2020年12月31日木曜日

世界にとっての「善」とは何か?



  26日に書いた『感謝を忘れた』という話の中で、 “世界は

全体として「善」であろうとしている” ということを書い

た。

 その時は、なんのことも無くサラっと書いてしまったのだ

けど、“世界にとっての「善」” とは何だろうか?


 あらためて考えてみると、“「善」であろうとしている” と

いうより、“「在ること」は「善」である” というべきなんだ

ろう。だって、「在ること」は実際に “在る” のだから、それ

を「善」としなくてどうする?
 

 物事は見方次第だ。いや、「見方」が物事を生む。

 「見方」とは “ある視点” のことだけど、わたしたちは当

然、自分の “視点” からしか物が見れない。そのことは物理的

にも観念的にも物事に裏と表を生みだす。自分の立ち位置に

も前と後ろが生まれる。けれど、決まった “視点” を持たなけ

れば、世界には裏も表も無い。前も後ろも無い。ピカソの絵

の様に、前と後ろ、右と左、あらゆる視点が同時に認識され

て、物事が明確な形にならない。物事が特定の意味を持たな

くなり、もはや「物事」ではなくなってしまう。すべての要

素が混ざり合い、平準化して、絶対的な落ち着きの中に納ま

る。

 その “絶対的な落ち着き” のことを、私は「善」と呼びた

い。



 なんだか、哲学になってしまった。こういうのはヤだな。

ちょっと口が過ぎる。ワル乗りしてると思う。・・・そう

か、哲学が面倒くさく感じるのは、ワル乗りだからだな。

 意味ありげな言葉を並べて、山のように積み上げて、当人

はそれに浸っているけれど、横から見ればワル乗りだ。意味

ありげな感じに惑わされるけれど、調子に乗り過ぎて炎上し

てしまう You Tuber と大して変わりはしない。まぁ、内容

は有るかもしれないが・・・。


 話がそれた。

 それたおかげで、我に返った。

 “世界にとっての「善」” とは、「意味以前のものとしてあ

ること」。

 “「善」であろうとすること” は、「張り付けられた意味を

落とそうとすること」。

 そういう意味であろう。


 なので、「最善」のことは、黙ることだと思う。

 ・・・困ったね。






2020年12月29日火曜日

“Let's Get Lost”



  久しぶりにチェット・ベイカーの『Let's Get Lost』を聴

いている。チェットのボーカル曲の中では一番好きな歌だ。

この曲を聴くと「これから愉快な事が始まるんだ!」という

分になる。


 “Let's Get Lost”   「ずらかろうよ」あるいは「逃げ出

そうよ」と訳されるのだろう。ホント、ずらかろうよ!


 曲自体は、恋に落ちた男女が退屈なパーティーから逃げ出

すということだけど、“現実” の世の中のバカらしいパーティ

ー(お話し)からずらかって、人間本来の楽しさ豊かさに浸

りたいと本当に思う。ずらかろうよ!


 背伸びして、着飾って、うわべを繕って、自分がその場に

相応しいのか気に病んで、どう評価されるのかに怯えなが

ら、参加者のそれぞれの思い込みで固まっているお話しに共

感するふりをする空虚なパーティー・・・。ずらかろうよ!



 ずらかろうよ! 逃げ出そうよ! もう飽き飽きだよ!


 外の風にあたろう。

 広い空を見上げよう。

 雨にも濡れてみよう。

 地面を踏みしめよう。

 自分を感じよう。


 何者かのつもりの連中の目の届かない所で、

 何者でもない自分に戻るんだ。


 Let's Get Lost !






 


2020年12月27日日曜日

人が無くしていいものは何か?

