2020年12月31日木曜日

世界にとっての「善」とは何か?



  26日に書いた『感謝を忘れた』という話の中で、 “世界は

全体として「善」であろうとしている” ということを書い

た。

 その時は、なんのことも無くサラっと書いてしまったのだ

けど、“世界にとっての「善」” とは何だろうか?


 あらためて考えてみると、“「善」であろうとしている” と

いうより、“「在ること」は「善」である” というべきなんだ

ろう。だって、「在ること」は実際に “在る” のだから、それ

を「善」としなくてどうする?
 

 物事は見方次第だ。いや、「見方」が物事を生む。

 「見方」とは “ある視点” のことだけど、わたしたちは当

然、自分の “視点” からしか物が見れない。そのことは物理的

にも観念的にも物事に裏と表を生みだす。自分の立ち位置に

も前と後ろが生まれる。けれど、決まった “視点” を持たなけ

れば、世界には裏も表も無い。前も後ろも無い。ピカソの絵

の様に、前と後ろ、右と左、あらゆる視点が同時に認識され

て、物事が明確な形にならない。物事が特定の意味を持たな

くなり、もはや「物事」ではなくなってしまう。すべての要

素が混ざり合い、平準化して、絶対的な落ち着きの中に納ま

る。

 その “絶対的な落ち着き” のことを、私は「善」と呼びた

い。



 なんだか、哲学になってしまった。こういうのはヤだな。

ちょっと口が過ぎる。ワル乗りしてると思う。・・・そう

か、哲学が面倒くさく感じるのは、ワル乗りだからだな。

 意味ありげな言葉を並べて、山のように積み上げて、当人

はそれに浸っているけれど、横から見ればワル乗りだ。意味

ありげな感じに惑わされるけれど、調子に乗り過ぎて炎上し

てしまう You Tuber と大して変わりはしない。まぁ、内容

は有るかもしれないが・・・。


 話がそれた。

 それたおかげで、我に返った。

 “世界にとっての「善」” とは、「意味以前のものとしてあ

ること」。

 “「善」であろうとすること” は、「張り付けられた意味を

落とそうとすること」。

 そういう意味であろう。


 なので、「最善」のことは、黙ることだと思う。

 ・・・困ったね。






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