ、「良い句だ」

と言わなければ仕方がないところに、わたしたちの “言葉

(思考)の世界” の面倒臭さがある。

 “言葉の世界” の外に在る世界を指し示す為に、言葉を使

わざるを得ない・・。というわけで、「わび・さび」の説明

は、誰がしたって要領を得ない。
 

 結局のところ、「世界の無常・自然(じねん)」にじっく

りと向き合って、「在るがままを知ること」でしょうね。

 だから〈禅〉と関わってるわけで・・。



 と、いま前の道を暴走族のバイクが 80台ぐらい爆音を立

てて通って行った・・・。

 《古くより 変わらず響く 馬鹿の音》

 私が子供の頃には、ああいうのは『カミナリ族』と呼ばれ

ていたのだけれど、それからおよそ半世紀。人間は相変わら

ずだ。

 社会に誘導され、刷り込まれて形作られた自らの〈エゴ〉

に、本来の自分を抑圧され、それを解放しようとする・・。

けれど、その方法がやはり〈エゴ〉の刷り込みの範囲内のも

のなので、まったくみっともない。

 前にも書いたのだけれど、彼らは毎週きちんと決まった時

間に、サラリーマンのように夜の道路に出勤する。

 「社会の枠」から逃れて、別の「社会の枠」に移動するだ

け・・・。ちょっと、深く考えられたらいいのになぁ・・。

 「あっちは “カッコワルイ” から、こっちが “イイ” 」

 世の中の評価に関わってるうちは、同じなんだよね。


 『悪美・殺美(ワビ・サビ)』なんて名前の暴走族が居た

ら面白いかもしれない。(笑うところですよ)


 話がそれたような、深まったような感じですが、「わび・

さび」という言葉が存在していて、それを意識できるという

ことは、日本人として生まれたことの恵みでしょう。

 〈エゴ〉を黙らせて「在るがまま」の世界を観じる・・。

 「わび・さび」という言葉に誘われて・・・。










2018年4月18日水曜日

ベンチに寝ころばせろ!


 これは、家の近くの公園にあるベ

ンチです。真ん中に手すりの様な金

具が付いていて、寝ころべないよう

にしてあります。いわゆる『排除ア

ート(排除デザイン)』というや

ですね。




 最近は、どこの公園でも、駅前の広場などでも、新しく設

置されるベンチはすべてこのタイプの物で、ホームレスがベ

ッドに出来ないようにこのようなデザインにしている様で

す。



 私が、この手のベンチに気が付いたのは十数年前でしょう

か? それ以来みるみる増殖し、どこもかしこもこのタイプ

のベンチだらけになりましたが、ハッキリ言って、私は不愉

快です。「寝ころべないベンチなんて、ベンチじゃない!」

と私が思っているからです。



 ホームレスの為を思って言っているわけではありません。

 単に、自分が寝ころべないのが気に入らないのです。

 「何だって、こんなに意地が悪くて、ケチ臭いんだ!」

と、憮然とします。

 仮に、ホームレスの立場になってみても、「そんなにホー

ムレスが嫌いなのかい?」と毒づきたくなりますね。



 こういう所にも、日本の・・、というか都市のコントロー

ル願望が表れる。「管理できないものは排除する!」以上。



 管理して、管理して、排除して、排除して、管理できる物

(者)だけで社会を作って、自分の身体も心も管理して、思

い通りにして・・・。そういうのは普通、ただの〈わがま

ま〉と言うんだと思うんですけど・・・。
 

 今朝も、「沖縄で麻疹が流行りかけている。愛知でも感染

者が確認され、今後、広がる可能性がある」という、深刻ぶ

った報道があった。

 私たちの世代なんか、みんな普通に麻疹にかかって、高熱

で「ウンウン」言っていた経験があるけれど、「友達が何人

も死んだ」なんてことは無い。

 「最悪の場合、死亡するケースもある」なんて、テレビで

言っていたけれど、水虫だって「最悪の場合」死亡するケー

スもあるだろう。(と、嫌味を言ってみる)



 ちょっと、病気の立場になってみる。



 「そんなに、感染症が嫌いなのかい?」

 「そんなに、ガンが嫌いなのかい?」

 「そんなに、頭痛が嫌いなのかい?」

 人類は誕生以来、病気と共に生きて来たと思うんだけど。
 

 そして、日本人はホームレスだって “病気” だと思ってい

るのでしょう。



 「管理できないモノは気持ち悪い」 

 「管理できないモノは存在してはいけない」

 「管理できないモノは見えない所へ」

 「管理できないモノとは関わりたくない」

だから、「排除」。


 環境も、自分自身も、すべてを管理して生きてゆく。けれ

ど、そのような状況で生きることが本当に望ましいのか?