 

 アフガニスタンで現地の人たちの暮らしを改善する為に活

動していた中村哲さんが亡くなって一年が経ち、テレビやネ

ットでいくつか中村さんを扱う記事や番組が有った。

 今朝も NHK で中村さんの番組が有って、その中で、中村

さんの著書から紹介されたひとつの言葉が印象に残った。正

確な文章は憶えていないのだが、それはこういう言葉だっ

た。


 「人が無くしてもいいものは何か」


 「人が無くしてはいけないもの」という言葉はよく使われ

る。けれど「人が無くしてもいいものは何か」という考え方

は、普通はしない。

 アフガニスタンの、あらゆる面で乏しい生活をしている人

たちと関わりながら、「それでも生きて行く」「それでも笑

顔を忘れていない」、そのような姿を見ているうちに、現代

人が不要なもの(無くしていいもの)を抱え込み過ぎて、“生

きる実感” を失っているという思いを強くされたのではない

だろうか。


 「人が無くしていいものは何か」


 そう問われた時、理想論として、物・お金・名誉・地位な

どという答えが出てくることだろう。そして、「無くしては

いけないもの」として、夢や尊厳や命などが残るのではない

だろうか?

 でも極論を言えば、私は夢や、尊厳や、そして命さえも、

「無くしていいもの」に入るように思う。それらは個人にと

て必要だと感じるものであり、いずれは失われるものでも

るからだ。


 究極、最後に残るものは、「畏敬」と「慈愛」ではないか

と感じる。



 「人が無くしていいもの」には、「人として、無くした方

がいいもの」と「人として、無くしても人で在り続けられる

もの」があるだろう。そういったものをすべて無くしたあ

と、人としてどうしても持ち続けなければならないものが、

「畏敬」と「慈愛」だと思う。それこそが、人の人たる価値

だろうと。


 その「畏敬」と「慈愛」が人の中から具体化する時に、命

を守るとか、支え合うとか、笑い合うとか、共に泣くとかい

う姿をとるものだと思う。

 「畏敬」と「慈愛」が、人として為し得る、有形・無形の

すべての「善」の始まりの場所だろう。


 「畏敬」と「慈愛」から発するものでなければ、どのよう

な大きなものであっても、「人が無くしていいもの」に入る

だろう。

 「畏敬」と「慈愛」から発するものであれば、たとえかす

かにほほ笑むだけでも、それは価値あるものだろう。


 「人が無くしてもいいものは何か」



2020年12月26日土曜日

感謝を忘れた



 この頃、私は感謝しない人間になってきた。

 もちろん、普段の暮らしの中では頻繁に「ありがとう」と

口にするし、実際にそう思ってもいる。心にもない「ありが

とう」は言わない。ただ、その「ありがとう」は人に対して

向けられるものであって、自分の境遇に対してではない。良

い境遇が訪れても感謝することがなくなった。逆に悪い境遇

が訪れても恨み言も言わない(ヘナチョコなので、泣き言は

言うけど)。


 スピリチュアル系のお話しや、自己啓発系のお話しでも、

「感謝することが大切だ」という話が、必ずと言っていいほ

ど出てくる。「感謝することで、運気を引き寄せる」「感謝

することで波動が上がる」なんてことを言ったりする。


 このブログでもさんざん書いてきたけど、私にとって、自

分と世界は一体で、同じものだという認識なので、「感謝す

るって言ったって、誰に感謝するんだよ」という話になって

しまう。感謝する心は「自分は世界や神とは別の存在であ

る」という認識から生まれる。そうでなければ、“神” だとか 

“宇宙意識” だとか “高次の存在” が 、“自分” に良いものを

もたらしてくれるという発想にはならない。感謝する人は世

界からまだ少し分離している人だ。


 おなかが空いた時にものを食べたら、胃が「満たしてくれ

てありがとう」と感謝するだろうか? 身体がトータルに満足

感を覚えるのではなかろうか? 身体が身体全体のバランスを

取るために、為すべきことが自然に為されているだけではな

いだろうか?

