2023年5月21日日曜日

さよなら、人間



 アメリカではホワイトカラーのリストラが凄く増えている

らしい。コンピュータでさまざまなことが管理できてしまう

ようになって、そういう職業の人の仕事が無くなってきてい

るようだ。

 これまでも、文明が進んでさまざまな機械や技術が開発さ

れて、いわゆるブルーカラーの仕事が減り、「頭が良くない

と稼げない」という考えが支配的だったけれど、 ここへ来て

「頭の代わりはもうあるから」という状況になってきた。ロ

ボットが料理を作れたりするようになるのはまだまだ先の話

だろうから、手に職が有る方がかえって有利かもしれない

ね。


 自ら生み出した経済に支配され、文明に支配され、さて、

この先、人は “なに” になるのだろうか?


 日本のことわざに〈 一杯は人 酒を呑み、二杯は酒 酒を呑

み、三杯は酒 人を呑む 〉というのがあるけれど、酒に限ら

ず、人というものは、自分が利用しているつもりのものに呑

まれてしまう。愚かで憐れなわたしたち。

 要するに、アタマが悪いせいだけど、今回の話など「それ

も極まれり」という感じもするね。

 便利だ!楽しい!カッコイイ!などと、アタマの欲求を突

き詰めてきた挙句、コンピュータという形でアタマの機能を

外に作って楽をしていたら、自分自身のアタマが用なしにな

り始めた。人間は消えようとしているのだろうか? 
 

 そもそも人間というものは “なに” なのか? “なに” である

べきなのか? 

 大抵の人間がそんなことは考えもせずに、自分たちが作っ

たり利用したりしていることに呑まれて酔っぱらって生き

る。気がついたら道端で寝ていて身ぐるみはがされたり、ブ

タ箱に入れられていたりというような様相を呈する。


 人は、人になる為に生まれてくるのかもしれない。おそら

くそうだろう。

 人とは “なに” か?

 それを知ること(自分なりに、絶対的な結論がでること)

が、人になることだろう。


 何千年も続けて来たアタマの一人相撲の果てに、人は人に

なる可能性さえ失いかけているのかもしれない。


 人は “なに” になるのだろう?





2023年5月14日日曜日

非常識な〈常識〉



 毎回、非常識なことを書いている  なかには「非人間

的」と言われそうなこともあるだろう  けれど、さてそも

そも「常識」とは何か?