 果たして、そのような状況を「生きている」と言えるの

か?



 すべてが想定内で、全てが予定通りで、すべて結末が決ま

ってる・・・。

 すべてが「安心安全」で、危険はどこにも無い・・・。

 そんなの「生きてる」と言えるんでしょうか?


 前にも書いたけれど、二・三十年後に時の総理か厚生労働

大臣がコメントしますよ、「生きていると様々な危険が有り

ますので、国民の皆様におかれましては、出来るだけ『生き

ない』ようにして下さい」。



 「安心安全」

 「想定外・規格外は排除」


 「安心安全」の気遣いにあふれた世の中は、「異物を排除

する」酷薄な世の中と背中合わせ。必ず、セットになってい

る。けれど、当事者たちは自分に都合の良い面しか見ない。

 この世の、どんな出来事だって、「良い面」だけで出来て

はいない。そもそも「良い」も「悪い」も無い。それぞれの

都合で、それぞれの好みで、「良かったり」「悪かったり」

するだけ。わがままも大概にして欲しいと思う。



 “寝ころべないベンチ” を求める人は、ベンチに寝ころが

って、空を眺めた事なんかないんだろうなぁ。

 「ホームレスが寝ている一つ隣のベンチで、寝ころがって

流れる雲でも見上げてみればいいのになぁ」と思う。
 


 話は変わりますが、公園と言えばこんな水道をご存じでし

ょう。


 ばね式の、節水型のカランが付

いているやつで、おなじみの物で

すが、片手でカランをひねってい

なければ水が止まってしまうので、

自分一人では手が洗えません。

手も洗えない水道なんて・・。


 私はこの蛇口を考えた奴は、“人類史上最もケチ臭い人間”

だと思っています。そして、この蛇口を公共の場に採用する

人間は、“公務員の恥” だとも思う。ケチにも程がある。

 節水なら、他にもやり方があるだろう。

 この蛇口が、日本中の公共の場から無くなるまで、私は日

本を文化的な国だとは認めない。

 こんな税金の使い方をするんじゃない!


 (いま気が付いた! 私が「安心安全」に虫唾が走るの      

      は、「安心安全」を言う奴が “ケチ臭い” からなんだ

      な・・。)






 



2018年4月15日日曜日

付加価値を追い求めて・・・


 今回は「付加価値」について考えてみたいと思いますが、

何だってそういう話になるかというと、昨日 “〈アルマー

ニ〉のスーツ” という物に触れる機会があったわけです。

 私はブランド物には何の興味も無く、“〈アルマーニ〉の

スーツ” を実際に目の当たりにしたのは初めてだったもの

で、改めて「付加価値」なるものを考える気になったのでし

た。


 「付加価値」というと、まず思い浮かべるのがビジネスの

現場。

 商品やサービスを売り込む為に、いかにしてその「付加価

値」を高めるか? あらゆるビジネスがそこに焦点を当て

て、日々しのぎを削っている。

 けどね、「付加価値」などというものが存在するのだろう

か? いったい、何が「付加」されうるのか? 「付加」され

たものとは何か? 