 歩く必要があれば人は歩く、当然足は疲れるが、足は文句

を言わない。でも疲れは身体に伝わり、身体は足を休ませる

ために休息を取る。でも足が「ありがとう」と言うわけでは

ない。その時その時に、身体全体が持ちつ持たれつでバラン

スを取りながら動いて行く。そして、全体として、「善」で

あろうとしている。

 同じことが世界全体にも言えるのではないだろうか?


 個人としては、自分の境遇に「良い」「悪い」を感じる。

それは当然だ。

 貧乏もしたくないし、変な病気にかかりたくもない。他人

から理不尽な扱いも受けたくはない。死にたくない。でも、

個人というものは、それらから逃れることはできないだろ

う。

 それらから逃れる唯一の手立ては、個人であることから退

くことだけだろう。


 そのようなことで、この頃の私は感謝することを忘れかけ

ている。

 では、これまで感謝したり恨んだりしていたような状況の

時に、いま私はどうしているのか?

 なにやら茫然としている。あるいは陶然としているので

す。


 脳の機能障害かもしれないけどね。




2020年12月25日金曜日

昔、クリスマスが有った。



 今日はクリスマス。けど、私には関係ない。

 十年ぐらい前に、「もうクリスマスはいいか」と思い、我

が家ではクリスマスをやめた(「クリスマスをやめた」とい

うのも変な表現だが)。「今年からクリスマスはしない」と

宣言して、それ以来我が家ではクリスマスが無い。


 そもそも、私はクリスチャンではない。私にとって、クリ

スマスは何かを楽しむための口実に過ぎなかったので、いい

歳になって、そんなに「楽しもう」という意識が無くなって

きた私には、クリスマスはめんどくさいものになった。なの

で、クリスマスはやめた。


 クリスチャンでもない大多数の日本人が、毎年クリスマス

に何かをするのだが、それはなぜか?

 答えは、先に書いた。「何かを楽しむための口実」とし

て、クリスマスというものを採用したのだ。なので、「口

実」になれば別に何でもいい。クリスマスが採用されたの

は、当時すでに、欧米ではクリスマスが商売になっていたの

で、そのノウハウをいかせたということだったのだろう。バ

レンタインもハロウィーンも同じようなものだし、その他に

も外国由来のものや日本に元々あるものなど、いろんな「口

実」を掲げて、お祭りをして商売をする。ハロウィーンなん

て、ほとんどの日本人は何の事かも分かっていないだろうけ

ど、そんなことはどうでもいいこと。何か「特別なんだ」と

いう口実になればそれでいいのだから。


 ちなみに、バレンタインデーは神戸の「モロゾフ」がチョ

コレートを売るための企画として日本に持ち込んだものだ

し、たぶんハロウィーンも「モロゾフ」が火付け役だろう。

まだ日本人のほとんどが、ハロウィーンなんて言葉も知らな

い頃に、ハロウィーンのキャンペーンのようなことを始めて

いたからね。


 話が少しそれたけど、今回なにを言おうとしているかとい

うと、人は “「特別なんだ」という口実” を欲しがるというこ

と。そしてそれは何故かということ。


 何かやりたいことが有ればやっちゃえばいいんだけど、何

故か人はそのための「口実」を欲しがる。「○○だから、こ

れをする」と。


 「口実」というのは、自他に対する説明なのだが、何のた

めに説明などするのだろう。さっきも書いたが、何かしたけ

ればやっちゃえばいいのだ。なぜいちいち理由がいるのか?
 

 人の中には何かをしたい欲求があって、人は四六時中、何

かをする為の「口実」を求めている。要するに、人はすぐに

退屈する存在で、なおかつ、退屈を恐れている。

 人が何かをするのは、退屈を排除したいがためだ。

 そのあたりのことは以前に書いているので、そちらを読ん

でもらえればいいのだが(『退屈を味わう』2017/5)、なぜ

「口実」が必要なんだろう? 何度も書いたけど、理由なんか

無しに、やっちゃえばいいのではないだろうか?