 場所と時代が違えば「常識」も違う。人間にとって普遍的

なことを、社会が「常識」として採用していることはとても

少ないように思われる。それぞれ、その時代と場所に生きる

人の多くが気に入ることで、なおかつ多くの人が理解し実践

できるストーリーを「常識」としているだけなので、あまり

後生大事に扱うものでもないはずだ。いや、むしろ「常識」

というものは、人がより良く生きる為にものを考える「叩き

台」程度に扱うものだろう。なぜなら、「常識」というもの

は、せいぜい「そこそこ良く生きる」程度の基準でしかない

から。


 人が十人いれば、当然十人の能力レベルはさまざまな面で

違う。10万人いてもそれぞれに違う。「常識」というもの

は、その社会の大多数の人が理解し、身に付ける  常識に

従って行動できる  必要があるものだけど、それが災いし

て、「常識」というものは程度の低いものにならざるを得な

い。

 大多数の人は、当然標準的な能力レベルの人だけれど、高

度な判断力や、高い倫理性を持った人の能力基準で「常識」

が作られると、標準的な人はその「常識」について行くこと

ができない。その為「常識」というものは、標準的な判断力

や倫理性のレベルを越えると、少数派にとっての “常識” にな

ってしまい、いわゆる「常識」にならないという宿命を持

つ。かといって、標準的な能力レベルに「常識」を置いて

も、標準的な能力レベルより下にある半数近い人間を取りこ

ぼしてしまうことになるので、これもまた「常識」とするに

は数が足りない。かくして「常識」は、半数以上の人間を取

り込んで「常識」となり得るために、人の標準より少し下の

判断力や倫理性のレベルに落ち着かざるを得ない。せいぜ

い、期待を込めて標準レベルが精一杯ということになる。

「常識」とはそういうものなのだ。


 そういうことを踏まえた上で、私はこのブログを書いてい

る・・・というわけでもない。

 そういうことは踏まえているけれど、私が非常識なのは、

生理的に「常識」のおかしさを嗅ぎ取ってしまって、「ブツ

ブツ」言ってしまうだけだ。「それ(常識)は、人として 

“絶対” ではないでしょ?」と感じてしまうので・・・。


 もう一つ付け加えておきたいのは、私は「常識はレベルが

低いから従ってられない」というような傲慢なことを思って

いるわけでもないということ(もしかしたらそう思っている

のかもしれないけど)。私が非常識なのは、「常識」という

ものは先に書いたようなものなので、そういうものはまった

く取っ払った上で人や世界を見た方が、人と世界の本質的な

ことの理解が進んで、「人として普遍的ですべての人の良い

生き方の指針となるような、本当の意味で〈常識〉と呼べる

ような判断力や倫理性にたどり着けるのではないか」と感じ

ているのだということ。


 たとえば「死」はすべての人が等しく必ず経験する唯一の

ことで、人が死ぬのは「常識」です。けれども、ほぼすべて

の人は「死」を恐れ、忌み嫌う。

 「死」の常識性(必ずのことだからね)を思えば、「死を

忌み嫌い恐れることは、おかしいことじゃないのか」と考え

たとしても、変なことではないはず。

 「死」に限らず、そんな風に考え直してみる価値があるこ

とは、この世にいくらでもある。だから私は非常識にならざ

るを得ない。


 「常識」の中の小さなつじつま合わせに取り囲まれて、人

はそれぞれに小さなつじつま合わせの「生」を生きることに

なってしまうけれど、私はそのことを「悪」だとまでは思わ

ない。人間には仕方がない部分だろう。けれど、いわゆる

「常識」を取っ払って、人と世界の広々とした真実を理解し

た上で、あらためて「常識」に寄り添うのなら、人として楽

に、より良く生きることに繋がるだろう。


 この世界の「常識」に苦しめられている人は無数にいる。

いま苦しんでいなくても、いつ苦しむことになるかもしれな

い。でもその「常識」は仮のもので、そんなもの全部払いの

けても残る、真の〈常識〉が有って、そこに意識を置くこと

がができれば、「常識」のもたらす苦しみから離れて息がつ

ける。

 なので、私は非常識になって〈常識〉を見たい。

 私はとっても「非常識」な、〈常識人〉なのだ。


 

