2020年12月19日土曜日

仏像鑑賞



 ずいぶん前に、東大寺戒壇堂の広目天像のことを書いたこ

とがあるけど、現在、戒壇堂が修復工事に入っているそう

で、広目天像も含め、戒壇堂の仏像が「東大寺ミュージア

ム」で展示されているそうだ。昔は、戒壇堂の壇の上まで上

がれて、四天王像を同じ目の高さで目直かに見ることができ

たのだが、近年は壇の下から見上げるしかなく、お堂の中は

薄暗いので、四天王像の迫真性は感じにくくなっていた。で

も、この度はミュージアムの中ということで、しっかりと見

ることができそうなので、チャンスだと思う。まぁ、同じ目

の高さでというわけにはいかないのだろうが。


 持国天・多聞天・増長天には申し訳ないのだが、なんとい

っても広目天が頭抜けている。あの目!

 同じ目の高さで広目天と対峙したら、ちょっと感受性の強

い人なら視線を捕らえられて釘付けになるか、逆に思わず目

をそらしてしまうことだろう。私は釘付けになったけどね。

(そのあたりのことは、以前書いたものを見てもらえたらと

思う  『広目天の見ているものは』2017/6)


 仏像好きの人には、それぞれに特別に好きな仏像があるだ

ろう。私の場合は、この広目天と法隆寺の百済観音、東大寺

法華堂の不空羂索観音、中宮寺の観音菩薩(伝 如意輪観

音)。どれも、超メジャーな仏像だね。どうしたって凄いも

のは凄いのだ。


 と、書いていて気付いたけれど、今挙げた中には如来は入

っていないね。どうも、人気のある仏像は菩薩や天など、如

来を取り巻くものの方が多いように思う。興福寺の阿修羅や

東寺の帝釈天とか。たぶん、如来像には個性が無く、ほとん

ど無表情だからではないだろうかと思う。

 如来に個性や表情が無いのは当然であって、如来像に個性

や表情が有ってはおかしい。「無」「空」の象徴としての造

形なのだからね。その存在(?)を表現すれば、無表情にな

るしかない。


 「無」「空」であるからこそ、すべてのものを受け入れる

ことができる。

 すべてのものを受け入れることができるからこそ、すべて

のものを救うことができる。


 救うことは、そのものに何かを与えることではない。無条

件で受け入れることだ。無条件で受け入れられることによっ

て、すべての不安や警戒心を落とし、とらわれのない、広く

穏やかな場所へ導かれる。


 機会があれば、広目天の眼差しに自身の不完全さ過剰さを

思い知らされ、そのあとに、慈悲以外なにも持たない如来の

姿を見て、自分を苦しめている自分の中の余分なものをひと

時でも忘れてはどうだろうか?


 仏像は “物” でしかないけれど、多くの人を魅了するような

仏像には、作った者の恐ろしいまでの本気がこもっている。

そこには、言葉にできず、本来形も無いものが、わずかに姿

を現していて、そこに触れることができれば、人は “知るべ

きもの” を知ることもできるだろう。
 

 ちょっと大袈裟な話だったかもしれないけれど、仏像はそ

のためにこそ存在するのだと思う。

 偶像崇拝の、まだ “その奥” があるのだ。

 そういうことでは、人の営みを侮ってはいけないと思う

ね。

 アタマではなく、心の底の方から押し出されてくるような

営みに関してはね。 





 

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