 それはこういうことでしょう。

 理由を付けるというのは、そもそもそれに理由が無いので

す。

 意識化できる理由も無く、無意識の、得体の知れない衝動

に突き動かされて何かをしたがっている自分というものが不

安なので、その無意識や不安を覆い隠すために、さしあたっ

て「口実」になるものがあればいい。


 自分の中に溜まった何かをしたい衝動を開放したい。けれ

ど、その得体の知れないものをそのまま生で解き放てば、思

考でまとめ上げているセルフイメージ(自我)が崩壊してし

まう。自分が “得体のしれないもの” になってしまうので恐ろ

しい。だから、得体のしれない衝動を表に出すための器が欲

しい。それが「口実」。

 なので「口実」はなんでもいいし、「何をするか」もなん

でもいい(まぁ、人それぞれに好みがあるわけだけど)。衝

動が解き放てればそれでいいのだから。


 毎朝、家の前の道を小学生たちが通って行く。彼らは、理

由もなく、むやみやたらと走り出す。自分の中にある衝動を

素直に開放する。

 子供たちは、まだセルフイメージが希薄なので、それが壊

れる心配が無いが、大人はそうはいかない。自分の中から、

説明のつかない得体の知れないものが出て来てしまうと不安

になるのだ。「なんだ、これは・・」「これは自分じゃな

い。自分じゃないはずだ・・」と。

 けれど、衝動を押しとどめておくと、やがて精神の崩壊を

もたらす。衝動は解放してやらねばならない。なので、社会

的に認知された「口実」を使って、衝動を解き放つ。


 人間というものは面倒なものだ。

 「人の中には得体の知れないものが渦巻いていて、いつで

も外に出たがっている」と誰もが認識していれば、面倒な

「口実」など必要ない。

 誰かが、突然歌いだしたり、突然踊りだしたりしても、周

りは「出てるな」と思うだけということになる  突然刃物

を振り回したり、銃を乱射したりというのはまた別の話だ

が。

 ただ、そうなると、いろんな商売が成立しなくなったり、

さまざまな権威のようなものが崩壊するだろうから、そうい

う社会は成り立たないだろうな。社会を成り立たせるにも

「口実」が必要だしね。


 社会のさまざまな物事・お話し自体が、得体の知れない衝

動の器としてあるのだから、個人にはそれを使ってもらっ

て、それぞれの中にある衝動のエネルギーを社会に抽入して

もらわないと、社会がエネルギー不足になってしまう。

 だから、12月になると「メリークリスマス」と社会が騒

ぎ、人々の衝動を取り込もうとするのだ。


 まぁ、クリスマスならいいんだけど、うっかりしてると、

とんでもなく醜悪で邪悪で狡猾な “お祭り” に引っ張り込まれ

かねない。自分の中には得体の知れないエネルギーが渦巻い

ていることを知っていないとね。



2020年12月23日水曜日

コロナウイルスに罪は無い   コロナ ㉖



  駅で見かけたポスターにこう書いてあった。


 「コロナを憎んで、人を憎まず」


 言いたいことは分かる。コロナ差別を無くそうというわけ

だ。けれど、コロナを憎むのは構わないのか? 相手(対象)

が何であれ、憎むこと自体を無くそうとするべきじゃないの

か?コロナウイルスに罪は無い。


 コロナを憎む。病気を憎む。それは突き詰めると、その先

にある「死」を憎むということだろう。けれど、自然の摂理

である「死」を憎むことは、人にとって良いことなのだろう

か?


 人にとって、「死」は受け入れがたい。けれど、“憎む” 

、“忌み嫌う” というのは、何か履き違えているのではなかろ

うか。

 一人の人間が、一つの社会が、自然の摂理を忌み嫌

う・・・。いったい何様のつもりなんだろう?