2023年5月7日日曜日

ヘンなの🙄  コロナ ㉚



 明日(5月8日)から、新型コロナが〈指定感染症5類相

当〉という扱いになる。それに合わせるように、WHO も6

日に緊急事態宣言を終了した。ようやくこれで、バカバカし

い騒動にも一応の区切りが付くが、この国ではまだまだ引き

ずる人が大勢いるのだろう。

 しかし、始まりもバカバカしかったが、終わらせ方もバカ

バカしい限りで、世の中というもののアホさ加減というもの

が本当によく分かった三年あまりだった。


 騒動の始まった2020年の前半を中心に、このブログで

もかなりの数(最終的に29回)コロナについて書いたけれ

ど、最期にもう一回、総括みたいなものを書いてコロナとは

サヨナラしよう(落とし前を付けておこう)と思う。


 私はコロナについて、基本的に、「どれぐらい人が死ぬ

か」ということに注目してなりゆきを見て来た。そこが肝心

だからだ。

 たとえば、水虫に感染している人はかなりの数だろうけ

ど、水虫でパンデミック騒動が起きることは無い。それは水

虫では人は死なないからだ(例外もあるだろうけど)。つま

り、人があまり死なないような病気なら、騒ぐ必要は無い。

 コロナも当初、武漢市で一か月に300人が死んだという

ことだったが、武漢の人口(約1000万人)から考えれば

「普通の肺炎死者数の一部だな」と思ったので、取り立てて

問題視するようなものではないなと思ったのだが、なぜか大

騒ぎになった。ヘンなの😨


 大騒ぎになり世界中で死者がどんどん報告されだしたが、

“PCR陽性の死者はとにかくなんでも〈コロナ死者〉としてカ

ウントしろ” ということだと知って、「これではちゃんとし

た死亡率も分からないから、深刻な感染症かどうかが確認で

きないなぁ。WHO も各国の保健機関もなにやってるんだろ

う」と思った。ヘンなの😨


 外国ではロックダウン。日本では自粛・・・。マスクをし

て、どこでも手を消毒して、熱を測って、人とは距離をおい

て・・・、「ウイルスなんてそんなことで防げないでしょ

う?」と思っていたが、案の定防げなかった。にもかかわら

ず、皆それを続けた。ヘンなの😨


 半年足らずでワクチンが開発され、普通なら数年かけて行

われるはずの臨床試験を抜きにして、接種が始まった。私な

ど、常識的に考えて臨床試験の行われていない薬など怖くて

使えないし、誰でもそうだと思うのだが、8 割程の日本人が

接種した・・・。普段、農薬だとか添加物だとか、薬品に不

信感を持っている人も大勢いるはずなのに・・・。ヘンなの

😨


 そうこうしているうちにコロナは変異し続け、2年のうち

に〈デルタ〉から〈オミクロン〉へと変わった。WHOも、日

本の厚労省や政府の分科会も「オミクロン株は感染力は強い

が、病原性は低い」という見解を表明していた。ところが、

2020年度、2021年度(日本の最初の死者がでたのは

2月なので、2月からを一年としています)を合わせた死者

が約2万人だったのに、〈オミクロン〉になった2022年

度一年で死者は約5万人。それまでの5倍になった。あれ? 

病原性は低くなったのでは? 重症化しないようにみんなワク

チンを打ったのでは? ヘンなの😨


 死者数が5倍になったりしたのだから、「これまでの経緯

を考えて、これは当然、政府もコロナ対策を強化・・・」と

思いきや、その死者急増のピーク時に、政府は「3月13日

から、マスク着用は個人の判断で」。そして「5月8日に〈新

型コロナ〉を “指定感染症5類相当” にします」と発表した。

ヘ~ンなの~~😨


 事程左様に、コロナ騒動は大きな動きを取り上げただけで

もヘンなことばっかり。私にとっては、ただただ呆れるしか

なかった3年半だった(呆れるだけでなく、ムカムカと腹も

立ったけど)。

 そして、随分前から思っていることは、“果たして「コロナ

で死んだ人はいる」と言っていいのか?” ということだ。


 新型コロナウイルスに曝露しても9割は無症状で、発症者

の一部が重症化し、その一部が亡くなるそうだが、その重症

者や死者は「免疫力が弱っている人」だと、専門家もずっと

言ってきた。それは普通に免疫力が働いている人には問題は

無いということ。ならば、重症化したり死亡したりする理由

は「免疫力の異常な低下」であって、この度起きていたこと

は 「“免疫不良症候群” の状態にある人の、新型コロナに特化

した経過追跡・収集」だろう。

 死んだのは「免疫不良」が主たる要因であって、死なせた

くないのであれば、問題にして対策を検討すべきは、「全般

的に免疫力を高めるにはどうするか?」ということだと考え

る方が合理的だ。コロナやインフルエンザだけに対する免疫

力を高めるために、予防効果の確率の低いワクチンや臨床試

験さえ行われていないワクチンを使うなんて、ヘンな話だ😨


 そして明日からは、新型コロナは普通の感染症のウイルス

ということになるのだが、先に書いたように、まだまだ引き

ずる人は多いだろう。

 政治家もマスコミも大衆も、当人は考えているつもりだろ

うけれど、実際はただ「気分」で動く・・・。そのことが身

に染みて、よ~~~く分かったね。そして、お次は何かは知

らないけれど、またすぐに人々は何かの「気分」で怖がった

り、異常にはしゃいだり、怒り散らしたりするのだろ

う・・・。「気分」に感染することこそ、怖れるべきだね。


 ホント、人間ってヘンなの🙄


 あっ! そう、コロナよさらば!(私はね。)



 
 