 それは、単に「思い込み」です。

 「そういう事を、価値あることとする」という、人間間の

共通認識。約束事です。



 ブランドなどはまさしくそうで、「ブランドそのものに

“価値がある” ことにする」という “お約束” ですが、その様

なものだけではなく、一見実際的な価値があるように思える

ものでも、つまるところは “お約束” です。


 例えば、〈新幹線〉。

 「速い」「乗り心地が良い」などの「付加価値」があっ

て、その分料金が高いわけですね。「速い」「乗り心地が良

い」といった事は実際的な事ですが、でもなぜ「速い」事が

「付加価値」になるのでしょう? よくよく考えれば、そこ

には「速さ」と「付加価値」の確固たる相関はありません。

同様に、「乗り心地が良い」事が「付加価値」たり得る確固

たる理由も無い。

 どちらも「それを付加価値とする」というJRと、それを

承認した人との間に持たれる、 “約束事” だけの話ですね。


 最新技術だとか、最先端医療だとか、新薬だとか、耐震性

の高い住宅だとか、様々に「付加価値」を謳うものがありま

すが、どんなことであれ、それを承認するかどうかの話であ

って、絶対的な「付加価値」といものは存在しませんね。


 ここまでに挙げた事などは、江戸時代には無かった事です

が、だからといって江戸時代の人たちが「価値の低い」生活

をしていたかというと、そんなことはないですよね。「今と

は違う」というだけです。さらにいえば、縄文時代の生活は

どうだったかと考えても、やはり「今とは違う」だけで、乗

り物が無かろうが、医療が無かろうが、彼らは立派に生きて

来て、それゆえにこそ、私たちがいま存在しています。

 逆に「付加価値」ということで見ると、人間関係と高度管

理社会のストレスに晒されている “現代” と、自然の脅威に

対してのストレスは強くとも、人間関係と社会のストレスと

はあまり縁の無かったであろう “縄文時代” とでは、どちら

が「価値が高い」のか? どちらも一長一短、人の好き好き

でしょう。


 そんな風に、どの様な「付加価値」も絶対性を持っていな

い中で、あらゆる職業が「付加価値」を謳うことで仕事を進

めています。要するに、無理やり仕事を創っているわけです

ね。

 「右肩上がりで、進まなければならない!」という社会を

続けて来過ぎたので止めようが無くなって、「とにかく『付

加価値』!」、「何はともあれ『付加価値』!」という “付

加価値幻想” に取り囲まれて、それ以外の「価値判断が出

来ない・・。


 誰も彼もが「付加価値」ばかりに目を奪われて、「付加価

値」以外の “価値” というものの存在など、「存在」も知ら

ない・・・。


 そりゃぁね。「付加価値」も要るでしょうよ。

 生活して行く上での「安らぎ」や、人間としての「楽し

み」も必要ですよ。そんなもの何にも無しで、他の動物と同

じように生きて行くのなら、人間としてつまんない。とはい

え、「付加価値」を求める事に度が過ぎると、人間同士の 

“約束事” に取り込まれて、もっとつまんない事になる。実

際にもうなっている。

 「それが普通だ」と、疑わせないように仕向けられてるか

ら分からないだけで、ホントは酷くつまんない世の中だと思

うんだけど?

 「付加価値」なんて、子供がぐずらないようにする為の

“あめ玉” か “おしゃぶり” みたいな物ですよ。特に現代は。


 “約束事” の中で生きてる内に、“約束した覚えのない

〈死〉” がやって来て、“約束事” もろとも GEME OVER .

 ”約束事では無い〈生〉” は、生きられずに終わる・・。
 

 「付加価値」の後ろを覗いてみれば・・・。
 

 世界は無限に広い・・・・。




2018年4月10日火曜日

「スキャンダル・クラブ」


 以前にも話題にしましたが、坂田靖子の『バジル氏の優雅

な生活』というマンガが好きでして、その中の「スキャンダ

ル・クラブ」というエピソードに大好きなシーンが有りま

す。

 「スキャンダル・クラブ」とは、暇な男たちが集まって、

社交界の噂話に花を咲かせるという、下らないクラブなので

すが、主人公のバジルが、親友のオーソン卿を訪ねて「スキ

ャンダル・クラブ(ナルシス&エコー・クラブ)」を訪れた

時に、受付のゴッドフリーと交わされるやり取りが素晴らし

い。
   

  (バジル=バ  ゴッドフリー=ゴ)



