2020年12月27日日曜日

人が無くしていいものは何か?

 

 アフガニスタンで現地の人たちの暮らしを改善する為に活

動していた中村哲さんが亡くなって一年が経ち、テレビやネ

ットでいくつか中村さんを扱う記事や番組が有った。

 今朝も NHK で中村さんの番組が有って、その中で、中村

さんの著書から紹介されたひとつの言葉が印象に残った。正

確な文章は憶えていないのだが、それはこういう言葉だっ

た。


 「人が無くしてもいいものは何か」


 「人が無くしてはいけないもの」という言葉はよく使われ

る。けれど「人が無くしてもいいものは何か」という考え方

は、普通はしない。

 アフガニスタンの、あらゆる面で乏しい生活をしている人

たちと関わりながら、「それでも生きて行く」「それでも笑

顔を忘れていない」、そのような姿を見ているうちに、現代

人が不要なもの(無くしていいもの)を抱え込み過ぎて、“生

きる実感” を失っているという思いを強くされたのではない

だろうか。


 「人が無くしていいものは何か」


 そう問われた時、理想論として、物・お金・名誉・地位な

どという答えが出てくることだろう。そして、「無くしては

いけないもの」として、夢や尊厳や命などが残るのではない

だろうか?

 でも極論を言えば、私は夢や、尊厳や、そして命さえも、

「無くしていいもの」に入るように思う。それらは個人にと

て必要だと感じるものであり、いずれは失われるものでも

るからだ。


 究極、最後に残るものは、「畏敬」と「慈愛」ではないか

と感じる。



 「人が無くしていいもの」には、「人として、無くした方

がいいもの」と「人として、無くしても人で在り続けられる

もの」があるだろう。そういったものをすべて無くしたあ

と、人としてどうしても持ち続けなければならないものが、

「畏敬」と「慈愛」だと思う。それこそが、人の人たる価値

だろうと。


 その「畏敬」と「慈愛」が人の中から具体化する時に、命

を守るとか、支え合うとか、笑い合うとか、共に泣くとかい

う姿をとるものだと思う。

 「畏敬」と「慈愛」が、人として為し得る、有形・無形の

すべての「善」の始まりの場所だろう。


 「畏敬」と「慈愛」から発するものでなければ、どのよう

な大きなものであっても、「人が無くしていいもの」に入る

だろう。

 「畏敬」と「慈愛」から発するものであれば、たとえかす

かにほほ笑むだけでも、それは価値あるものだろう。


 「人が無くしてもいいものは何か」



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