2018年4月21日土曜日

「わび・さび」で、ブラタモリ!


 さっき、『ブラタモリ』を観ていた。今日は〈銀閣寺〉が

お題で、「わび・さび」の原点という様な話だったんだけ

ど、なんだって日本は「わび・さび」なのか?

 やっぱり、湿気が多くて木造建築が長く持たなかったり、

災害が多くて人工物が残り難いなんていうことからきている

のかなぁ。「手の込んだことをしたって残らないよ」と。

 それと、やはり〈禅〉の影響は大きんだろうけど、〈禅〉

の影響を大きく受けやすい風土というものが、そもそも日本

にあったので、〈禅〉が深く根付いたとも言えるだろう。



 「わび・さび」を正確に説明するのは無理なんだろうとは

う。すごく微妙なイメージだから、「雰囲気で分かれよ」

言うしかないでしょう。でもまあ、話の前提として言葉に

なくちゃしょうがないという事もある。

 普通「質素」ということが、まず言われるけれど、「質

素」って「“質” の “素”」ですよね。「物事の本質」という

ほどの意味でしょうね。

 「質素の中の美」などという事が言われるけれど、「わ

び・さび」って、「物事の本質が持つ美を観じて、畏敬の念

を持つ」ということであろうと思うわけです。
 

 でも「物事の本質」とは言うものの、松の木が一本生えて

たら、それはそのまま松の木であって、「本質」もへったく

れもないだろう。見たまんま。「松の木!」、以上終り。

 なのに「本質」なんてことを言い出してしまうのは、わた

したちが常日頃から、物を見る時に脚色してしまうクセがあ

るからでしょう。

 見えてるまんまを観ていない。

 思考のフィルターが掛かり、それぞれの価値感のバイアス

が掛かる・・・。「わび・さび」の感覚は、その思考のフィ

ルター、価値感のバイアスから抜け出すことで、感じられる

ものでしょう。



 しかし「わび・さび」を語る時、ミイラ取りがミイラにな

るといった具合に、困ったことが起きる。例えば、《古池や

蛙飛び込む水の音》という句を、「良い句だ」と言った時に

は、そこには「良い句」という評価が入り込んでいる。

 「古池に、蛙が “ポチャン” と飛び込んだ音で、その後に

静寂が際立ち、世界の無限の広がりを観じた」のであれば、

それは人間の評価の枠を超えていて言葉にならない。

 言葉にならないからこそ、芭蕉は《古池や蛙飛び込む水の

音》という情景だけを詠んで、それ以外は口をつぐむしかな

かった。

 「良い句だ」と言ってしまったら、その途端に、この句の

持つ世界の外へ出てしまっている。とはいえ、「良い句だ」

と言わなければ仕方がないところに、わたしたちの “言葉

(思考)の世界” の面倒臭さがある。

 “言葉の世界” の外に在る世界を指し示す為に、言葉を使

わざるを得ない・・。というわけで、「わび・さび」の説明

は、誰がしたって要領を得ない。
 

 結局のところ、「世界の無常・自然(じねん)」にじっく

りと向き合って、「在るがままを知ること」でしょうね。

 だから〈禅〉と関わってるわけで・・。



 と、いま前の道を暴走族のバイクが 80台ぐらい爆音を立

てて通って行った・・・。

 《古くより 変わらず響く 馬鹿の音》

 私が子供の頃には、ああいうのは『カミナリ族』と呼ばれ

ていたのだけれど、それからおよそ半世紀。人間は相変わら

ずだ。

 社会に誘導され、刷り込まれて形作られた自らの〈エゴ〉

に、本来の自分を抑圧され、それを解放しようとする・・。

けれど、その方法がやはり〈エゴ〉の刷り込みの範囲内のも

のなので、まったくみっともない。

 前にも書いたのだけれど、彼らは毎週きちんと決まった時

間に、サラリーマンのように夜の道路に出勤する。

 「社会の枠」から逃れて、別の「社会の枠」に移動するだ

け・・・。ちょっと、深く考えられたらいいのになぁ・・。

 「あっちは “カッコワルイ” から、こっちが “イイ” 」

 世の中の評価に関わってるうちは、同じなんだよね。


 『悪美・殺美(ワビ・サビ)』なんて名前の暴走族が居た

ら面白いかもしれない。(笑うところですよ)


 話がそれたような、深まったような感じですが、「わび・

さび」という言葉が存在していて、それを意識できるという

ことは、日本人として生まれたことの恵みでしょう。

 〈エゴ〉を黙らせて「在るがまま」の世界を観じる・・。

 「わび・さび」という言葉に誘われて・・・。










0 件のコメント:

コメントを投稿