2023年5月4日木曜日

一周回って・・・



 前回の話は「わたしはどこに?」で始まって、「わたしは

ここに在る」で終わった。

 「わたしはここに在る」のは当たり前だ。「脳がどう」と

か、さんざん持って回った挙句が「わたしはここに在る」と

いう当たり前の結論だった。“一周回って元の場所” という感

じだったけれど、その「一周回って・・」という部分が実は

大きい。人はみな一周回ってみなければいけない。その寄り

道なり、無駄骨なりを経なければ、自分を知ることができな

い。


 人は誰でも、世の中から目的意識を植え付けられ、「世の

中」という自分の外にあるものに目を向けながら生き続け

る。そこには、「もうすでに自分は有る」という前提が有っ

て、“「自分はどこに?」などという疑問などは持つ方がおか

しい” という人も大勢いるのだろう。けれど、ある程度セン

シティブな人ならば、生きて行くうちに、「自分ってなんだ

ろう?」というような、疑問なり戸惑いなりを持つのは普通

のことだと思う。


 「生まれて、そして死んで行く。それなら生きることは無

意味じゃないか。“生まれる” というスタートと、 “死ぬ” と

いうゴールの間にある “自分” というのはいったい何なの

か?」

 そんな風な思いがふと脳裏をよぎっても当たり前でしょ

う。逆にそんなこと思いもしないという人の方が異常だと思

う。どれほどスカスカな感受性をしているのだろうと。


 大抵の人は「自分は何なのか?」「自分はどこに?」とい

う疑問を持ち、焦燥が生まれ、世の中から外れた部分に目を

向けたりする。しかし、多くの場合、世の中から外れること

の不安や、世の中から外れることを許さない事情がある為

に、寄り道なり、無駄骨に時間とエネルギーをさくことがで

きなくて、また世の中に戻る。世の中での目的に目を戻すこ

とになる。けれど、気持ちのどこかに落ち着かなさを抱えた

まま生きることになるだろう。そして人生の最後が迫って来

た時、「大きなことを片付けずに来てしまった・・・」とい

う思いにさいなまれるのではないだろうか?


 「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と

いう仏教の言葉があるけれど、「生を明らめ、死を明らむ

る」というのは、「自分(が何であるか)を知る」というこ

とだろう。

 「生が何であるか」「死が何であるか」を明らかにした

ら、その「生」と「死」の間にある「自分」が明らかになる

だろう。そして、それは「一大事の因縁」なのだ。
 
 「仏家」と言っているけれど、それは人にとっての「一大

事の因縁」なのだ。それを放ったらかしにして命を終えるな

んて、草津や別府に行って温泉に入らずに帰るようなものだ

ろう🙄


 寄り道、無駄骨になるかもしれない。けれど、「自分」を

知る為に一周回ってみるべきだろう。それは「自分探し」な

どという世の中での右往左往ではない。前回書いたように、

自分の中に自分を探す。自分を目的にして過ごしてみる。そ

の目的は、結果的に一周回って自分に戻ることになるけれ

ど、その時には、“本当の自分” というものを連れて、この世

の中の「自分」に戻ることになる。


 表面上は、無駄に一周して戻って来ただけかもしれないけ

れど、内面的には前の自分ではない。「一大事」は終えてい

るのだ。残りの人生のゴタゴタや右往左往は余興のようなも

のになる。


 世の中との関りとは無関係に、本当の自分が在る。ゆるぎ

ない自分が在る。

 「一大事の因縁」とは、「一番大事な(最も素晴らしい)

在り方(因縁)」という意味でもあるのだ。


 本当の寄り道、無駄骨は、世の中で右往左往することだ。

 世の中はたしなむものである。お付き合いで遊ぶものであ

る。本気で付き合うものじゃない。その方が、世の中の為に

もなるだろう・・・と、私は思う。




2023年5月2日火曜日

わたしはどこに?