 人にとって、「死」は受け入れがたい。けれど、それはす

べての人に訪れることで、受け入れる覚悟を決めておかなけ

ればならないことだと思うんだが・・・。自分の死も親しい

人の死も。


 スエーデンがコロナを特別視せずに、インフルエンザ程度

の感染症として対処したことを、「集団免疫作戦」などと他

国やマスコミがおもしろおかしくネタにし、「失敗だった」

などと揶揄したけど、スエーデンは、感染症で高齢者や基礎

疾患のある人が亡くなることを、「普通の事」として扱った

だけなのだろう(スエーデン在住の日本人の方が、YouTube

で、「スエーデンは集団免疫作戦など行っていません」と言

っていた)。

 最近になって、思ったより死者数が多かったのか、少し弱

気になっているようですが、スエーデンのこれまでの対応が

世界で最も適切だと私は思う。「大人だね」と。


 人は死ぬもの。当たり前ですね。

 高齢者の方が死にやすい。これも当たり前。

 有史以前からウイルスや細菌は存在し、感染症が存在し、

それによって人が死ぬことも多い。このことも当たり前。


 「さしあたり、新型コロナウイルスの引き起こすことは、

これらの “当たり前” の範疇に入るようだから、当たり前に対

処しよう」

 スエーデンの対応は、そういうことだったんだろうと思

う。まぁ内情は分からないけど。


 私の目からも、新型コロナウイルスの引き起こすことは 

“当たり前” の範疇のことに見える。それを “当たり前” だと

思えない社会の方が、当たり前ではない。幼稚なヒューマニ

ズムは、人間の愚かさを増悪させ、かえって人間を不幸にす

る。「人は死ぬ」。それのどこがいけない?


 殺人だとか、自殺だとか、既得権益を持つ者の搾取などで

追い詰められるなど、人が人を死に追いやることは私もイヤ

だ。けれど、病気などの自然の働きによる「死」を “禍(わ

ざわい)” と見做すのは、人間の傲慢ではないか。

 ほんの百年ほど前まで、人間はたいした医療技術を持ち合

わせてはいなかったが、それでも人類は滅びなかったし、少

しずつでも人口は増えていたのだ。そして、50~60年前から

人口が急増したのは、化石燃料の使用による農業生産の大規

模効率化と、先進国の上下水道整備による消化器系感染症の

減少のおかげであって、医療の貢献度は少ない。それは、呼

吸器系感染症に対して医療は大したことができないというこ

とでもあるし、する必要もないということでもある。


 呼吸器系感染症は、人の自然死  老衰だけではなく、さ

まざまな病気での死を含む   のひとつのファクターとし

て、受け入れた方が生きることが豊かになると思う(どう

「豊か」になるのかは、また次の機会に)。



 いたずらに死を恐れ、病気を恐れ、老いを恐れ、細菌やウ

イルスを恐れ、微量の化学物質を恐れ、排除し、忌み嫌い、

我を忘れて狂奔する・・・。

 本当に恐れるべきなのは、わたしたち自身のエゴであり、

それが生み出す、一見有益ながら実は人を狂わせているさま

ざまな “お話し” だろう。


 コロナウイルスに罪は無い。

 病気に罪は無い。

 自然に罪は無い。

 「死」に罪は無い。


 この世界で罪を持つものは、わたしたちのアタマだけだ。



 (コロナの死者が多いアメリカなどの国は、食生活など

  の生活習慣によって、免疫の弱い人が多いのだろうと

  思うよ。コロナのせいではなく、免疫を弱くしている

  せいだろう。例年インフルエンザの死者も多いんだか

  らね。 エビデンスは無いけどね。)



 

2020年12月20日日曜日

「ブラック社会」



  少し前のブログの中で「ブラック社会」という言葉を使っ

た。自分としては「あまりセンスの良くない言葉だなぁ」と

思うけど、ものを考える足掛かりとしてはいいだろうと思う

ので、今回は「ブラック社会」について考えてみる。

 「ブラック社会」とはどういうものか?