 バ「取り次げないとはどういう事かな? オーソン卿

     はここだと聞いたが・・・・」

 ゴ「はい、たしかにいらしておられます。ですが、当クラ

   ブは規則により、御婦人のクラブ内立ち入りを、認め

   ておりませんので」

 バ「クラブはどこもそうだが、私と何の関係があるのか

   ね?」

 ゴ「  と同時にクラブ員以外の方の、立ち入りと取次ぎ

   も認めておりません。これは規則ですから」

 バ「急用の場合はどうなるね?」

 ゴ「数時間、連絡がとれなかった所で、取り返しのつかぬ

   大事に至る事はありますまい」

 バ「しかし、万が一という場合もあるだろう」

 ゴ「さよう、その場合は、我がスキャンダル愛好クラブに

   、大きな話題をひとつ提供する事になりましょう」

 バ「(!)君の言う通りだ! 失礼した。」

 ゴ「おそれいります。」


 この作品が描かれた当時、まだケータイは無い。けれども

このやり取りがジョークとして成立するということは、この

当時  ビクトリア朝のイギリスではなく、1980年代の

日本  であっても「連絡がとれる事」と「安心安全」が、

社会の優先事項であったことを表わしている。ましてや、ほ

とんどの人間がスマホを持ち、いつでも連絡がとれ、GPS 

で居場所を特定できる現代では、このジョークの破壊力はさ

らに大きい・・・。



 「連絡がとれる」という事は、そんなに重要な事なのか?

 「万が一の、取り返しのつかない事態」とは何を指すの

か?

 ゴッドフリーがユーモアとエスプリで常識を煙に巻くと、

それに粋人バジルが応える。


 〈 すぐに連絡がとれると、自分の都合が付きやすい 〉

 「連絡がとれる」という事は、結局そういうことであっ

て、「不測の事態を避けたい」「状況を自分のコントロール

下に置きたい」という願望の表れです。自分の気の済む様に

したいから、「連絡がとれる」ようにしたいのです。

 けれど、それはどれほど人の幸福に資するのか?


 私が子供の頃、ケータイは無い。自分も友達も、日が暮れ

るまで遊んでは、晩ごはんの頃に家へ帰る。親たちは、子供

が何処で誰と何をして遊んでいるかなど気にしない。晩ごは

んの頃ぐらいに帰ってくればそれで良い。

 親子共に、お互いの最低限のルールを守っていれば、「そ

れで良し」としていて、それで問題は無かった。「連絡がと

れない」のが当たり前で、それが標準だから、親もある一線

までは気に病まない。それで、当時の日本の子供が危ない目

に合ったかというと、特にそんなこともない。

 けど、今は「いつでも連絡がとれる」が為に、ほんの少し

連絡が無いだけで気に病むようになった。連絡することが、

ほとんど義務になった。それは何も親子の間に限ったことで

はないのは、誰もが知っていることだ。


 けれど「連絡がとれる」ことで、万が一の事が防げるかと

いうと、それはまったく別の話でしかない。連絡がとれよう

がとれまいが、万が一の事は、起こる時には起る。

 逆に、すぐに連絡がとれない時は、あらかじめ万全の打ち

合わせをしておこうとするものです。実際、昔はそうしてき

た。(デートの待ち合わせで、「何時に・何処で」などとい

うことを間違えると「取り返しのつかない」事になりかねな

いので、必死でした。今の子はケータイがあるから「待ち合

わせの “ドキドキ”」なんて知らないんだよ。可哀相に)


 今のように、すぐ「連絡がとれる」状況だと、連絡がとれ

ないというだけで、「十に一」程度のことを「万が一のこと

が起きたんじゃないか?」と妄想して、気に病む人が多いだ

ろう。(実際に、それで病んでしまう若い子は多いみたいだ

しね)

 『繋がる』なんて言葉が、異常にプラスイメージで語られ

ていた事があったけれど、気持ち悪かったなぁ。

 なんでそんなに「連絡をとりたい」のかなぁ。依存症とし

か思えないんですよ。私には。


 「連絡がとれなくて、万が一の事が起こる」としても、自

分が当事者じゃなかったら、みんなそれを待っているわけで

しょう?

 ネット上は、間違いなく『スキャンダル・クラブ』じゃな

いですか。

 しかもそこにはゴッドフリーは居ない。


 ユーモアもエスプリも無く、「ジョーク」ではなく、「悪

ふざけ」と「愚痴」と「嫉妬」などが溢れかえっていて、

『スキャンダル・クラブ』というより、“スキャンダル部落”

という感じですね。「クラブ」は遊ぶところ。「部落」は生

活するところ。

 ネット上のスキャンダルは、生活の中に「悪ふざけ」と

「愚痴」と「嫉妬」なんかが、深く根付いてしまってる人間

達のドラッグの様なもの。“浅ましい” ばかり・・・。


 ネットに限らず、テレビでも週刊誌でも、わたしたちは他

人に起こる「万が一の事」が大好きです。

 「万が一の事」が起らなければ、「百に一」程度の事を大

事の様に騒ぎ立ててでも、欲求を満たそうとする。
 

 二言目には「安心安全」なんて言いながら、何か自分の興

味を掻き立ててくれる様な、大きな事件が起こらないか、今

か今かと待っているのが、人間です。

 そして、「自分はそれを “見る側” だ」思っているので

す。根拠もなく。


 自分が、いつスキャンダルの種にされるか分からない。

 (「炎上」ですね)


