2023年5月4日木曜日

一周回って・・・



 前回の話は「わたしはどこに?」で始まって、「わたしは

ここに在る」で終わった。

 「わたしはここに在る」のは当たり前だ。「脳がどう」と

か、さんざん持って回った挙句が「わたしはここに在る」と

いう当たり前の結論だった。“一周回って元の場所” という感

じだったけれど、その「一周回って・・」という部分が実は

大きい。人はみな一周回ってみなければいけない。その寄り

道なり、無駄骨なりを経なければ、自分を知ることができな

い。


 人は誰でも、世の中から目的意識を植え付けられ、「世の

中」という自分の外にあるものに目を向けながら生き続け

る。そこには、「もうすでに自分は有る」という前提が有っ

て、“「自分はどこに?」などという疑問などは持つ方がおか

しい” という人も大勢いるのだろう。けれど、ある程度セン

シティブな人ならば、生きて行くうちに、「自分ってなんだ

ろう?」というような、疑問なり戸惑いなりを持つのは普通

のことだと思う。


 「生まれて、そして死んで行く。それなら生きることは無

意味じゃないか。“生まれる” というスタートと、 “死ぬ” と

いうゴールの間にある “自分” というのはいったい何なの

か?」

 そんな風な思いがふと脳裏をよぎっても当たり前でしょ

う。逆にそんなこと思いもしないという人の方が異常だと思

う。どれほどスカスカな感受性をしているのだろうと。


 大抵の人は「自分は何なのか?」「自分はどこに?」とい

う疑問を持ち、焦燥が生まれ、世の中から外れた部分に目を

向けたりする。しかし、多くの場合、世の中から外れること

の不安や、世の中から外れることを許さない事情がある為

に、寄り道なり、無駄骨に時間とエネルギーをさくことがで

きなくて、また世の中に戻る。世の中での目的に目を戻すこ

とになる。けれど、気持ちのどこかに落ち着かなさを抱えた

まま生きることになるだろう。そして人生の最後が迫って来

た時、「大きなことを片付けずに来てしまった・・・」とい

う思いにさいなまれるのではないだろうか?


 「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と

いう仏教の言葉があるけれど、「生を明らめ、死を明らむ

る」というのは、「自分(が何であるか)を知る」というこ

とだろう。

 「生が何であるか」「死が何であるか」を明らかにした

ら、その「生」と「死」の間にある「自分」が明らかになる

だろう。そして、それは「一大事の因縁」なのだ。
 
 「仏家」と言っているけれど、それは人にとっての「一大

事の因縁」なのだ。それを放ったらかしにして命を終えるな

んて、草津や別府に行って温泉に入らずに帰るようなものだ

ろう🙄


 寄り道、無駄骨になるかもしれない。けれど、「自分」を

知る為に一周回ってみるべきだろう。それは「自分探し」な

どという世の中での右往左往ではない。前回書いたように、

自分の中に自分を探す。自分を目的にして過ごしてみる。そ

の目的は、結果的に一周回って自分に戻ることになるけれ

ど、その時には、“本当の自分” というものを連れて、この世

の中の「自分」に戻ることになる。


 表面上は、無駄に一周して戻って来ただけかもしれないけ

れど、内面的には前の自分ではない。「一大事」は終えてい

るのだ。残りの人生のゴタゴタや右往左往は余興のようなも

のになる。


 世の中との関りとは無関係に、本当の自分が在る。ゆるぎ

ない自分が在る。

 「一大事の因縁」とは、「一番大事な(最も素晴らしい)

在り方(因縁)」という意味でもあるのだ。


 本当の寄り道、無駄骨は、世の中で右往左往することだ。

 世の中はたしなむものである。お付き合いで遊ぶものであ

る。本気で付き合うものじゃない。その方が、世の中の為に

もなるだろう・・・と、私は思う。




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