 「ブラック企業」が従業員を食い物にして繁栄するよう

に、「ブラック社会」はその社会の中の人々を食い物にして

栄える。

 「そいう社会はイヤだなぁ」と思われるかもしれないが、

社会というものは、程度の差こそあれ、おしなべてそういう

ものです。社会というものは。個人にとっては「ブラック」

な側面を持っているのが普通でしょう。とはいえ、その程度

が必要悪の範囲に収まっているのならいいのです。人という

ものは社会を作らずには生きて行けないものですからね。で

すが、自殺や殺人が多かったり、貧富の差が激しいなどとい

うのは、社会構造が多くの人を追い詰めているからそうなる

のだから、そのような社会は「ブラック社会」と言っていい

でしょうね。

 そういう目で世界の現状を見てみると、どうも世界は「ブ

ラック社会」が優勢のようです。グローバル化というやつで

しょう。


 人を食い物にする為の効果的な社会システムが構築された

ので、それは急速に世界に広まってしまった。このシステム

の優れたところは、旧来の社会システム自体を飲み込んでし

まって、その社会まるごとを利用できることにある。そのシ

ステムを働かせるのに最も重要なのが、人であれば誰もが持

っている、「不安」と「欲望」に火を点けること。そうすれ

ば、その火は人から人へ連鎖的に広がり、ちょっと促進剤を

投入してやれば、爆発的に拡大する。そうして人々は制御不

能に燃え上がり、そのエネルギーを社会に吸い取られる。そ

うして生きる力を吸い取られた人々は自殺したり、「不安」

や「欲望」に狂わされて人を殺したり、貧しさの中に喘いだ

りしている。でも、そのことに気付いている人は少ない。


 「良い人・悪い人」がいる。

 「能力の高い人・低い人」がいる。

 そういった人の違いが、社会の負の側面として現れると思

っている人が大多数ではないだろうかと思うが、私はそうは

思わない。

 もちろんそういった「人の違い」はある。けれど、「不

安」と「欲望」に火を点けられた人間は、その「違い」に付

け込んで、自分の「不安」を解消し「欲望」を満たそうとす

るが、「不安」と「欲望」に火を点けられていない人は、

「人の違い」をそのままにしておくことができる。社会の大

問題は、社会が人々の「不安」と「欲望」に火を点けるから

起こるのだ。


 「ブラック企業」からは、逃げ出すこともできる。

 けれども、グローバル化した「ブラック社会」からは逃げ

られない。せいぜい、どこかの片隅で小さくなっていること

ができるだけだが、それもいつまで続けられるか分からな

い。社会はすべての人間を取り込んで利用しようとするし、

利用価値がなければ、捨て置かれるか排除されることになっ

てしまう。


 私の言っていることは、能無しの負け惜しみかもしれな

い。能力があれば「ブラック社会」の中でも楽しく暮らせる

のだろう。けれども、それは多くの場合「ブラック社会」に

適応した「ブラック社会人」になることだろう。それはイヤ

なのだ・・・。



(しかし、「ブラック社会」とか「ブラック社会人」とか、

 センスの悪い言葉だな・・。でも、ま、いいか!)



2020年12月19日土曜日

仏像鑑賞



 ずいぶん前に、東大寺戒壇堂の広目天像のことを書いたこ

とがあるけど、現在、戒壇堂が修復工事に入っているそう

で、広目天像も含め、戒壇堂の仏像が「東大寺ミュージア

ム」で展示されているそうだ。昔は、戒壇堂の壇の上まで上

がれて、四天王像を同じ目の高さで目直かに見ることができ

たのだが、近年は壇の下から見上げるしかなく、お堂の中は

薄暗いので、四天王像の迫真性は感じにくくなっていた。で

も、この度はミュージアムの中ということで、しっかりと見

ることができそうなので、チャンスだと思う。まぁ、同じ目

の高さでというわけにはいかないのだろうが。


 持国天・多聞天・増長天には申し訳ないのだが、なんとい

っても広目天が頭抜けている。あの目!