 自分がスキャンダルに舌なめずりするのなら、せめて「自

分が舐められる側になることがあるかも知れない」という覚

悟が欲しいところですが、“スキャンダル部落” の人間に、

そんな知性が有るわけもない。


 ゴッドフリーは、うんざりして帰ったようだ・・・。






2018年4月8日日曜日

『ミダースの手』


 《 昨日は前世と思え 明日は来世と思え 》



 “今に在る” ことを意識するには、そんなキーワードが有

効かもしれません。
 

 生まれてから現在まで、わたしたちはそれをひとつの人生

として捉えますし、現在から死ぬ時までそれが続くと考えま

す。しかし、“これまで” も “これから” も、わたしたちの思

考の中のものであって、現実には存在していません。それを

「前世」や「来世」と言っても、不都合は無いでしょう。む

しろ、そんな風に捉える方が、過去や将来の呪縛から逃れら

れて、自由になれます。


 社会で生活する上では、“これまでの事” と “これからの

事” に配慮することは必要ですが、それは「続き」としてで

はなく、今に対処するための「情報」として必要なだけで

す。

 過去は “行きがかり・しがらみ” としてではなく、将来へ

向けては “計算・願望” などとしてではなく、「過去」と

「将来」は、「今」を充実させるための参考資料として使わ

れるべきものです。



 「今の充実」とは何か?

 それは何も、「今、素晴しい仕事をする」などといった事

を指しません。単に「今を充分に意識している」こと、過去

への後悔や恨み、将来への不安や疑いにとらわれずに「今に

関わること」です。「今すべきことをする」。



 近所の桜の花もほとんど散り、葉桜になりました。

 桜が咲く前に「桜の花はいつ咲くのだろうか・・」と思

い、花が終れば「ああ、桜の花が終ってしまったな・・」と

思うのではなく、桜の花が咲いたら「桜が咲いたな」と思

い、花が終ったら「桜の花が終わったな」と思う。

 その時々の桜を愛でる。

 「今を充実させる」とは、「今、在るものを愛でる」こと

でしょう。愛でれば、“めでたい” のですから・・・。
 

 葉桜を愛でる人はあまりいません。それは葉桜が美しくな

いからでしょうか?

 いいえ。「葉桜を美しい」と思う能力を、育んでいないだ

けのことでしょう。



 確かに、木を覆い尽くして咲くソメイヨシノの花は、有無

を言わせず本能的に人を引き付ける力が有ります。それは一

種、麻薬的な刺激です。ある意味、人を狂わせます。そうい

った「高揚させる」種類の美しさではなく、人の心を「静か

さへ誘う」美しさが、葉桜にはあります。というか、葉桜を

「美しい」と思える能力は、あらゆるところに「美しさ」を

見い出せます。『ミダースの手』です。(“ミダース” は、

ギリシャ神話に登場する王。触ったあらゆる物を黄金に変え

る能力を持つ)


 『愛でる力』と言ってもいいでしょう。

 世の中の、慣習や価値感に囚われない、自由なセンスで

「今在るもの」に触れてゆく。

 常に「存在の絶対性」に目を向ければ、あらゆるものが愛

おしく見えてしまう・・・。それが『愛でる力』、『ミダー

スの手』。


 わたしたちの感性には、あまりにもきつく “社会の枠” が

嵌められています。

 桜の葉の緑、葉の形、枝の付き方、木肌の色・質感、樹

形、あらゆるものが自然の不思議です。もちろん花も・・。

 そこには、改めて目を凝らすと、驚嘆すべき “造化の妙”

が有ります。(レイチェル・カーソンの『センス オブ ワン

ダー』という本がありましたね)