 ちょっと脳のことを考えていて、ふと「脳の中に “わたし” 

という意識の中心となる部分はあるのだろうか?」と考えた

んだけど、そういう話はこれまで聞いた覚えがない。なの

で、いま話題の [Chat GPT] (Bing AI)に尋ねてみたけど

も、「分からん」と言う。どうやら誰も知らないらしい。


 脳の神経細胞は、複数(というより「無数」でしょうけ

ど)が連絡し合ってはじめて活動することができ、その上で

意識も生じる。なので、「わたし」という一点が存在しなく

て当然です。「わたし」は、無数の情報の連絡が醸し出して

いる雰囲気のようなものでしょう。


 この世の中での役割としての「わたし」は、世の中の関係

性の交点あるいは接点がいくつも寄り集まった形で意識の上

にあるのだろう、それに加えて、そんな「わたし」を意識し

ているもう一つの “わたし” というものがある。「考えている

自分を見ている “自分”」のような感覚を誰でも持っているは

ずです。ある視点から自分と世界を見ているような意識

を・・・。

 けれども、わたしたちの脳や身体のどこにも、「ここから

すべてを見ている」とか「ここが自分の中心」という場所は

無さそうです。たぶん、科学はそれを見つけることはできな

いでしょう。なぜなら、科学は「関係」を説明するものだか

らです。

 「関係」をどこまで追求しても、「関係」は、「あるも

の」と「あるもの」の二者をおかなければ成立しないので、

その先にある “他との「関係」を超越するような一点” を説明

することはできない。なので、科学はその目前で堂々巡りを

するしかなくなる。ビッグバンの始まりの一点の前にはたど

り着けないように。ブラックホールの「事象の地平線」の先

は覗けないように。


 自分や世界を見ている “わたし” という意識は、思考で説明

することはできないけれど、誰だってそれがあることを否定

しないでしょう。仮にそれが「この肉体の外にある」と言わ

れても、否定のしようがない。

 「いや、死ねば意識も無くなるよ」という反論がありそう

ですけど、死んだあとに意識が有るとしても無いとしても、

生きてる側からそこにアクセスすることはできないので、

「死んだら意識が無くなる」と言い切れる根拠は無い。もち

ろん「有る」という根拠も無いけれど、有ることとして話を

進めてみることは自由だ。


 私がいま言った “死んだあとの意識” というのは、“個人の

魂” というのを想定しているのではありません。私は「個

人」というものは、この世の中の、さらに人間関係の中にし

か存在しないと思っているからです。「個人」というものも

世の中での「関係性」が生み出すお話しだと思っているの

で、“個人の魂” というのも、お話しの中のものだと思ってい

ます。


 “「わたし」というもの、あるいは「個人」というものは

「自分」の中に有る” というイメージを持っている人が普通

でしょう。まぁ、当然ですね。“「わたし」は、となりのクラ

スの健太くんの中にある” なんてこと誰も思いません(そん

なこと思ってたらかなりヤバい人です)。ならば、「自分」

の中に入り込んで深く探ってゆくほどに、より「わたし」に

近付いて、「わたし」というものが明確になりそうですが、

結果は逆です。


 「自分」の中に深く入り込むほどに、わたしたちは世の中

から離れることになりますが、世の中との関係性によって成

立している「自分(個人)」というものは、世の中との関係

が薄くなるほどに、形を失ってしまいます。「自分」の中に

入れば入るほど、「自分」は消えてしまいます。そして気付

きます。自分の中に「わたし」はいないと・・・。

 わたしたちが普段「わたし」だと思っているものは、驚く

ことにわたしたちの外に有るのです。世の中に有るのです。

 その世の中の一部である「わたし」というものを脳が意識

しているので、あたかも自分の中に有るかのように感じてい

るというのが真相です。では “「わたし」が自分の中に有る

かのように感じている”、 その “感じている” 意識はどこにあ

るのか? その意識こそ “わたし” と呼ぶに相応しいでしょう

が、それは自分の中にあるのか?
 

 “わたし” はどこにあるのか? いや、どこにいるのか? そ

してそれは何なのか?


 私には答えを言うことができません。

 その答えは、思考の外にありますから、言葉にすることが

できません。

 仮に何かの言葉を使って表現しても、思考の流儀に沿って

表現することは不可能です。ですから、それは個々に実感す

るしかないものです。共有できないものです。むしろ、言葉

にしようとしない方がよいものでしょう。


 言葉にしなくても、それは存在している。

 感じようとしなくても、“感じること” 以前にそれは存在し

ている。

 「わたし」を観ている、“わたし” ・・・、それに自分を委

ねてしまうと・・・。

 わたしはここに在る。