2022年10月17日月曜日

生きてる実感



 「生きてる実感」

 人は時おりそんなことを言う。この前も、テレビで若い子

が言っていた。

 「あの時は、生きてる実感があった」などというのだが、

ということは、それ以外の時は「生きてる実感」は無かった

ということだろう。けれど、それ以外の時も生きているのだ

から、「生きてる実感」が無いというのはヘンな話だ。常

に、少なくとも起きている間は「生きてる実感」があるはず

ではないか。
 

 そもそも「生きてる実感」というのがどういうものなのか

が判然としない。どういう感覚を指して「生きてる実感」と

呼んでいるのかは、それを言う当人しかわからない。私が感

じる「生きている実感」と、近所に住む女子大生が感じる

「生きてる実感」が同じものなのかどうか?


 テレビなどで時おり耳にする「生きている実感」というの

は、話の内容からすると「充実感」ということなのだろうと

察する。それはたぶん、「望んでいたことが叶えられた」と

か、「ある目的に集中し、没頭して、無心になった」という

ような時の精神状態のことなのだろうと思う。そこで考えて

みる。


 「望みが叶った」のならば、そこで一旦 “望みの無い状態” 

になる。

 「目的に集中し、没頭して、無心になった」のならば、“意

識上から目的が消えた” 状態になる。どちらも、 “目的” から

解放されたことによって、意識が解放されるだろう。その感

覚をさして「生きている実感」と言っているのではないか。

 それは良いことだろうと思う。けれども、先に書いたよう

に、それ以外の時も生きているのだから、ずっと「生きてい

る実感」がなければおかしいではないか。


 ふたつのことが考えられる。

 わたしたちは普段、「目的」「望み」を常に持っている為

に、それが邪魔をして「生きている実感」が感じられなくな

っているのではないかということ。

 もうひとつは、(生きている時に)生きているのは当たり

前なので、本来そんなことに実感など無いのが当然であっ

て、「望みが叶えられたり」「目的に没頭してそのただなか

に入り込んだりした」とき、エゴが達成感を憶えるその感覚

を「生きている実感」と感じるだけではないか?

 このふたつは真逆のことを指している。

 「生きている実感」は、エゴの満足の事なのか? エゴから

の解放による満足のことなのか? 


 たぶん、人はこの両方の感覚を持ち得るだろう。そして、

その感覚を他人と共有して同じかどうかを確かめることはで

きないので、人それぞれ、どちらかの感覚を指して「生きて

いる実感」と言っているのだろう。だから、やはり私と近所

の女子大生の「生きている実感」は別のものかもしれない。


 私としては、やはり「目的」「望み」が消えて、本来持っ

ている感覚が表に表れて来ることを「生きている実感」と呼

びたい。生きているあいだ中、「生きている実感」があるは

ずだからだ。

 ただ、その「実感」は、わたしたちが生まれ育つ間に、な

んとはなしに思わされてきた、人生や命のイメージからは外

れたものだろう。言葉にならない、物語にならない、価値付

けることができないものだろう。

 漠然として、ダイレクトで、生(なま)な、不思議な、い

ま在ることの感覚・・・。エゴにとっては、自分の不在とな

る怖ろしい在り方。けれど、それは常にある。常にあるから

こそ、それを怖れるエゴは前に立とう前に立とうとする。


 「生きている実感」は常にある。

 その前で忙しく、強引に動き回るエゴを「フフン!」と笑

ってやればいい。その時意識は「生きている実感」の中にあ

るだろう。

 私もあなたも「生きている」。いま。



2022年10月16日日曜日

店じまい



 ふと、田淵義雄さんのことを思い出して「いま何歳だろう

か?」と検索してみたら、一昨年の一月に亡くなられてい

た。1944年生まれだから、享年75~76歳ということ

なんだろう。

 このブログを始めた年に『「バックパッキング教書」とい

う本のこと』(2017/12)という話を書いているけど、また

一人、私に影響を与えた方が去った。私が生きた時代が幕を

閉じようとしているのだなぁ。


 加山雄三は今年で人前で歌うことを辞めるということだ

し、吉田拓郎も今年で音楽活動を辞めるという。井上陽水

も、2011年の『魔力』を最後にオリジナルアルバムは作

っていないし、年齢的に、今後表立った活動は無いことだろ

う。

 加川良、河島英五、忌野清志郎、小坂忠、中野督夫(セン

チメンタル・シティ・ロマンス)・・・といった人たちはも

う故人だし、私を引き付けた作家や学者、役者や芸人の多く

も故人になり、現役の人たちも衰えは隠せない。もうすぐ表

舞台から降りるだろう。


 「時代なんだな」そう思う。こういう感じは歳をとらない

とわからないことだとは思うけれど、もしかするとこれまで

の時代やこの後の時代とは少し違うのかもしれない。それは

何故かというと、この半世紀ほどの間で、世界の文化・文明

のほとんどは〈誕生・拡大・爛熟・限界〉を一気に通りすぎ

ただろうから。そして、私たちの世代はそのただ中を生きて

来た。面白いものを見せてもらったなと思う。感謝感激雨あ

られ・・・。


 20世紀後半の文化が店じまいをしようとしているのだろ

う。そして数年後には、私は上映を終えた映画館の観客のよ

うに、白いスクリーンを前にしていることになるだろう。そ

の時、私は何も映らないスクリーンを見ながら、静かに笑え

る人でありたいと願う。


 ・・・と、そんなことを ルーシー・トーマス を聴きながら

書いている。

 彼女の歌声などを聴いていると、文化は “生まれ・作られ

るもの” から、“確かめ・味わうもの” になって行くように思

う。そしてその先は・・・、知る由も無い・・・。


 すべての人が、それぞれに、それぞれの文化の中で生きて

一生を終える。

 そこでどのような実りを得るかは、それぞれの縁次第とい

うことだけれど、その文化に導かれ、そして文化を越えた実

にまでたどり着くことができたら、それ以上の果報はない

だろう。


 店じまいは少し淋しいが、その味わいのひとかけらぐらい

は、このブログの中にもあるだろう。さしあたりはね





 

2022年10月15日土曜日

上手くやらないとどうなるか?




