2020年12月25日金曜日

昔、クリスマスが有った。



 今日はクリスマス。けど、私には関係ない。

 十年ぐらい前に、「もうクリスマスはいいか」と思い、我

が家ではクリスマスをやめた(「クリスマスをやめた」とい

うのも変な表現だが)。「今年からクリスマスはしない」と

宣言して、それ以来我が家ではクリスマスが無い。


 そもそも、私はクリスチャンではない。私にとって、クリ

スマスは何かを楽しむための口実に過ぎなかったので、いい

歳になって、そんなに「楽しもう」という意識が無くなって

きた私には、クリスマスはめんどくさいものになった。なの

で、クリスマスはやめた。


 クリスチャンでもない大多数の日本人が、毎年クリスマス

に何かをするのだが、それはなぜか?

 答えは、先に書いた。「何かを楽しむための口実」とし

て、クリスマスというものを採用したのだ。なので、「口

実」になれば別に何でもいい。クリスマスが採用されたの

は、当時すでに、欧米ではクリスマスが商売になっていたの

で、そのノウハウをいかせたということだったのだろう。バ

レンタインもハロウィーンも同じようなものだし、その他に

も外国由来のものや日本に元々あるものなど、いろんな「口

実」を掲げて、お祭りをして商売をする。ハロウィーンなん

て、ほとんどの日本人は何の事かも分かっていないだろうけ

ど、そんなことはどうでもいいこと。何か「特別なんだ」と

いう口実になればそれでいいのだから。


 ちなみに、バレンタインデーは神戸の「モロゾフ」がチョ

コレートを売るための企画として日本に持ち込んだものだ

し、たぶんハロウィーンも「モロゾフ」が火付け役だろう。

まだ日本人のほとんどが、ハロウィーンなんて言葉も知らな

い頃に、ハロウィーンのキャンペーンのようなことを始めて

いたからね。


 話が少しそれたけど、今回なにを言おうとしているかとい

うと、人は “「特別なんだ」という口実” を欲しがるというこ

と。そしてそれは何故かということ。


 何かやりたいことが有ればやっちゃえばいいんだけど、何

故か人はそのための「口実」を欲しがる。「○○だから、こ

れをする」と。


 「口実」というのは、自他に対する説明なのだが、何のた

めに説明などするのだろう。さっきも書いたが、何かしたけ

ればやっちゃえばいいのだ。なぜいちいち理由がいるのか?
 

 人の中には何かをしたい欲求があって、人は四六時中、何

かをする為の「口実」を求めている。要するに、人はすぐに

退屈する存在で、なおかつ、退屈を恐れている。

 人が何かをするのは、退屈を排除したいがためだ。

 そのあたりのことは以前に書いているので、そちらを読ん

でもらえればいいのだが(『退屈を味わう』2017/5)、なぜ

「口実」が必要なんだろう? 何度も書いたけど、理由なんか

無しに、やっちゃえばいいのではないだろうか?


 それはこういうことでしょう。

 理由を付けるというのは、そもそもそれに理由が無いので

す。

 意識化できる理由も無く、無意識の、得体の知れない衝動

に突き動かされて何かをしたがっている自分というものが不

安なので、その無意識や不安を覆い隠すために、さしあたっ

て「口実」になるものがあればいい。


 自分の中に溜まった何かをしたい衝動を開放したい。けれ

ど、その得体の知れないものをそのまま生で解き放てば、思

考でまとめ上げているセルフイメージ(自我)が崩壊してし

まう。自分が “得体のしれないもの” になってしまうので恐ろ

しい。だから、得体のしれない衝動を表に出すための器が欲

しい。それが「口実」。

 なので「口実」はなんでもいいし、「何をするか」もなん

でもいい(まぁ、人それぞれに好みがあるわけだけど)。衝

動が解き放てればそれでいいのだから。


 毎朝、家の前の道を小学生たちが通って行く。彼らは、理

由もなく、むやみやたらと走り出す。自分の中にある衝動を

素直に開放する。

 子供たちは、まだセルフイメージが希薄なので、それが壊

れる心配が無いが、大人はそうはいかない。自分の中から、

説明のつかない得体の知れないものが出て来てしまうと不安

になるのだ。「なんだ、これは・・」「これは自分じゃな

い。自分じゃないはずだ・・」と。

 けれど、衝動を押しとどめておくと、やがて精神の崩壊を

もたらす。衝動は解放してやらねばならない。なので、社会

的に認知された「口実」を使って、衝動を解き放つ。


 人間というものは面倒なものだ。

 「人の中には得体の知れないものが渦巻いていて、いつで

も外に出たがっている」と誰もが認識していれば、面倒な

「口実」など必要ない。

 誰かが、突然歌いだしたり、突然踊りだしたりしても、周

りは「出てるな」と思うだけということになる  突然刃物

を振り回したり、銃を乱射したりというのはまた別の話だ

が。

 ただ、そうなると、いろんな商売が成立しなくなったり、

さまざまな権威のようなものが崩壊するだろうから、そうい

う社会は成り立たないだろうな。社会を成り立たせるにも

「口実」が必要だしね。


 社会のさまざまな物事・お話し自体が、得体の知れない衝

動の器としてあるのだから、個人にはそれを使ってもらっ

て、それぞれの中にある衝動のエネルギーを社会に抽入して

もらわないと、社会がエネルギー不足になってしまう。

 だから、12月になると「メリークリスマス」と社会が騒

ぎ、人々の衝動を取り込もうとするのだ。


 まぁ、クリスマスならいいんだけど、うっかりしてると、

とんでもなく醜悪で邪悪で狡猾な “お祭り” に引っ張り込まれ

かねない。自分の中には得体の知れないエネルギーが渦巻い

ていることを知っていないとね。



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