前回の話は「わたしはどこに?」で始まって、「わたしは
ここに在る」で終わった。
「わたしはここに在る」のは当たり前だ。「脳がどう」と
か、さんざん持って回った挙句が「わたしはここに在る」と
いう当たり前の結論だった。“一周回って元の場所” という感
じだったけれど、その「一周回って・・」という部分が実は
大きい。人はみな一周回ってみなければいけない。その寄り
道なり、無駄骨なりを経なければ、自分を知ることができな
い。
人は誰でも、世の中から目的意識を植え付けられ、「世の
中」という自分の外にあるものに目を向けながら生き続け
る。そこには、「もうすでに自分は有る」という前提が有っ
て、“「自分はどこに?」などという疑問などは持つ方がおか
しい” という人も大勢いるのだろう。けれど、ある程度セン
シティブな人ならば、生きて行くうちに、「自分ってなんだ
ろう?」というような、疑問なり戸惑いなりを持つのは普通
のことだと思う。
「生まれて、そして死んで行く。それなら生きることは無
意味じゃないか。“生まれる” というスタートと、 “死ぬ” と
いうゴールの間にある “自分” というのはいったい何なの
か?」
そんな風な思いがふと脳裏をよぎっても当たり前でしょ
う。逆にそんなこと思いもしないという人の方が異常だと思
う。どれほどスカスカな感受性をしているのだろうと。
大抵の人は「自分は何なのか?」「自分はどこに?」とい
う疑問を持ち、焦燥が生まれ、世の中から外れた部分に目を
向けたりする。しかし、多くの場合、世の中から外れること
の不安や、世の中から外れることを許さない事情がある為
に、寄り道なり、無駄骨に時間とエネルギーをさくことがで
きなくて、また世の中に戻る。世の中での目的に目を戻すこ
とになる。けれど、気持ちのどこかに落ち着かなさを抱えた
まま生きることになるだろう。そして人生の最後が迫って来
た時、「大きなことを片付けずに来てしまった・・・」とい
う思いにさいなまれるのではないだろうか?
「生を明らめ、死を明らむるは仏家一大事の因縁なり」と
いう仏教の言葉があるけれど、「生を明らめ、死を明らむ
る」というのは、「自分(が何であるか)を知る」というこ
とだろう。
「生が何であるか」「死が何であるか」を明らかにした
ら、その「生」と「死」の間にある「自分」が明らかになる
だろう。そして、それは「一大事の因縁」なのだ。
「仏家」と言っているけれど、それは人にとっての「一大
事の因縁」なのだ。それを放ったらかしにして命を終えるな
んて、草津や別府に行って温泉に入らずに帰るようなものだ
ろう🙄
寄り道、無駄骨になるかもしれない。けれど、「自分」を
知る為に一周回ってみるべきだろう。それは「自分探し」な
どという世の中での右往左往ではない。前回書いたように、
自分の中に自分を探す。自分を目的にして過ごしてみる。そ
の目的は、結果的に一周回って自分に戻ることになるけれ
ど、その時には、“本当の自分” というものを連れて、この世
の中の「自分」に戻ることになる。
表面上は、無駄に一周して戻って来ただけかもしれないけ
れど、内面的には前の自分ではない。「一大事」は終えてい
るのだ。残りの人生のゴタゴタや右往左往は余興のようなも
のになる。
世の中との関りとは無関係に、本当の自分が在る。ゆるぎ
ない自分が在る。
「一大事の因縁」とは、「一番大事な(最も素晴らしい)
在り方(因縁)」という意味でもあるのだ。
本当の寄り道、無駄骨は、世の中で右往左往することだ。
世の中はたしなむものである。お付き合いで遊ぶものであ
る。本気で付き合うものじゃない。その方が、世の中の為に
もなるだろう・・・と、私は思う。
0 件のコメント:
コメントを投稿