2018年4月10日火曜日

「スキャンダル・クラブ」


 以前にも話題にしましたが、坂田靖子の『バジル氏の優雅

な生活』というマンガが好きでして、その中の「スキャンダ

ル・クラブ」というエピソードに大好きなシーンが有りま

す。

 「スキャンダル・クラブ」とは、暇な男たちが集まって、

社交界の噂話に花を咲かせるという、下らないクラブなので

すが、主人公のバジルが、親友のオーソン卿を訪ねて「スキ

ャンダル・クラブ(ナルシス&エコー・クラブ)」を訪れた

時に、受付のゴッドフリーと交わされるやり取りが素晴らし

い。
   

  (バジル=バ  ゴッドフリー=ゴ)



 バ「取り次げないとはどういう事かな? オーソン卿

     はここだと聞いたが・・・・」

 ゴ「はい、たしかにいらしておられます。ですが、当クラ

   ブは規則により、御婦人のクラブ内立ち入りを、認め

   ておりませんので」

 バ「クラブはどこもそうだが、私と何の関係があるのか

   ね?」

 ゴ「  と同時にクラブ員以外の方の、立ち入りと取次ぎ

   も認めておりません。これは規則ですから」

 バ「急用の場合はどうなるね?」

 ゴ「数時間、連絡がとれなかった所で、取り返しのつかぬ

   大事に至る事はありますまい」

 バ「しかし、万が一という場合もあるだろう」

 ゴ「さよう、その場合は、我がスキャンダル愛好クラブに

   、大きな話題をひとつ提供する事になりましょう」

 バ「(!)君の言う通りだ! 失礼した。」

 ゴ「おそれいります。」


 この作品が描かれた当時、まだケータイは無い。けれども

このやり取りがジョークとして成立するということは、この

当時  ビクトリア朝のイギリスではなく、1980年代の

日本  であっても「連絡がとれる事」と「安心安全」が、

社会の優先事項であったことを表わしている。ましてや、ほ

とんどの人間がスマホを持ち、いつでも連絡がとれ、GPS 

で居場所を特定できる現代では、このジョークの破壊力はさ

らに大きい・・・。



 「連絡がとれる」という事は、そんなに重要な事なのか?

 「万が一の、取り返しのつかない事態」とは何を指すの

か?

 ゴッドフリーがユーモアとエスプリで常識を煙に巻くと、

それに粋人バジルが応える。


 〈 すぐに連絡がとれると、自分の都合が付きやすい 〉

 「連絡がとれる」という事は、結局そういうことであっ

て、「不測の事態を避けたい」「状況を自分のコントロール

下に置きたい」という願望の表れです。自分の気の済む様に

したいから、「連絡がとれる」ようにしたいのです。

 けれど、それはどれほど人の幸福に資するのか?


 私が子供の頃、ケータイは無い。自分も友達も、日が暮れ

るまで遊んでは、晩ごはんの頃に家へ帰る。親たちは、子供

が何処で誰と何をして遊んでいるかなど気にしない。晩ごは

んの頃ぐらいに帰ってくればそれで良い。

 親子共に、お互いの最低限のルールを守っていれば、「そ

れで良し」としていて、それで問題は無かった。「連絡がと

れない」のが当たり前で、それが標準だから、親もある一線

までは気に病まない。それで、当時の日本の子供が危ない目

に合ったかというと、特にそんなこともない。

 けど、今は「いつでも連絡がとれる」が為に、ほんの少し

連絡が無いだけで気に病むようになった。連絡することが、

ほとんど義務になった。それは何も親子の間に限ったことで

はないのは、誰もが知っていることだ。


 けれど「連絡がとれる」ことで、万が一の事が防げるかと

いうと、それはまったく別の話でしかない。連絡がとれよう

がとれまいが、万が一の事は、起こる時には起る。

 逆に、すぐに連絡がとれない時は、あらかじめ万全の打ち

合わせをしておこうとするものです。実際、昔はそうしてき

た。(デートの待ち合わせで、「何時に・何処で」などとい

うことを間違えると「取り返しのつかない」事になりかねな

いので、必死でした。今の子はケータイがあるから「待ち合

わせの “ドキドキ”」なんて知らないんだよ。可哀相に)


 今のように、すぐ「連絡がとれる」状況だと、連絡がとれ

ないというだけで、「十に一」程度のことを「万が一のこと

が起きたんじゃないか?」と妄想して、気に病む人が多いだ

ろう。(実際に、それで病んでしまう若い子は多いみたいだ

しね)

 『繋がる』なんて言葉が、異常にプラスイメージで語られ

ていた事があったけれど、気持ち悪かったなぁ。

 なんでそんなに「連絡をとりたい」のかなぁ。依存症とし

か思えないんですよ。私には。


 「連絡がとれなくて、万が一の事が起こる」としても、自

分が当事者じゃなかったら、みんなそれを待っているわけで

しょう?

 ネット上は、間違いなく『スキャンダル・クラブ』じゃな

いですか。

 しかもそこにはゴッドフリーは居ない。


 ユーモアもエスプリも無く、「ジョーク」ではなく、「悪

ふざけ」と「愚痴」と「嫉妬」などが溢れかえっていて、

『スキャンダル・クラブ』というより、“スキャンダル部落”

という感じですね。「クラブ」は遊ぶところ。「部落」は生

活するところ。

 ネット上のスキャンダルは、生活の中に「悪ふざけ」と

「愚痴」と「嫉妬」なんかが、深く根付いてしまってる人間

達のドラッグの様なもの。“浅ましい” ばかり・・・。


 ネットに限らず、テレビでも週刊誌でも、わたしたちは他

人に起こる「万が一の事」が大好きです。

 「万が一の事」が起らなければ、「百に一」程度の事を大

事の様に騒ぎ立ててでも、欲求を満たそうとする。
 

 二言目には「安心安全」なんて言いながら、何か自分の興

味を掻き立ててくれる様な、大きな事件が起こらないか、今

か今かと待っているのが、人間です。

 そして、「自分はそれを “見る側” だ」思っているので

す。根拠もなく。


 自分が、いつスキャンダルの種にされるか分からない。

 (「炎上」ですね)


 自分がスキャンダルに舌なめずりするのなら、せめて「自

分が舐められる側になることがあるかも知れない」という覚

悟が欲しいところですが、“スキャンダル部落” の人間に、

そんな知性が有るわけもない。


 ゴッドフリーは、うんざりして帰ったようだ・・・。






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