 すこし話がそれかけましたが、「今ここに在る」ものに目

を向け、それを尊重することは、人を落ち着かせ、喜びへ誘

います。

 「今、ここに、生きている」

 「今、ここ」にこそ、美しいものが溢れている。


 わたしたちには、本当は『ミダースの手』が与えられてい

る・・・。アタマが邪魔しているけれどね。



2018年4月7日土曜日

「エホバの証人」さんたち


 今日、家の前で花の手入れをしていると、二人の女性が話

しかけて来た。〈エホバの証人〉の信者である。

 私は、こういった人を無下にはしない。当人たちは至って

真面目だし、特に害も無いので、一応相手をしてあげる。

 「すこし、お話をさせてもらえますか?」と言うので、

「すこしなら、いいですよ」と聞いてあげる。


 彼女ら〈エホバの証人〉の考えは、「神の教えに従って、

正しい行いをすれば、世の中が良くなる」という事と、「神

の教えを忠実に守れば天国に行ける」という事だと思ってい

いのだろう。で、今日は「人間の間違った行いによって、環

境破壊などが起きている・・・」などといった話を投げかけ

て来た。


 適当に私なりの返答をして、機嫌良くお引取り頂いたのだ

けど、「正しい行いをしたら環境破壊が防げる・・・」なん

て事を、私が思うはずもない。

 たとえ、全人類が “物質的豊かさ” と “行動すること” に

価値を置くことを止めたとしても、これだけ人口が膨れ上が

ってしまえば、もはや深刻な環境破壊は避けられないんじゃ

ないか? 

 もちろんペースダウンさせたりする事は出来るだろうけれ

ど、環境保護を強く推し進めれば、生産力の低い土地に暮ら

す者は、相当なダメージを受ける事になるだろう。


 日本では杉を植え過ぎて、花粉症の問題を引き起こしたり

して来たけれど、今の日本の森林面積は、先進国では考えら

れない程広い。国土の60%以上が森林だという。

 だから「日本は自然を大切にする “心” と “智恵” を育ん

できたのだ」などと考えている日本人も多いだろうが、とん

でもない話である。

 今の日本に森が多いのは、そもそも急峻な山地が多くて開

発し難い事と、明治以降石炭・石油を燃料と資材にする事が

出来る様になったので、森に手を付けなくて済む様になった

からに過ぎない。江戸時代までには、人口密集地の周辺や、

街道沿いの土地などはハゲ山になっていて、危機的な状況を

迎えていたのだ。

 たまたま、人類が石炭・石油を使う事を覚えたのとタイミ

ングが合ったので、その余裕で森を復活させることが出来た

だけである。


 環境破壊とは、石炭・石油に由来する「ゴミ問題」  

CO2・プラスティック・化学物質など  と、石炭・石油

のパワーを使った環境の攪乱である。(原子力でさえ、石油

が無ければ利用できないだろう)

 環境破壊を防ぐためには、石炭・石油の使用を辞めねばな

らない。するとどうなるか?

 森が無くなる。土地が痩せる。海が痩せる・・・。
 

 人の暮らしを守るか? 環境を守るか?


 件の女性たちに対して、そんな込み入った話はしなかった

けれど、「世界を創ったのは、人ではなく、神でしょ?人が

滅びるにしても、生きて行けるにしても、そんなことは神様

にまかせていれば、それでいいんじゃないですか? 神様が

決めるのだから、それに間違いはないはずでしょう。人間は

その〈さだめ〉を受け止めて、“幸福” だと感じていればい

いのだと思いますよ」などとお答えした。


 環境破壊で人間が自らの首を絞めない為や、人間が幸福に

生きて行く為にはどうしたらいいか?

 もう遅い気がしているけれど、三十年以上前から私はこう

思っている。


 「みんなで貧乏しない?」


 (一時、“清貧の思想” なんていうのが流行ったけどね)


 それでどうにかなるかと言えば、やはりどうにもならない

だろう。先に書いた様に、人口が増えすぎている。
 

 人類が、全体的に大きな試練を迎える事は避けられないよ

うに思う。けれど、現在の豊かさは(今も豊かでない人々が

大勢いるけれど)、人類レベルで内面的豊かさを共有する為

の、ステップに成り得るとは言えるだろう。

 王子として生まれたゴータマ・シッダールタが、豊かさを

知り尽くした後に、無常を感じ、やがて悟りを得て〈ブッ

ダ〉となった様に、今の人類の豊かさは人を次のステージへ

進ませるかも知れない・・・。
  

 「みんなで貧乏しない?」


 「みんなで退屈を楽しまない?」
 

 早ければ早いほどいい。

 そうすれば、人類が受ける試練の深刻さはマシになる。
 

 それが「神の御心」ならば、「仏のご縁」ならば、人をし

て、そうするだろう。

 人が滅びようが、生き延びようが、不幸になろうが、幸福

になろうが、何にしても “人の都合” の中での、右往左往で

しかないことには変わりは無い。


 「あなたは、〈神〉さまを信じてらっしゃいますか?」


 「〈神〉を信じる」だなんて、そんな不遜な!