 同じ目の高さで広目天と対峙したら、ちょっと感受性の強

い人なら視線を捕らえられて釘付けになるか、逆に思わず目

をそらしてしまうことだろう。私は釘付けになったけどね。

(そのあたりのことは、以前書いたものを見てもらえたらと

思う  『広目天の見ているものは』2017/6)


 仏像好きの人には、それぞれに特別に好きな仏像があるだ

ろう。私の場合は、この広目天と法隆寺の百済観音、東大寺

法華堂の不空羂索観音、中宮寺の観音菩薩(伝 如意輪観

音)。どれも、超メジャーな仏像だね。どうしたって凄いも

のは凄いのだ。


 と、書いていて気付いたけれど、今挙げた中には如来は入

っていないね。どうも、人気のある仏像は菩薩や天など、如

来を取り巻くものの方が多いように思う。興福寺の阿修羅や

東寺の帝釈天とか。たぶん、如来像には個性が無く、ほとん

ど無表情だからではないだろうかと思う。

 如来に個性や表情が無いのは当然であって、如来像に個性

や表情が有ってはおかしい。「無」「空」の象徴としての造

形なのだからね。その存在(?)を表現すれば、無表情にな

るしかない。


 「無」「空」であるからこそ、すべてのものを受け入れる

ことができる。

 すべてのものを受け入れることができるからこそ、すべて

のものを救うことができる。


 救うことは、そのものに何かを与えることではない。無条

件で受け入れることだ。無条件で受け入れられることによっ

て、すべての不安や警戒心を落とし、とらわれのない、広く

穏やかな場所へ導かれる。


 機会があれば、広目天の眼差しに自身の不完全さ過剰さを

思い知らされ、そのあとに、慈悲以外なにも持たない如来の

姿を見て、自分を苦しめている自分の中の余分なものをひと

時でも忘れてはどうだろうか?


 仏像は “物” でしかないけれど、多くの人を魅了するような

仏像には、作った者の恐ろしいまでの本気がこもっている。

そこには、言葉にできず、本来形も無いものが、わずかに姿

を現していて、そこに触れることができれば、人は “知るべ

きもの” を知ることもできるだろう。
 

 ちょっと大袈裟な話だったかもしれないけれど、仏像はそ

のためにこそ存在するのだと思う。

 偶像崇拝の、まだ “その奥” があるのだ。

 そういうことでは、人の営みを侮ってはいけないと思う

ね。

 アタマではなく、心の底の方から押し出されてくるような

営みに関してはね。 





 