 ウクライナでは、まだ戦争が続いてる。しかし、なんだっ

て地球の裏側でやってる戦争の逐一を日本のメディアが報道

するのだろう。エネルギーの価格とか、日本に具体的に影響

があることもあるけれども、基本的には関係のない話ではな

いだろうか?

 今回の戦争も、欧米の、歴史的に根深いいざこざの一つの

露なんだろうから、日本は傍観者でいていいはずだと思う

が・・・。一種の関係妄想だという気がする。まぁ、「関わ

ってみせないと欧米に怒られるから」という情けない話もあ

るけれど。


 北朝鮮のミサイル発射にしたって、話して通じる相手じゃ

ないんだから、日本政府が実際的に取り得る対応は、迎撃シ

ステムを可能な限り充実させるか、北朝鮮を射程に入れたミ

サイル(核を搭載するにしてもしないにしても)を持って抑

止力  になるかどうか知らないが  とするかしかないだ

ろう。

 それをするのかしないのか、できるかどうかは知らないけ

れど、さしあたりしないのなら北朝鮮が何をしようが無視す

るに限ると思うけどね。かまうからいけないんだよ。いまの

ところ、北朝鮮のミサイルが私やあなたの所へ飛んで来る確

率より、カミナリに打たれて死ぬ確率の方がかなり高そうだ

と思うから、この件もやっぱり関係妄想のレベルの話だろ

う。


 マスコミは脅かすのが商売だけど、もうそろそろ、そうい

うことに飽きないのだろうか?

 受け取る方もいい加減にバカらしくならないのだろうか? 

・・・ならないんだろうなぁ。

 火事だとか災害だとかに遭遇した場合には「落ち着いて行

動して下さい」などと冷静さを保つよう呼びかける一方で、

こういう話を連日取り上げて、核戦争の危機まで匂わせて人

を不安にさせよう不安にさせようとする・・・。核戦争が本

当に起きるとして、日本人が不安がることでそれを止められ

るか? ほんま、アホかいな・・・。


  タオを求める人は、(中略)

  世間のことも、まわりのことも、

  なるがままにさせておき、

  黙って、見ていられる人になる。

  その方がうまくいく、という計算さえ持たずにね。


 加嶋祥造さんの『タオ~ヒア・ナウ』(PARCO出版)を手

にしてから三十年近く経ったけれど、その中には沢山の智慧

の言葉が散りばめられている。中でもこの言葉は、私にとっ

て特に印象深いものの一つです。


 この世の中に起きる出来事で、本当に自分に関係の有るこ

とはどれぐらい有るだろう?

 自分にとって本当に価値のあることや、自分にとって本当

に害になることがいったいどれほど有るだろう? 

 世間にそそのかされて、用も無いのに首を突っ込んで、出

しゃばりのアタマが妄想の中で空騒ぎをしているというの

が、わたしたちの日常なんじゃないだろうか?

 さらに、澤木興道老師もこんな言葉を遺されている。


  人の世に非常時ということがあるにはある。

  しかしこの非常時に、非常時の皮をかぶせて

  大騒ぎするのが人間の弱点である。
  
  実際以上に慌てておる。
  
                   『禅に聞け』より


 世の中は勝手に動く。誰もそれをコントロールできない。

 大きな権力を持つ人間が大勢を動かしているように見えた

りするけど、彼らだってわけが分かってそういうことをして

いるわけじゃない。ああいう人たちは地震の震源みたいなも

のだ。プレートの大きな圧力に押されて、震源(ある地点)

を中心に断層が動く。震源が地震を起こすんじゃない。地震

の大元はプレートの力だし、その力の元は地球内部の熱だけ

ど、それと同じように、彼らも世の中に動かされているんで

あって、人が世の中を動かしているのじゃない。世の中が全

ての人を動かしている。

 誰かが世の中を変えようとするのも、変化を止めようとす

るのも、人に憑依した “世の中” の動きであって、人は “世の

中” を動かせない。

 タオや禅の立ち位置から見れば、「どうせ動かせないんだ

から、放っときゃいい」ということになる。実際、どうにか

できるものではない。なるようにしかならない。


 「どうせ動かせないんだから、放っときゃいい」と思うか

どうかも、自分では決められないわけではあるので、それも

どうにもならないんだけど、私としてはそっちの側にまわり

たいし、誰もがそちら側に立てば、世の中は平和になるとは

思う。「実際以上に慌てる」ことは減るだろうからね。で

も、まぁ、なるようにしかならないので、しようがないな

ぁ。


 「その方がうまくいく、という計算さえ持たずにね」とい

うのは、現代人は特に耳を傾けなければならない言葉だと思

う。あまりにも「上手くやろう」とし過ぎるから。

 誰もが「上手くやろう」として、環境や他人(自分以外の

人間)や自分の身体や考えまでもをコントロールしようとす

るけれど、その結果、かえってさまざまな問題を引き起こし

ていることに、当人は気付かない。


 「なるがままにさせておき、黙って、見ていられる」のな

ら平和なものだと思うけど、そんなことを言う奴は、“人でな


し” みたいに扱われるのが現代というものだから、もしあな

も「そうだな」と思っても、他言無用です。黙って、見て

いましょう。