 〈神〉は信じるものではない。

 〈神〉は・・・、〈神〉には “降参” するしかない。

 いや “降参” させられれば、そんな有り難いことはない。


 と、あの女性たちにこれを読ませたいところだけれ

ど・・・。





2018年4月4日水曜日

そこにはただ風が 吹いているだけ


 人はだれも唯一人 旅に出て

 人はだれもふるさとを ふりかえる

 ちょっぴりさみしくて振りかえっても

 そこには ただ風が吹いているだけ

 人はだれも人生につまずいて

 人はだれも 夢やぶれ振りかえる・・・・



 私なんかの世代にはなじみの深い〈はしだのりひことシュ

ーベルツ〉の『風』です。1969年の作品ですから、ほぼ五

十年前の曲という事になりますね。(年を取ったんだなぁ)
 

 私は最近の曲も聴きますが、こういった古い曲も日常的に

聴いています。

 そんな昔の曲の歌詞を眺めていて、さっき気付いたのが、

「自分はこの頃の歌の詞に、影響を受けているんだなぁ」と

いうことでした。

 あの時代に育ち、あの時代の空気を吸いながら大人になっ

たということは、思った以上に自分を規定しているんだな

と、今さらながら感じたのでした。

 やはり《すべての存在は時代に殉じる》しかない。



 この曲の歌詞を読み替えると、



 人は誰もひとりで生きて行く

 人は誰も過去にとらわれる

 不安になって、過去に安らぎを求めるが

 諸行は無常である

 人は誰も自己実現をめざすが

 人は誰も自己を見失い、後悔に暮れる・・・



 といった感じになる・・。

 それほど強引な読み替えでもないと思います。

 日本人が人生を考えると、仏教になっちゃうんです(今の

十代二十代もそうだと断言できるかどうか微妙ですが)。だ

から、『風』の歌詞にも仏教がにじみ出してしまう。

 そんな歌を聴きながら思春期を過ごせば、ちょっと多感な

少年  私のことですが  は、仏教を取り込んでしまう。

その成れの果てが、このブログなんでしょう。


 この『風』という曲に限らず、昔好きで聴いていた曲の歌

詞を改めて見てみると、それらのものが自分を形作って来た

と言えると思う。

 その一方で、自分の資質がそれらの曲に愛着を持たせたと

も言えるでしょう。私が好きな曲を、嫌った人もたくさん居

たでしょうから、時代の影響の仕方は人によって違う。

 『風』の歌詞の中に「仏教を観る」なんていうのは、かな

り変なのかも知れない・・・。


 結局のところ人間というものは、自分の都合に合わせて情

報を処理することしか出来ない。

 どこまで行っても、どんなに抗おうと、“自分” で在るし

かない。勝とうが負けようが、成功しようが失敗しようが、

“自分” を生きて、“自分” を終えるだけだ。

 たとえ受け入れがたく感じても、いままで生きて来た “自

分” 、いま在る “自分” を潔く認めてしまうことが、“自分”

の為なんだろうと思う。


 自分で自分を作ることは出来ない。

 自分は世界に作られる。

 その “自分” をどう観るか?

 といっても、“自分” を観ている自分に信用がおけるの

か?

 “自分” というものは、「ああだこうだ」と観るものでは

なくて、ただ生きるものだろう。


 さみしかろうが、夢やぶれようが、ただひとり、旅を続け

るのだ。


 「そこにはただ風が吹いているだけ」だけど、その風に吹

かれることを楽しんでしまおうというのが、人間の度量とい

うもんでしょう。

 そして、楽しんでしまえたら、それこそが人としての「成

功」でしょう。


 『風』の歌詞は次のように終わる。


 振り返らず唯一人 一歩ずつ

 振り返らず泣かないで 歩くんだ