2020年12月15日火曜日

命がけで生きるな



  今朝、顔を洗っている時に、ふと思ったのが、「自分は命

がけで生きてるなぁ・・・。バカだなぁ」ということ。なぜ

だか知らないが、突然そう思ったのです。

 「命がけで生きてる」という感覚は、分かってもらいにく

いと思うので、説明を・・。


 「命がけで生きてる」というと、「毎月150時間残業し

てる」とか「レスキューや消防のような危険な仕事をして

る」というイメージを持たれるかもしれないけど、そういう

ことでもないし、私にそんなことができるはずもない。平凡

な生活をして、平凡な仕事をしている。私の「命がけ」とい

うのは、そういうことではない。


 生きてるんだから、命が掛かっているのは当たり前だけ

ど、人間というものは、メシさえ食ってればさしあたり生き

てるものです。ですから生きてるということは、まぁ特別な

事でもない。なので「命がけで生きてる」というのは、平凡

に生きていることを表現するにはそぐわない。私が言おうと

しているのは、放っておいたら生きているのに、ことさら生

きることに必死に取り組んでいるような状態の事なんです。

生きることを大袈裟に、深刻に扱い過ぎてるということ。へ

んに、力んで生きてしまっているんです。


 私は生真面目な性格で、昔から「真面目だねぇ」と、褒め

られているのか笑われているのか分からない言葉をよく頂戴

してきた。気楽にやればいい場面で、へんに力が入ってしま

って、周りから「おいおい?」という目で見られたりするこ

とがしばしばあった。そういう傾向が、「生きること」全般

にあるのは、なんとはなく自覚していた。それが、今朝、

「命がけで生きているなぁ」という表現で、自分の意識の表

面に上がってきたのです。そして、その自分の在り方を「バ

カだなぁ」とハッキリ自覚したわけです。


 何が「バカだなぁ」かというと、放っておいたらそれなり

に生きているのに、変に、真剣に深刻に力を入れるものだか

ら、かえってギクシャクして、生きることが大事になってし

まっている。よけいな事をして自分で疲れてるんです。だか

ら、「バカだなぁ」というわけです。


 生真面目な人は私にしろ他の人にしろ性分だからしようが

ないのだけど、こういうことが度を越すと危ない。「命がけ

で生きてる」わけですから、「生きてること」が上手く行か

なくなった時に「命」をかけてしまう。過労死とか自殺とか

が起きるのはそういうことでしょう。「生きる」ということ

を高く値踏みし過ぎてるというか、大そうに捉えてしまって

いて、「ちゃんと生きられないと、大変だ」なんて感じてし

まってるんですね。まぁ、子供の頃にそう刷り込まれた可能

が高いけど。
 

 世の中がいろんなお話しを聞かせて、「生きること」をも

ったい付けて、大袈裟に思わせて、“「生きること」に価値を

持たせなければならないんだ” みたいに刷り込む。生真面目

な人間はそれをかなり深く受け取っちゃって難儀するという

ことになっちゃう。ホント、難儀してるんですよ。


 「生真面目」を辞書で引くと、〈 真面目過ぎて融通が利か

ないこと 〉などとある。そういう社会的な意味では、私は生

真面目とは言えない。「車が来ないのに歩行者が赤信号で待

っている必要はない」という考えだし、「新型コロナは、さ

っさと指定感染症からはずせ」なんてことも思ってる。現代

の日本人の中では融通を利かせ過ぎなぐらいだと思う。では

どういうことで生真面目なのかというと、「新型コロナは、

さっさと指定感染症からはずせ」なんてことをわざわざ表明

するあたりが、生真面目なわけです。そんな危ない話は思っ

てても言わない方がいいのに、言ってしまう(もちろん場所

と相手を選んではいますが)。さらに言えばそんなこと思わ

ない方が楽です。思っちゃうと世の中と対立しちゃうんだか

ら。


 「生真面目」という言葉は、字に表れているように、「生

きることに真ともに面する(向き合う)」ということで、

「真とも」というところが「命がけ」という雰囲気を醸し出

しているのですね。


 生きることは無意味なのに、真ともに向き合っちゃダメで

すよね。

 「どうせ無意味なんだから、気楽に、のんびり、ぼちぼち

やろう」というのが望ましと思います。思っていて、つねづ

ね「そうありたい」とは思ってはいるけれど、自分の性分と

いうのは強固なもので、すぐに力が入ったり、せかせかと動

いたりしてしまう。バカですね。

 こんなブログを書いているのは、そういう自分に対する戒

めでもあるようです。


 まさかあなたも「命がけで生きている」のではないでしょ

うね?

 もしそうなら、苦しむだけなのでそこそこにしておいた方

が身の為です。実際苦しいでしょ?


 「命がけで生きる」のではなく、「命にまかせて生きる」

というのが望ましい生き方なのだと思います。

 と、思いますが、思ったようにならないのがなんとも困っ

ところで・・・。

 “思ったようにならない” ことも込みで「命にまかせる」と

いう詭弁が、有効かもしれません。